八鍬友広 先生       (20180924送信)

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突然失礼致します。
先生のPDF「近世社会と識字」を見た者です。

私は現在、海外勢によるニセ情報工作を追っています。

その一例に、2016年に出た、1945年以降の「シベリア抑留」の日本兵
に、字が読めない者がいた、と書いてある本、の事があります。

富田武『シベリア抑留 スターリン独裁下、「収容所群島」の実像』
(中公新書)  〔第29回アジア・太平洋賞特別賞を受賞〕

の、p128、です。
***「多くの初等教育の機会にさえ恵まれなかった農村出身兵士
   にとっては、識字教育の場であり、学びの機会でもあった。」
*****

そのことで昨日も調べていました。(私の昨日のページ)
http://tikyuudaigaku.web.fc2.com/180923genndainoriron.html

そして先生の論文に気が付いた、という次第です。また、
上野耕三郎「産業革命期イングランドの識字率
と労働者階級教育態様」も見つけました。

私は、大学で江戸期古文書を知り、wikiの「候文」の、江戸期の部分を
書き https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%99%E6%96%87

方法論としては「空中写真で見る世界」(物質世界と人間)
http://tikyuudaigaku.web.fc2.com/180319bussitusekai.ninngenn.rekisinododai.html
(折り返しになる場合は、末尾を追加する必要あり)

を、サイトUPしています。要するに、IT関連でない「社会情報論」です。


先生の近代初期の識字率の濃淡に関するお話は、
とても興味深いものでした。


それで、思いつくままに書きます。

先生のお話と重なるところもありますが、先生のお話では、
「統計では見えない、多様な人がいたはず」という部分が、
想像しにくい、人にわかりにくい、と思うのです。

自分の名前が書けるかどうか、
という調査だけでは、日本語伝達能力は、測れないでしょう。

自分の名前が書けるかどうか?イギリス人は綴りだけの問題でしょうが、
日本人は、日用の場合、漢字でなく、かなで書いても、
用は足せることもありそうです。

漢字で書けるかどうか、の調査だったのか、かなOKだったのか、
それがわからない調査方法では、わかったことに限りがあるでしょう。

2001年NHK趣味悠々『古文書を読んでみよう』p38の夫婦取り交わし文では、
妻は自分を「きく」と書き、夫は妻を「喜久」と書いています。

この場合、「きく」と書いたら、自分の名前は書けない、
ということになるかどうか、そこまではわかりません。

妻は草漢字混じりのひらがな多用文で書いていますが、
これなら、ひらがなばかりで書く人もいそうです。
また、片仮名ばかり、という人もいそうです。

山川、日、月、火、水、人、犬、木、草など、象形文字は見て覚えやすく、
それで済む所用、というのもありそうです。

wiki「候文」解説に「ほとんどあらゆる分野にわたって、
下達・上申・互通の関係にある文書が、「候文」の形で存在する」

と書いた私としては、文章でなくても用が足りるなら、
かな単語だけの連絡ができれば、最低限の連絡ができるかも、
と思うのです。

紙がなければ、木片や、かんなの削りカスに「かな(カタカナ)」
で書いて、使い走りの子に渡す、というやり方もありうるでしょう。

私はこのように、江戸時代の社会を、連絡文だらけの社会
だったのではないか?と思っています。

読み書きができない人々の間では、
読み書きできる人を介して、口頭で連絡しあったのだろう、
などど想像するばかりです。

とにかく、行政の末端を担っていた庄屋層は、確実に行政文書をこなした
ことは間違いないです。庄屋層の人達は、全国どこにでもいる人たちでした。

読み書きできない人たち、読み書きできる人たち、その中で、
定住者の庄屋層を中核として、大小商業者、神官や僧、
武士浪人、下級・中級・上層武士がいて、

この人たちが江戸300藩(270?)を構成し、相互に連絡しあっている?

こういう想像をしてみる私としては、1945年時点で、
識字教育が必要だった日本兵がいた、と考える外国人がいる、
ということが、非常な脅威だと思えます。

先生にも、この方面の事件について、関心を持っていただきたい、
と思って、このメールをしたためました。
ご一考いただけると、大変ありがたいです。

久武喜久代  62歳  神奈川在  suisyou2006@nifty.com


農村とか田舎とか、気になって目についた記事

恐怖の実話    そのコメント欄  

土地の境界は人間関係で決まる。
(つまり、いくらでも、力尽くで境界を寄せていくことができる、って言ってる役場もある)

気に入らない人の噂を流せば、教師もその影響を受ける、と、わかっていて悪意の中傷を流す人もいる。
それを勘案しない教師と見なされると、自分が生活の場で不利になるかもしれない。
そう思ったら、教師はその流された中傷も、無視できないだろう。
つまり、教師の公正公平などあり得ない。


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