マイメモ:これまでの歴史学と違ってきた、その背景   (20190725)


                           送信済みリストに戻る



この辺で、私が、これまでの歴史学と違ってきた、その背景を列挙しておこう。


基礎:
 地球世界の立体映像イメージを背景とした「時間と空間の連続する物質世界」



(1)古代の情報網

7世紀に天皇家が登場する前の古墳造営時代に、
全国的な共通要素の広がりがあった。

5200基の前方後円墳が築造された350年の間に、
交通網が張り巡らされ、おそらくそれに伴って、情報網と物流網が成立していた。

  (私は、広範囲な情報網の核は、「カタカナ」ではないかと推測を立ててみる。
   とがった石や鉄片で板・石等に傷を付けることで、情報の伝達が出来る。
   墨も筆も紙も不要な文字。???)

天皇家は、古墳時代の社会を基盤として支配を確立した。
しかしなぜか、古墳築造社会については、その内情を、ほぼ抹消してしまった。

これによって、「天皇家が古墳時代に運営に関わっていた」
という証拠も、消えてしまった。


(2)江戸時代の情報網

江戸時代について、一般の人が知っている歴史と私の印象で、
かなり違う所と言えば、それは、古文書の存在状況のことだろう。

それは、社会を成り立たせる情報網の、物質世界での広がり方を、
冒頭の基礎イメージに重ねれば、考えざるを得ない内容だった。


私サイト『庭訓往来』「新版・候文」ページより
http://sawayaka.yukimizake.net/190518New.souroubun.html

 江戸時代には、公文書・実用文などのほとんどを「候文」文体が占めた。

 文書の種類  1、幕政関係・藩政関係の公的文書
          2、農村・漁村・都市関係文書
           3、産業・交通・商業・貿易関係文書

 以上のような、ほとんどあらゆる分野にわたって、
  下達・上申・互通の関係にある文書が、「候文」の形で存在する。

私はもとより素人で、一般サラリーマン家庭の主婦以上の、移動・行動はしていない。

だから、手に入る数多くの古文書の本を、ためつすがめつ見て、
「僻地」の郷里にも古文書が存在したことを考えつつ、
ほんの数行の専門家の言を頼りに、このような文章にまとめた。

このような広範囲な話を検証するのは至難の技である。

しかし、そうではない、という話が出てこなければ、
ある程度は妥当と言えるだろう。

吉田豊『大奥激震録』の後半・2話部分が、皇女和宮が江戸入りする際の、
7カ月に渡って街道沿いで発せられた文書例である。

どれほどの大騒ぎだったかが知れるのだが、街道沿いの人々が、
順送りで署名確認して共同で活動していることも、よくわかる例である。

江戸期の各地・各時代の、文書が消えてしまった事例についても、
このような申し送りが存在したであろうことが、想像できる例だと思う。



南京事件や慰安婦問題、関東大震災時の朝鮮人虐殺、徴用工と、
現在、いろいろな、民族差別や蔑視が原因と言われていることがある。

しかし、海外勢や左派の面々に非難されているこれらの問題は、
江戸時代の状況から現代日本社会へと通して考えようとした場合、

整合しない面が多いのではないかと思う。

inserted by FC2 system