マイメモ:災害対応 20190417
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『石巻赤十字病院の100日間』
『救命・東日本大震災、医師たちの奮闘』
『奥尻 その夜』
『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』
を読む。
もう一つ役に立ちそうなのが『石巻災害医療の全記録』
『奥尻 その夜』
1993年7月12日午後10時17分、北海道日本海側で地震発生。
100メートルの崖が崩れてホテルが崩壊。
数分で巨大津波が押し寄せ、多くの人の命を奪った。
南の岬の、青苗という場所では、地震発生から5分で、
10メートルを超える波が押し寄せた。
岬周辺の約70戸は、この第一波で全滅。津波は水深が深いほど
早い。時速500キロで到達したと推定される。
全員が助かった世帯と、犠牲者が出た世帯を比べると、
海岸からの距離や、高台への距離とはあまり関係がない。
地震直後に大至急で高台に逃げたかどうか、が、分かれ目なのである。
かなりの人が、地震が来たら津波、と思っていた様子が伺える。
それでも、津波が早すぎて、多くの犠牲が出た。
逆に、助かった人もいるのだから、これも凄い。
私も、地震が来たら、何も持たずにとにかく逃げよ、
決して物を取りに帰ったりしてはいけない、と聞いてはいたが、
寝ていたところ、着替えもせず、物も持たず、
暗闇の中を突っ走って逃げる?、う~ん、と考えてしまう。
暗ければ、普段、用意していたとしても、
非常持ち出し袋のありかもわからない。
着替えは?眼鏡は?靴は?車のカギは?なんてやってるうちに、逃げ遅れそうだ。
靴なんかどうでもいい、と、裸足で突っ走った。すごい。
(靴をはかないと、地震の後でガラスが散乱してたりして、ケガをする。
それでも、逃げようと思った人が助かったわけだ。)
印象的だったのは、
「人の頭ほどの火の粉が高台まで飛んだ」p49、
「子どもの握りこぶしほどもある火の粉が空を焦がし、
高台のトタン屋根の上に降り積もり、真っ赤になっていた」p76
というような描写。
これは「火の粉」ではふさわしくないだろう。
奥尻島の範囲で、災害の事態や人の行動が、まとまって見渡せる感じがする本である。
『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』
ストリートビューで北上川を見た時、その水量の豊かさにドッキリした。
これでは、日常的な豪雨でも怖いと思いそうな気がする。
それは、私がこれまでにたくさんの水害を、TVで見てきた、
その経験によるものなのだろうか。
若いころは私も、堤防の強度を信じていたと思うから。
でも私は、津波は家を流すもの、というイメージが張り付いているので、
大川小学校海抜1メートルと聞いたら、飛び上がったに違いない。
なぜここが避難所なのか、なぜ誰も疑問に思わなかったのか、
防災関係者の目が、なぜここには届かなったのか、と、それが不思議だった。
東北全体で、危機意識喚起があってしかるべきで、その流れの中で、
行政や地域住民や大川小学校にも、危機意識があって然るべきではなかったのか?
もし津波の可能性のある低地に住んでいたら、寝るときは普段服、
枕元に、靴・LED懐中電灯・めがね・非常持ち出し袋・キーなどを、置いて寝るといいのかも。
人がおらず、車の少ない、道の広い所なら、車で避難という選択肢も、ありかなあ。