中華人民共和国・建国時の処刑  (20180908)

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池上彰『そうだったのか!中国』2007

p32
新中国が建国されても、国内にはまだ国民党の残党がいました。
地方には封建的な地元ボスも多く、共産党の改革に抵抗しました。
共産党は、こうした抵抗勢力の排除に乗り出します。

1950年には「反革命活動の鎮圧に関する指示」が出され、
3年間で全国で70万人が「反革命分子」として処刑されたのです。

処刑の多くが公開処刑でした。広場に群衆を集め、群衆の前で
「罪人」の罪名を発表した上で、その場で銃殺
します。

人々はこれを見て「共産党に逆らうとこういう目にあう」
ということを学ぶというわけです。

また、処刑を免れても、多くの人々が強制労働収容所に送られました。
これを「労改」と呼びました。
「労働を通じて改造する」という意味です。




天児慧『中華人民共和国史(新版)』岩波新書
 (池上彰『そうだったのか!中国』の、参考書のひとつ)

p20
国民党が台湾に移った後も、大陸には「匪賊、国民党残留分子、特務」、
封建的な地元ボス、「会道門」らの秘密結社などの勢力がなお
200万人余りを数えていた。
加えて権力の空白、戦後の混乱は社会をいっそう不安定にしていた。

50年だけでも、4万人近くの中共幹部と積極分子が、彼らによって殺害された。

新政権はこうした事態に対処するために、50年3、7、10月の3度にわたり
「反革命活動の鎮圧に関する指示」を発し、秩序化の第一段階に取り組んだ。

同運動は大衆運動として展開され、129万人を逮捕、123万人を拘束し、
71万人の反革命分子を死刑
、240万人の武装勢力を解体した。



私感想:

1950年(昭和25年)は、日本では、終戦から5年後のことである。

日本国内での武力抗争は、1877(明治10)年の西南戦争が最後で、
これは、武士勢力の双方が、完全武装して衝突した事件である。

日本と中国の大きな違いは、「私の認識」(どこかで読んだ)によると、
「文」と「武」の勢力の、優劣・価値意識が、正反対であることである。

(以下、市古宙三『世界の歴史20中国の近代』河出書房新社p21・22より

1796年の白蓮教の乱に対応した清の軍隊「緑営兵」(役に立たなかった)、
 あるいは募集兵の「郷勇」、解散後の「散勇」「游勇」。

 **中国には「ろくでなしでなければ兵隊にはならない」(兵隊はみなろくでなしである)
   ということわざがある。
    政府が軍を募集しても、集まってくるのは、
    住所不定、身元不明の連中、
    白蓮教の乱を起こしたと同じ流民の類で、
    兵隊になれば食えると思った人々。

    彼らを率いる下士官には、街の盛り場で、ゆすり、たかり、博打
    をしている人々が多かった。

  要するに、日本で武士が登場した10世紀から、19世紀末までの、
  漢文風の文章で意思疎通をし、厳しい倫理を遂行し、
  地方政治に責任を負っていた「武」の人々とは、
  成り立ちも気風も、全然ちがうらしい。    )

昔の中国では、文官の方が、武官よりも原則的に上位で、偉かった、らしい。

中国人の「歴史的」な認識では、科挙で選ばれた文部官僚が偉くて上位者であり、
武を司る人々は、ハブれた乱暴者を統率する人々、という印象で、下位者、
だったのだそうだ。

日本と中国では、全然違う、と、私が思っている一事。
時局的な本では、余り見たことがない。

社会の安定と不穏に、どれくらい影響しているのか、わからないけど。

それも、私が思うには、
全国5200基の「ふたこぶ古墳」の被葬者からの伝統なら、
3世紀から19世紀まで、1600年間の地域首長意識、地域経営意識が、
国民意識に影響していることになる。



話は変わるが、
1300年代から幕末(1868年)まで、
初等教科書として使われた『庭訓往来』という本がある。

私作成ページ『庭訓往来』
http://book.geocities.jp/teikinnourai/index.html


この4月往状冒頭の文句はこうである。

***
久しく案内を啓(けい)せず、不審千万、
何等(なんら)の御事(おんこと)に候や。

そもそも、御領興行(こうぎょう)の段(だん)、
黎民(れいみん)の竈(かまど)には朝夕(ちょうせき)の煙厚く、
百姓の門(かど)には東西の業繁し。仁政の甚だしきが致す所なり。

賞罰厳重にして人の堪否(かんひ)を知る、
理非分明(ぶんみょう)に物の奸直(かんちょく)を糺(ただす)は、
万民の帰する所なり。

心に寛宥(かんゆう)の扶(たすけ)を存(そん)し、
強(あながち)にその侘際(たくざい)を好まずんば、
所領静謐(せいひつ)の基(もとい)なり。

毛を吹いて過怠(かたい)の疵(きず)を求むべからず。

意訳:
永らくご無沙汰しておりますが、おかわりございませんか。

領地を治めるに当たって。人民のかまどに厚く煙が立ち、
東西の業(産業一般)が盛んであることは、
仁政が行き渡っているからである。

賞罰を厳重にして、人の長短を知り、物事の筋目をハッキリさせて、
その正邪を究明することは、万民の得心する所である。

為政者が、ひろく大らかな気持ちを持って、
民の失意窮乏を好まないことは、領地平穏の基盤である。

毛の中までも息を吹き込んで、疵(きず)をあら捜しする
ようなことは、してはいけない。
(人のちょっとした罪や欠点まで探し求めるようなことは、してはいけない。
これは『書経』の景帝紀の文句)

***

武田信玄は享保元年(1528年)、
8歳で長禅寺に登って手習い・学問を修めたが、
そのひとつに『庭訓往来』があったとされる。

毛利元就に仕えた玉木吉保は、その自叙伝のなかで、
13歳の頃に寺に寄宿して勉強をはじめたが、
この年のうちに本往来を習い覚えてしまった、と書いている。  

近世では、中江藤樹は10歳で学び、
新井白石は11歳の折に10日で浄書したという。

中国革命というのは、『庭訓往来』にある為政者の心得からすると、
想像を絶するほど恐ろしいものだ。


「文武」や「地域経営感覚」の日中韓の比較ということで言えば、韓国も、日本とは隔絶した世界だったらしい。
呉善花『韓国併合への道』文春新書の始めの方には、李氏朝鮮の不思議な支配体制の話が出てくる。

武士が、領地経営のために、軍事・実学を重視していた日本の常識から考えると、韓国の話も、想像を絶する。
これ一冊しか読んでいないので、深入りはできないが。


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