本郷和人 先生         20190427送信

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  史料と実証


歴史学の方法論で気になることがあって、
自分のホームページで活動を展開している64歳です。

今日の日経「日本史ひと模様」、
冒頭の「史料と実証」について思うことがありました。

この「史料」とは、文献だけでしょうか。それとも、
自然や地理、当時の生活に密着する物証
なども含まれているのでしょうか。

中世ではありませんが、
  <前方後円墳が全国に5200基ほどある>、
  ということを史料「あ」とします。

  <記紀はその5200基築造の全国的な社会情勢について
  「一言も言及しない」>、
  ということを史料「い」とします。

これから言えることは、
  <天皇家が古墳時代に運営に関わっていたという証拠は、
  今の所、存在しない>、ということだと思います。

これは、日本史は言うに及ばず、
世界全体に関わる大きな事象認識として、
これからの世代は、念頭に置いておくべきことです。

あるいはまた、自分が生きているからには、
現代から過去へと、延々と遡って祖先がいたはずだ、
と思うことは、

直接的に根拠とする史料があるわけではありません。
しかし、それを否定することはできません。

あるいはまた、
当時の人が同日と認識「できない」ような遠隔地において、
後の人が同日であると判定する場合、

日付が確実と判定されれば、同日であると判断されます。

しかしそれは、
 <地球上の時間と空間が、途切れることなく連続している>、

 <空中写真で地表を写すときに、
 ある場所とある場所が、同時刻に同一空間として認識できるはず>、

というような、「人間の自然世界に関する認識」を背景としています。

逆に言うなら、そのような自然認識・人間認識を背景としないで、
文字だけで判定できるようなことは、少ないでしょう。

私たちは、文字の背後に自然認識・人間認識を考えるから、
物事を理解するのだと思います。


「実証」には、
モノ的に関係する世界、やわらかい地面を歩けば足跡が残る、
というような世界での、「足跡」(痕跡)。あるいは作成物、地理、自然など。
          (物質世界に残(遺)された物。「遺物」)

が必須です。

しかし冒頭の場面でも、「史料の真贋」が問題にされていません。

「史料の真贋」や「虚偽の可能性」を検討しないまま、
史料を根拠として扱うのは、
議論を間違った方向へ持っていくと思います。


以下は私のホームページより
「歴史認識の基本(22枚)
http://tikyuudaigaku.web.fc2.com/190202maimemo.kannryaku.html
「私が戦ってきたもの」
http://tikyuudaigaku.web.fc2.com/190207watasinotatakai.html

「海部氏の中央政界との結びつき」(中世阿波海部と細川政権の結びつき)
http://hiyori.yamanoha.com/kaifusitotyuuouseikai.html
「徳島県海陽町のこれまでの歴史記述の問題点」
http://hiyori.yamanoha.com/rekisi.ime-jiup.html


久武喜久代  神奈川在  suisyou2006@nifty.com
「地球と社会の研究所」
http://tikyuudaigaku.web.fc2.com/index.html

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