岩波書店 MF                                   (20211125送信)


     歴史学における「贋作・虚偽・錯誤」検討法

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 *二重線以下が、送信した文。

  加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』も岩波だ。

        加藤陽子氏は著書で、空襲や原爆で「人間がきれいに消えた」と書く。
       『満州事変から日中戦争へ』岩波新書の<はじめに>の冒頭である。
          

     加藤陽子 『満州事変から日中戦争へ』岩波新書2007 (はじめに) (写真版) 
      http://tikyuudaigaku.web.fc2.com/a210115kato.hajimeni.html  
         (上記ページの「戻る」ではなくて、パソコン画面の左上の「←」(戻る)で戻ってください)

     「1945年、人間や建物をきれいに消し去った空襲や原爆の体験を人々に残し、
     日本の戦争は終わった」と出てくる。

     空襲や原爆で「人間がきれいに消えた」とは何事だろうか。
     自分が、苦しみながら焼けただれ黒焦げになって死んでいくならどう感じるか、想像し
     てみるべきだ。

     このページの最後もおかしい。
     「多くの日本人にとって戦争とは、あくまでも<故国から遠く離れた場所>で起こる事
     件、と認識されていた。」

     加藤陽子氏は、先に本土で、大規模な空襲が繰り返されていたことに言及しない。
     一晩で10万人が死亡した3月10日の東京大空襲は、3月26日開始の沖縄戦より前だ。
     まるで本土では「何もなかった」と誘導しているようだ。

  12月号の『世界』も、学術会議任命拒否に会った6人が、顔をそろえて論陣を張っているのを見つけた。
  その出版社にこれを出していいのだろうか、という気はする。この出版社、何をしているのだろう?
  しかし、こういう世間からも学問からも少し引いた話となると、『思想』を出している所かなあ、
  という感じで、まあ、やってみるしかないです。



改訂版・岩波書店 御中 


以下は歴史学の贋作・虚偽・錯誤の検討法について述べたものです。
どこかに掲載していただきたいのです。

どこへ出せばいいかと、いろいろ考えてみたのですが、該当する所がわかりません。

しかし、これは常に差し迫った問題だと思います。それで、出してみます。


      歴史学における「贋作・虚偽・錯誤」検討法



私が歴史学に「贋作・虚偽・錯誤」という概念があるのを知ったのは、かなり昔のことである。
それは1974(昭和49)年の大学1年の時のことだった。今から50年近く前のことである。

大学の歴史学入門で使った、戦前の著作の本に出てきたのである。
それは1935年(昭和10年)に書かれた本で、今井登志喜『歴史学研究法』という本だった。

私は、そこに書かれている「贋作」の検討法や、
「虚偽・錯誤」がどのような時に発生するか、という話は、とても珍しくて変わっていると思った。
それは新しい知識だったし、普通の人が踏み込まない、秘密めいた世界だと感じたからである。

私はこの、歴史学者が、文書の真贋や、作られた時代や、内容について吟味するやり方は、
とても合理的で、珍重されるべきものだと思った。
そしてそれは、普通の人が知っていて役に立つ話だ、とも思った。

なぜなら誰だって、「贋作」で騙されたり、「嘘や間違い」に振り回されたり、
は、したくないだろうから。

「贋作・虚偽・錯誤」は、日常世界にもある話だ。ニセモノの絵画やブランド品とか、
誰かの嘘とか、間違いとか、こういう話は、日常でもよくぶつかる問題である。
その検討方法を知っていて損はない。

「ニセモノや嘘や間違い」は、「本当・本物」というものがあって、
「ニセモノ」や「嘘」や「間違い」がわかるのである。
だから、「本当・本物」という概念も、とても大事である。


私が今井登志喜『歴史学研究法』を知ってから50年近くの時が過ぎた。
しかし「贋作・虚偽・錯誤」の検討法は、一体どこへ行ってしまったのだろう。
社会には現実に「贋作・虚偽・錯誤」が発生するのに。

そこで私は、ここで簡単に今井登志喜『歴史学研究法』を紹介しようと思う。

今井登志喜は戦前、東大西洋史の教授だった。『歴史学研究法』は、その名の通り、歴史学の研究法である。
現代社会の話ではない。しかし私は、その整然としたシステマティックな説明に感銘を受けた。

そこにある文書の真贋や作成日時、書いてある内容の真偽・錯誤等の検討法は、
社会を駆け巡る情報を検討する時に、参考にできる。

また「贋作」や「嘘」や「錯誤」に騙されないように、心に留めて、考える材料にするべきことである。

だから以下に、今井登志喜『歴史学研究法』をレジュメの形で示す。ただし、私の解釈によるものである。

*「史料」という言葉について。現代に関するものは「資料」と呼ぶが、歴史関連と認識された時に「史料」と呼ぶ。
「史料批判」とは史料の検討法のことである。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
事件の発生から考える史料批判(贋作虚偽錯誤検討法)    (原稿用紙約16枚)                        

目次 1【事件の経過と史料】
    2【歴史と事実】
    3【歴史と証明】 
    4【史料批判の必要性】(1、贋作と錯誤)(2、内容の信頼性)
    5【史料批判】 (Ⅰ)外的批判: 来歴・真贋・発生・本源性 (Ⅱ)内的批判: 錯誤・虚偽 

1【事件の発生経過と史料】

1、事件発生
      *(既存の背景はすべて史料である。
       人間関係、社会状況、時代背景、風俗習慣、地理、技術、素材、文字、言葉。

       また天気・季節・時刻・月の満ち欠けなど、
       自然から制限を受けて可否が判定できる等、自然も史料)  

 ① 事件・事実の当時、その場で、当事者が、残した史料。

   *(例えば、「遺物」としては、足跡・血痕・指紋、作業の痕跡。)     

  あるいは「証言」史料としては、当事者の、
   連絡・指示のための手紙、事務的な記録。

  社会や組織を運営し、機能させるために作成した史料。
   備忘のためのメモ・日記等。

   *(「証言」史料には、遺物という側面もある。
      紙質、筆跡、文章形式、言葉などが、
      当時の当事者に該当するかどうか、そのための判定物にもなる)


  ②第三者がほぼ同時期に作った証言史料。第三者の、
   連絡・指示のための手紙、事務的な記録。
  社会や組織を運営し、機能させるために作成した史料。
   備忘のためのメモ・日記等。


   *(この場合、事件から時間的・空間的に離れるに従って、信頼性は落ちる。)
    
   
2、時間や場所が隔たっているが、当事者あるいは第三者が自ら作った史料。普通の覚書や記録の類。
        
3、1と2を根拠として、それらを関連付けてまとめたもの。家譜・伝記・覚書・記録文・報告書。

4、大体から見て、作成年代・場所・人物が、まず差し支えないと思われても、明白でないもの。
  またそれは明らかであるが、古いために転写され、混入、脱落、変化がありそうだと考えられるもの。
    (伝来・流通の過程で、よくわからない史料も出てくる)

5、それらを参考にしつつ書かれた編纂物で、精査と公平を旨として書かれたもの。
    (これらも発生した史料の内に入る)

6、その程度のさらに落ちた編纂物、伝説、美文、歴史画、その他。
     A、道徳的感化や芸術的効果、教訓や娯楽を目的に書かれた物語。
     B、意図的な宣伝目的を持つ文献。
     C、編纂された歴史書
     など。  (同)

たいていは、立場によって利害関係が発生する。贋作や錯誤や歪曲・虚偽が発生する。
史実のかく乱情報は、史実が発生した当初から現在に至るまで、存在しうる。

利害を左右するとなると、これら当事者による情報は、
本人あるいは他者によって、捏造・虚偽の対象になりやすい。


証拠となる痕跡や遺物、文献、証言、絵画・写真等が、「実物かどうか」「内容がどの程度本当か」

を判断するのに必要なのは、
その史料を構成する要素についての、同時代の正しい史料である。


2【歴史と事実】

「物語や小説」は事実である必要はないが、
「歴史」は事実でなければならない。

では、歴史的事実とは何か。
それは「証明されたこと」である。

物語や小説は証明される必要はないが、歴史的事実は証明される必要がある。

物質世界は、時間と空間とエネルギーが連続する、絶対的なものである。

私たちは、古代から現代へと、時間短縮で観察したり、
あるいは逆に現代から古代へと、時間を逆回転させることを、想像することもできる。

これらは「物質世界の時間と空間の連続イメージ」である。
そしてそれは、物質世界が「個々の人間の認知を超えて存在する」ことを想起させる。

世界は、人間の認識に関わりなく、「ものの存在の仕方それ自体」で存在するのである。

それゆえ概念的・理論的には、人間の行動・思考が、あったかどうか、も、
絶対的な正否があるはず、なのである。

しかし、痕跡が残る行動というのは少ない。人が認識する自分の行動も限られる。
他者が認識する行動も少ない。ましてや、書かれる事は少ないし、
人の証言は、錯誤や虚偽も多く、信頼できないことが多い。

そして緊張関係や敵対関係は、組織的・意図的な情報操作を発生させる。
社会を支配し、制御するための情報操作も有り得る。

いかにして「証明」に近づくか。 それは現実的な課題である。   
         


3【歴史と証明】


証明するためには、証拠が必要である。
その「証拠」となるものを、 歴史学では「史料」と言う。

「史料」とは、
「過去の人間の著しい事実に証明を与えうるものすべて」である。

文献・口碑伝説のみならず、碑銘、遺物・遺跡、風俗習慣、地理、自然など、
「証明を与えうるものすべて」である。

ただし、その性質から考えて、史料には2種類あると言える。

 (1)史料が物質存在として、ある歴史的事件・歴史的対象と、
   物質的に関係しているもの。   

 (2)史料が歴史的対象に対して、
    人間の認識を経由して、人間の論理で整理され、言語で表現されている
    という関係にあるもの。         

たとえば、
(1)は、モノ的に関係する世界、やわらかい地面を歩けば足跡が残る、
というような世界での、「足跡」(痕跡)。あるいは作成物、地理、自然など。

          (物質世界に残(遺)された物。「遺物」である。)

(2)は、人が歩いているのを見て、誰それが歩いていた、
と証言する世界での、「証言」である。

(1)を考察の範囲に入れないものは、歴史とは言えない。
歴史は、物語や文学ではないのだ。

歴史とは<「人間の認識に関係なく存在」する「物質世界」の「裏付け」>があるものを言う。
ここで言う「物質世界」を、「実体」「実在」「存在」と言う人もいる。


4【史料批判の必要性】

(1、史料の贋作と錯誤)

経験的に言って、史料として提供されるものには、しばしば

  「全部もしくは一部が本物ではない(贋作)」とか、
    あるいは
  「それまで承認されていたようなものではない(認定の錯誤)」、
    というようなことが発生する。

                 (参) 過去に出現した贋作の例

歴史学では、経験上、
「証拠物件として示された史料が、贋作」であることが珍しくない。

従って、「史料が本物かどうかを吟味する」ことが、
最初の手続きであり、基本なのである。

また、認定の錯誤の例としては、
「その史料が、違う時代、違う人物に当てられ、
間違った説明が加えられて、そのまま踏襲されたりする」ようなことがある。

そしてこのような偽造や錯誤が、全部でなく、一部であることもある。

このように、史料の贋作、
あるいは説明の間違い、構成の混乱などは、よくあることである。

だから 史料の正当性・妥当性は、常に注意深く検討されなければならない。

(2、証言内容の信頼性)

また、史料が証言する内容について、
どの程度信頼できるか、どの程度証拠力があるかを、評価する必要もある。

この場合、証言者は、
  論理的な意味で事実を述べることができたのか、
  倫理的な意味で事実を述べる意志があったのか

という二点で検討されなければならない。

このように、「史料」はそのままでは、事実の「証拠」として扱うことはできない。
必ず、その「真贋
・錯誤」と「内容の信頼性」という面を検討しなければならないのである。

その上で、収集された多くの史料が、証拠物件として役立つかどうか、
またもし役立つとしたら果たしていかなる程度に役立つか、
を考察する。

以上のような作業を「史料批判」と呼ぶ。



5【史料批判】     
                                
史料批判は一般に、
   史料の外的な条件を検討する「外的批判」と、
   史料に記された内容を評価する「内的批判」
とに分けられる。

〔史料批判(Ⅰ)外的批判〕

史料がどのように証拠物件として使えるかどうかを検討する。
そのためには、史料の「外的な条件」を把握することが必要である。
これらは史料の証拠価値の判定基準となる。

「外的な条件」とは何か。具体的には、以下のような観点で検討されることである。
     (1)贋作でないかどうか(真贋の検討)
     (2)史料が作られた時・場所・作者とその人間関係はどうか(発生の検討)
     (3)オリジナルの史料かどうか(本源性の検討)

  *問題の史料を、いつ・どこで・誰が・どのように、発見したか。
   そして伝来の経緯はどのようなものだったか。これらは「来歴」情報である。

   来歴は、上記、真贋・発生・本源性、
   これら三つの検討事項の全般に関わる、重要な要件である。


(1)贋作でないかどうか(真贋の検討)

1. その史料の形式が、他の正しい史料の形式と一致するか。
  古文書の場合、紙・墨色・書風・筆意・文章形式・言葉・印章などを吟味する。

2. その史料の内容が、他の正しい史料と矛盾しないか。

3. その史料の形式や内容が、それに関係する事に、発展的に連絡し、その性質に適合し、蓋然性を持つか。

4. その史料自体に、作為の痕跡が何もないか。その作為の痕跡の吟味として、以下のようなことが挙げられる。


   (1) 満足できる説明がないまま遅れて世に出た、というように、
      その史料の発見等に、奇妙で不審な点はないか (来歴の検討)

   (2) その作者が見るはずのない、またはその当時存在しなかった、
      他の史料の模倣や利用が証明されるようなことがないか。

   (3) 古めかしく見せる細工からきた、その時代の様式に合わない、時代錯誤はないか。

   (4) その史料そのものの性質や目的にはない種類の、贋作の動機から来たと見られる傾向はないか。

その他、種本にした史料との比較によって、明らかに贋作とわかったりすることもある。


「史料に付された説明」に錯誤がある場合についても、
贋作を検討する作業の中に、適用できるものが含まれる。

「混入」や「変形」がある場合の吟味の基礎は、詳細な比較研究である。


(2)史料が作られた時・場所・作者とその人間関係はどうか(発生・作成状況の検討)

日時・場所を明らかにすることは、事の経過や状況を知るための基本である。

古い時代の文学作品等には、作者や著作日時が不明のことが多い。

また公私の記録文書、ことに原本がなく写しのみの場合、
例えば人々の書簡集のようなものには、これらが欠け、または不十分なことが多い。

だから、史料作成の日時を考察する。外的・内的の両方の吟味を行う。

外的吟味
    1、ある日時の明らかな史料のことが、その史料の中に出てくる。

    2、ある日時の明らかな史料の中にその史料の事が出てくる。

    3、共存する他の時間的関係の知られている史料から判断する。

    4、時として技術的関係からの判断による。たとえば手紙に日付がなくても、
      その到着した時がわかっている場合。

    5、それが時間の知られている史料の断片であることの考証による。など

内的吟味
    1、比較研究。すでに日時の明らかにされている他の史料と、
      外形的特徴、たとえば様式・材料・技術等を比較する。

    2、文献的史料では、特に言葉、スタイルなどがおおいに標準となる。
      文語体でも時々何か時代をあらわす要素が含まれている。

    3、記録等の場合、その記事の内容に手がかりを求め、それによって判断する。
      ある時より、前か後かを明らかにできるだけでも、その史料の利用に役立つ。

その他、「場所」の吟味、「人物」の吟味など。

言語で表現された史料の場合、その史料の「作者」の地位・性格・職業・系統等が明らかにされれば、
それがその史料の信頼性等を判断する根拠となって、その史料を用いる際に都合が良くなる。


(3)オリジナルの史料かどうか(本源性の検討)

史料の利用について特に注意するべきことは、「オリジナル史料」と「借用史料」の区別である。

各史料の要素を細かく分解し、親近関係が疑われる史料と比較し、
これによってそれらのオリジナル性や従属性を確かめる。

その理論的根拠は

    1、一つの出来事について、各人の観察把握の範囲および内容は、
      すべての個々のことについて、特に偶然的なことについて、
      みな一致するということはない。

    2、各人が同じ一つの事を述べるとき、その表現の形は同一ではない。

    3、すでに他人によって言語的に発表された表現内容に一致する証言は、
      少なくともその付随事項の一致により、
      またしばしば誤解があることによって、
      その従属性が明らかになる。

    4、二個以上の報告が、同じ内容を同じ形式で述べる時、それらの史料には親近関係がある。
      これらの史料にどういう系統関係があるかを判断する。

この作業がなぜ重要かというと、親近関係にある史料の中で、証拠価値があるのは、
ただオリジナルな史料だけ、だからである。

その他は、原典の借用であるために、いかに多数であっても、決して証拠力を持たない。

ただ、そのオリジナルな史料が既に失われて存在しない時に、

それを借用した比較的原形に近いものが、
現物を反映するものとして、重んじられるのである。
 


〔史料批判(Ⅱ)内的批判〕
                                      
史料をどの程度信じるべきか、どの程度の証拠力があるかを検討する。
同一事実に対して直接証人の「証言」が矛盾していることは少なくない。

「証言」を提出した人物は、
論理的な意味で真実を述べることができたのか、
倫理的な意味で真実を述べる意志があったのか、
この二点においての評価が必要である。

史料が証言する内容について、その信頼性が損ねられる例は多々ある。
その原因には、大きく分けて「錯誤」と「虚偽」がある。

[錯誤の例]
     1.感覚的な錯誤

     2.総合判断の際の先入観や感情による錯誤

     3.記憶を再現する際に感情的要素が働いて誇大美化が起きるような例

     4.言語表現が不適切で、証言がそのまま他人に理解されない例

 直接の観察者でも、錯誤が入ることはよくある。
ましてや証言者がその「事件を伝聞した人」である場合、
誤解・補足・独自の解釈等によって、さらに錯誤が入る機会は多い。

ことに噂話のように非常に多数の人を経由する証言は、
その間にさらに群集心理が働いて、感情的になり、錯誤はますます増える。

[虚偽の例]
     1、自分あるいは自分の団体の利害に基づく虚偽

     2、憎悪心・嫉妬心・虚栄心・好奇心から出る虚偽

     3、公然あるいは暗黙の強制に屈服したための虚偽

     4、倫理的・美的感情から、事実を教訓的にまたは芸術的に述べる虚偽

     5、病的変態的な虚偽

     6、沈黙が一種の虚偽であることもある

このように、言語史料である証言には、錯誤・虚偽が入る機会が多い。

事件の当事者の報告は、その事件を最もよく把握している人の証言だ、
という意味では最も価値がある。

これらは史料が本物と判断される場合、
通常は「一次史料」「第一級史料」と呼ばれて、
珍重される種類のものである。

しかし一方、当事者はそのことに最も大きな関心を持っているために、
時として利害関係・虚栄心などから、真実を隠す傾向がある。

この点においては、第三者の証言の方が、信頼性が高くなる。
錯誤はなくても虚偽が入るのだ。(当事者報告の虚偽の可能性)

         *但し、第三者だから公正中立だ、ということには、ならない。
          第三者にも、他者からの影響があることがある。

(以上、今井登志喜『歴史学研究法』の、私の改訂版。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


1【事件の発生経過と史料】は、今、自分が生きている時代に起きたことが、
時を経て歴史になっていく、その過程の、「戦前の考察」の一例である。

歴史を、昔の話だ、と思っている人が多い。
しかし、今、自分が生きている時代に起きたことが、時を経て歴史になっていく。
そういう意味では、自分も歴史の中を生きているのである。

歴史的事件が、発生して情報となり、時間の経過とともに、社会のなかで変わって行く。
過去の例から導き出したその経過は、
<現在の事件が将来、どのような情報となって伝わるか>を予想するための、参考にはなるだろう。


3【歴史と証明】の、以下の文について。

 <<歴史とは<「人間の認識に関係なく存在」する「物質世界」の「裏付け」>があるものを言う。
 <<私の言う「物質世界」を、「実体」「実在」「存在」と言う人もいる。

私は上記の「物質世界」という言葉について、以下のように説明する。

  〇物質世界

物質世界は、時間と空間とエネルギーが連続する、絶対的なものである。

私たちは、古代から現代へと、時間短縮で観察したり、
あるいは逆に現代から古代へと、時間を逆回転させることを、想像することもできる。

これらは「物質世界の時間と空間の連続イメージ」である。
そしてそれは、物質世界が「個々の人間の認知を超えて存在する」ことを想起させる。

世界は、人間の認識に関わりなく、「ものの存在の仕方それ自体」で存在するのである。
                       (ここまで、参:2【歴史と事実】)

長い長い宇宙的な時間や、出現して時わずかな人類、地球をとりまく宇宙環境、地球の形状等。
これがつまり、宇宙空間に浮かぶ地球上の、物質現象として世界をとらえることの、基本である。

宇宙全体の組成を極小粒子とエネルギーとして捉えなおす方法があるように、
地球という生命を含む物質圏の組成を、極小粒子とエネルギーとして捉えてみる。

それは、空間を占めて質量を持つ「何か」でできた世界である。

生まれたばかりの人にとっては、この世界にはまだ名前がない。
その意味では、人が生まれ出たこの世界は、生まれ出た人にとっては、
「ただ在るだけの世界」である。

この世界を、私たちは「物質世界」と呼んでいる。

  ○空間を占めて質量を持つ、物質の存在の仕方、だけの世界

空間を占めて質量を持つ、物質の存在の仕方、だけで世界を考えてみよう。

人体は、膨大な数の細胞群の一集合形態であって、
  原子でできた分子構造物が絶えず出入りしている生命である。

個々の人間を取り巻く「物質関係」というのは、常に「物質」に取り囲まれているということである。

 「酸素」や「窒素」の混合物である「空気」、「炭水化物」や「たんぱく質」や「ミネラル」
  などの「食物」、「水」、あるいは「光」、「気温」、「気圧」、「重力」、等々の「物理的要素」。
  一人一人の人間の体が、そういう物質の環境の中で、いかに精緻な仕組みでもって生命を維持しているか、

そういうことが「物質関係」なのである。

人間は膨大な数の細胞の集合体であり、
常にその細胞を入れ換えつつ、
自分の体というものの恒常性を維持している、生物である。

細胞の交代率で考えると、どこまでが自分で、どこまでが自分でないのか、
判然としないながらも、自分という恒常性は維持されている、一個の生物である。
 
  〇自分とは何か。

そこで考える。自分とは何か。

考えている頭だろうか。しかし、頭で考えるためには、血を送る血管が必要だし、
血を送りだす心臓が必要だし、その心臓を動かすエネルギーを取り込むために、
口や消化器官が必要だし、口に物を運ぶために手も必要だし、
食べ物に近づくためには足も必要だ。

目は、人体構造に規定された働きをする器官である。

光の波長の全てを捉えるわけではない。
見える波長もあれば、見えない波長もある。

錯視テストを行えば、みんな一様に錯視を発生させる。

このように人間の目は、人間固有の独特の見方をするのだ。

耳も、音波の全てを聞き分けるわけではない。
皮膚も、温寒を知覚する幅は狭い。嗅覚も限られたものである。

   このように人間が知覚するものは、人体というセンサーによって、
   極めて制限されている、固有のものなのだ。

あるいはこのようにも考える。

自分はかつて一個の受精卵だった。最初の細胞分裂を実行した。
それからどんどん細胞分裂。栄養を吸収して、なにやら複雑な器官を持った生物に成長した。

最初の一個からすると、この膨大な細胞群の中で、自分はどこか?
大事なのは心臓か?違う。
どきどきしてるけど、その周りにある肉や骨や手足や目鼻がないと、自分ではない。

では脳だろうか?違う。 目や体がないと、感じることができない。
感じる体がないと、脳だけでは自分にはなれない。

こうしてよく考えてみると、人体は全体として考えないと、極めて都合が悪いのである。

また、前後左右上下という空間認知は、人体の構造を基本にした区分だとも言える。

なぜなら、もし認識主体である生物が、ヒトデやクラゲのように、前後左右が存在し
ない生物だったら、果して前後左右などという区分を、するだろうか。

前後左右は、人間のような体をした生物にとっては意味があっても、
体型の違う生物には意味がない、というようなこともあり得るのである。

10進法が、人間の両手の指の数に対応しているから普及度が高い、
というのも、似たような理由が考えられる。

また、人体の大きさというのも、そこそこの大きさという水準があればこそ、
物が流通し、何に使えるかという目安もできる。

身近な身の回りの道具はすべて、人体基準の認識枠でできたものばかりだ。

言語には、その言語固有の区分、というものがある。
しかしそれは、最終的には、生物としての「人体」という共通基盤を基準にして、
修正可能になるだろう。

例えば、色を示す範囲が言語によって違ったり、水と湯の区別がなかったり、
体の一部を指す名称が、言語によって範囲が違っていたりするようなことがあっても、

センサーである人体が、生物のレベルで共通なら、
何を指し示す言葉なのかは、理解できる範囲のものとなるだろう。

このようにして、人体はその全体が認識の基準である、と言える。

デカルトは「我思う故に我在り」と言った。しかし、頭だけでは考えることはできない。

知覚のすべてが、人体という制限内のことである。
そして人体という基盤なしで考えることはできない。

さらには言語という他者から学習したものもある。
他者なし、言語なし、では考えることも不可能だ。

話す言葉は物質世界では音波である。文字とは、物質世界に形をなす形象である。
人間は、他者から発せられた外部世界の交信事象をとらえて、脳内機能で処理する。

   〇空中写真で見る水平世界

空中写真(航空写真、グーグルアースの垂直画像)は社会の姿を映し出す。
それは、ムクムクと成長してきた「人」が、
平面上に、水平に分散して生活している姿である。 

しかし私たちの日常生活は、水平に分散している、などと考える余裕もなく、
複雑な構造に組み込まれてしまっている。

学校へ行けば学校の仕組みがあり、職場へ行けば職場の仕組みがあり、
社会には社会の仕組みがある。

これはしかし、実態は水平世界である。
ではその「人に仕組みと認識させているもの」は何だろうか。

それは、人々の間を飛び交っている情報である。
人と人との関係、人と物との関係、を表す、情報によって、
人は仕組みを認識しているのだ。


   〇「実体」「実在」「存在」という言葉について

さらに追記。上記「事件の発生から考える史料批判(贋作虚偽検討法)」の文中の、
3【歴史と証明】の、以下の一節について 
 <<ここで言う「物質世界」を、「実体」「実在」「存在」と言う人もいる。

上記のように、私が使う「物質世界」という言葉の内容は、科学の言葉で説明するものである。   

しかし、歴史学で使う「実体」「実在」「存在」という言葉は、
その内容が、科学の言葉でこのように説明されることはない。

例えば、最近出たばかりの武井彩佳『歴史修正主義』中公新書(p5)に、
<私たちが実体だと思っているものは「表象」に過ぎない。>という使用例がある。

 <この世界は、言語という記号により意味を与えられた相対的なものなのだ。

  このため、私たちが実体だと思っているものは「表象」に他ならず、
  その意味では歴史家が明らかにしているのは「事実」ではない。

  すべては「言説」ないし「テクスト」であって、
  まさに「テクストの外部などというものはない」(ジャック・デリダ)のだ。>

この種の哲学は、実体とは言語を介して認識されたものである、という考えによって、

<言語抜きでは実体の認識に到達できない>から、実体認識というのは主観に左右される。
従って、発言者である歴史家の主観が何に依るか、を、考えることが第一である、
という方向へ導いてしまう。

こういう考え方だと、私が使う「物質世界」という言葉で説明する「実体」概念は、
歴史学では存在しない、かのような話になってしまう。
   (「実体」に該当するものは存在しない、と言っている訳ではない、のだが。)

このような、現実社会に頻発する「贋作」「虚偽」「錯誤」の検討を失わせるような論理は、
これらへの対応を不可能にし、社会を混乱に陥れる。

私は現代思想の潮流に、反対である。
「実在」は、物質世界の性質のみに依拠した「科学の様式」ででも、表現できるものである。


そして哲学は科学の言葉を使わない。そうすると、日常から離れた、理解できない説明になってしまう。
私は、科学の言葉で「実体」「実在」「存在」という言葉を説明するべきだと思う。

哲学から宗教に移ると、むしろこれらの言葉は、「神」の概念と結び付けて理解される。
<絶対的な「実体」「実在」「存在」>という言葉は、「神」ということになってしまう。

私は、こういう誤解は避けたいので、言葉の内容を説明するために「科学」の言葉を使う。


久武喜久代  65歳  神奈川在  suisyou2006@nifty.com



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