【公開処刑に関する本】       (20181010)

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ダニエル・V・ボツマン『血塗られた慈悲、鞭打つ帝国』
  (原題は『近代日本形成における刑罰と権力』)

アマゾンレビューで他の方が言っているように、
邦訳の書名はおかしい。

私が頭に思い浮かべるのは、日本との比較としての、
これまでのメール送信にあった、中国共産党事情である。

***中華人民共和国は、1950年の建国時に、70万人を公開処刑。 

 (明治以降の日本では、権力者が、非武装の同国人を、
 人前で処刑したりしたことはない。
  日本人は、人が目の前で殺されるのを、見たことがない。)

 毛沢東の大躍進政策の時には、餓死者4千万人。
 1966年からの文化大革命では、犠牲者50万人。

 1989年の天安門事件では、人民解放軍が、一般市民を1000人以上殺害。

 (日本は戦中戦後の飢餓を克服し、安定した平和な国を作った)***


公開処刑を調べ始めたきっかけは、ユン・チアン『ワイルドスワン』
に出てくる、日本兵による、女学生公開処刑のシーンだ。

  p112「学校の友達が、日本軍の武器庫に入り込んでつかまった。
   女学校の生徒全員が、日本人教師に、処刑場まで行進させられた。

   拷問されたらしい顔を膨れ上がらせて、その子は、
   女学生たち、教師たち、近所の人たちの目の前で、
   日本兵によって銃殺された。(要約)」
http://tikyuudaigaku.web.fc2.com/170303wildswans.jou.html


私のテーマは一貫して、日本人がこのような残虐行為をやったかどうか、である。

フランス革命の王と王妃の公開処刑は有名だし、イギリスの反逆罪での処刑も、
ビクトリア女王の時代まで、公開かどうかは不明だが非常に残虐なものだった。

しかし、日本での公開処刑は?となると、具体的なことはわからなかった。

この本によると、社会の上下の秩序維持が重視されたのだそうだ。
下の者が上の者の権威を無視するような行為
(使用人が主人を殺す、子供が親を殺す、使用人が主人の妻と密通する)

は、「磔」という公開処刑、江戸という木造の都市には極めて危険な放火
は、「火あぶり」という公開処刑だった。

しかしその磔や火刑を、大勢の人が見物した、というような描写は、見つからない。

その他の死刑については、処刑そのものは、江戸時代初期を除いて、
武士も農町民も、「非公開」だったらしい。

ただし明治以降と違うのは、江戸では、市中引き回し、さらし首、というのが日常的だったことである。

【幕末の特殊】

幕末は特殊である。武士による攘夷行動、つまり外国人を襲撃殺害する事件が
多発し、そのため、権力者にはそのような意思はない、ということを示す必要上、

処刑が外国人に公開された。(つまりこれが切腹シーン)
それが、海外ニュースになった。

そのため、日本人は野蛮で残酷、というイメージが拡散したのである。
しかし一般の日本人は見ていないのだ。

不平等条約の一つである治外法権は、外国人が、東洋の残虐な拷問や刑罰
を課せられるのを恐れたためでもある。

不平等条約の解消のために、刑罰も、西洋に準じることが模索された。
明治になると、武士の時代が終わったことを示し、
仁政天皇政権を示すためにも、
磔と火刑は即刻廃止、死刑はすべて、天皇の直接承認が必要、となった。


*****
非常に興味深い本だが、とりあえず、ざっと見た所でUP。
(間違っている所があったら連絡願います)



(20181011)
邦訳のタイトルは、本書の内容から見て、日本が残虐だった、という印象から出ているのではないだろうか。
しかし、他国と比べてみなければ、よくわからないのではないだろうか。

ルイ15世暗殺を狙った犯人に対する残虐刑や、イギリスでの反逆罪に対する長い歴史ある残虐刑、
そして、欧米の秩序維持のための刑罰の話はない。

またアメリカの黒人に対する鞭打ちの写真を見たことがあるが、
日本の鞭打ちでこんなことがあっただろうか、と思うような、すさまじい傷跡が残るものだった、というように、
ちょっと考えてみなければならない、と思うことがある。

中国や朝鮮、その他世界の、近代以前の刑罰とも比べなければならないだろうし、
もちろん、こちらの方面では、ねつ造による情報操作の可能性も、検討する必要もあるだろう。

*****
とりあえず、以下の史料の真贋を検討する必要を感じる。

p31:1862~1865年の間だけでも、江戸では磔が15回行なわれた。
さらにこの4年間に10人の罪人が火刑に処され、
毎年平均100人以上が斬首になっていた。
  (巻末参考文献:平松義郎1957年論文より)

原典の文献は何なんでしょう?

P42:江戸の引き回しが、1862年29人、1863年16人、1864年9人、
1865年17人で、年平均18人、
この4年間に生首が1年あたり30回ほど市中を通って刑場へ運ばれ、
引き回しが年平均で50回程度行われていたことになる。
これは、1週間に1回弱のペースである。

同じ史料らしい。

時期が幕末も末期の頃で、一つの史料。

高札もあれば、往来物での勉強もあり、
口伝の戒めも多数積み重なったこの時期に、

どうして庶民がわざわざ、権力に殺されるようなことをするのか、
ちょっと不思議。何か、幕末特有の現象だろうか。







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