佐野大和著 『特殊潜航艇』図書出版社 1975年       20220523

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私の父は、10代半ば?で海軍志願兵となり、駆逐艦「夕立」の乗組員から、海軍水雷学校を経て、
3人乗りの特殊潜航艇の乗組員となった。と聞いている。

戦後も20年経った昭和40年ごろ、もう20年も経ったのだから解禁だろうという訳で、
終戦間際の生還の話を、した。

  最終地は沖縄。終戦間際、米軍が隙間なく停泊する港から、
  本土決戦を唱えて、修理したボロ船で脱出を図った。

  特殊潜航艇関係者7人と陸軍兵、合わせて20人ほどで、
  台風の近づく波高い夜に漕ぎ出し、米軍の間を抜けるのに成功。

  哨戒機に発見されて機銃掃射を受け、
  漂流中に終戦を超えて、米潜水艦に収容された。

  脱出の指揮を取ったのは自分だ。

そういう話だったが、これを「全部、大嘘だ」という真逆の話を流され、
現在も、父の話は大嘘、そんな事実は全くなかった、と信じている人が大勢いるはずなので、
ここに一つの証言例を書いておく。

脱出の指揮については、私の父が、25歳で最年長、
10年近い軍歴で最古参、だったからではないかと思う。
陸軍に一人、父より年上の人がいたかも、という年齢構成だったらしい。

駆逐艦「夕立」では、或る時の海戦で、マストの見張り台にいて、
敵兵の顔が見えた、というくらいの接近戦に参加していたこともあるそうだ。

「夕立」は、戦史でも幸運の船だった。らしい。

                   元になった、<「私の古いサイト」を、誰かがコピーしたサイト>
                      (以下は、改行し、文を短くし、句読点を付けた。)


1、沖縄特殊潜航艇基地設営

                                      

1甲標的隊 運天基地の設営

(昭和19年10月10日の爆撃、被害甚大、標的の半分を失う)
                            佐野大和著 『特殊潜航艇』P207
                  
大河艇(甲標的丁型「甲竜」209号)、唐司艇(同210号)、酒井艇(同208号)
運天港に到着したのは、敵の来攻を目の前にひかえた、昭和20年3月のことである。

しかしわが甲標的隊は、それより約6カ月以前から、
すでに沖縄に進出して、配備を終わっていた。

すなわち、昭和19年8月下旬、鶴田伝大尉(5期艇長)の率いる甲標的(丙型)8隻は、
輸送船に曳航されて、途中、米潜水艦の襲撃を受けることもなく、

じりじりと焼けつくような真夏の太陽の下を、
まず緑したたる珊瑚礁の島、那覇の港に入った。

当時、那覇港は、沖縄本島から内地に引き上げる民間人や、
本島配置となった陸軍部隊でごったがえしていた。

甲標的隊は、港の一隅に停泊した輸送船に横付け繋留したまま、一時の休養をとった。

約1、2週間の後、9月はじめになって、沖縄方面根拠地隊・司令部の指示により
甲標的隊基地は、本島北部の本部地区にある運天港と決定され、全艇、運天に回航した。

名護半島と古宇利島の間に発達した珊瑚礁の間を縫って、せまい水路を入り、
対岸に屋我地島をのぞむ、小さな砂浜のある入江が、甲標的隊基地と定められ、

おりから海軍山根部隊(山根技術大尉指揮)が、設営をはじめたばかりであった。

入江の西側は岸壁で、周辺の石山には蘇鉄が生いしげり、ハブ(毒蛇)が棲息するといわれた。

中央の砂浜からは農道が一本通って、数キロはなれた奥の小さな村落に通ずる、
という辺鄙な場所であった。

従って人家はもちろんなく、対岸の屋我地島という平坦な島に、
癩患者を収容する病院があるのみだった。

この入江からさらに数キロはなれた奥の入江には、魚雷艇隊(司令、白石伸治大尉)があり、
同じく基地の設営がはじめられていた。

毎日、数百名の設営隊(山根部隊)、および、地方から動員された勤労報国隊によって、
甲標的の横付け桟橋、および引き揚げ船台、発電機室、防空濠、宿舎等の建設工事が進められた。

搭乗員、整備員、および基地員、あわせて約150名の隊員は、宿舎ができるまで、

約1キロはなれた高台にある、天底国民学校(内地の分教場にも劣る粗末な木造校舎)に、

前記白石大尉の率いる、第27魚雷艇隊員と同居の形で仮泊し、
朝晩、海岸の基地まで通って、建設工事にあたった。

そして鶴田隊長みずから指揮、指導。
隊員も汗とほこりにまみれて、焼けつくような炎天下の作業に努力した。

かくて10月の初旬にいたり、珊瑚礁の間を縫って泳ぐ魚群が手に取るように見える、
コバルトブルーに澄んだ水の綺麗な海岸に、

緑の蘇鉄にかこまれた美しい基地が、八分通りできあがってきた。その折りも折り、
10月10日の早朝に、突如として、思いもかけぬ、敵機動部隊の空襲を受けたのである。

その日は朝からよく晴れ上がって、10月とはいえ未だ残暑の感ぜられる暑さであった。

一同、国民学校の艇隊本部で朝食をすませて出発し、まさに基地に到着せんとする午前7時半頃、

突如として羽地上空にあらわれたTBFグラマン型艦爆約20機が、襲撃隊形をとって
高度100メートルほどの低空で、在港船舶、陸上施設に銃撃を浴びせてきた。

米機動部隊の近接などは予想もせず、もちろん何の警報も出ていなかったこととて、
全く不意をつかれた形となったのは致し方ない。

その日、運天港には第51北進丸、住吉丸、瑞博丸などの機帆船、
港外には陸軍の輸送艇も何隻か仮泊しており、
敵は主としてこれらの船艇をねらったものらしく、

はじめのうちは、接岸して擬装網をかぶせてあった魚雷艇や甲標的には、
まったく気づかぬ様子であったが、

そのうち入江の奥の方にあった魚雷艇が運悪く敵の一機に発見されて銃爆撃をうけ、
わが方もすかさずこれに応戦したため、かえって敵の攻撃を誘う結果となった。

宿舎からトラックに飛び乗って基地に急行した搭乗員が、
繋留中の甲標的に乗り移ろうと浜辺に出た時、

相次ぐ敵機の爆撃と機銃掃射により、わずか10数メートルの目の前で4隻
(当時の主計長住田充男大尉の記憶では2隻という)の標的が、みるまに撃沈されてしまった。

午前8時過ぎ、敵機はいったん南方に引きあげていったが、
思いがけぬ獲物を発見したからであろうか、

同8時45分頃には、ふたたびTBFグラマン型艦爆約40機をもって第2波の攻撃をかけ、
わが上空において解列しては、一機また一機と、港内在泊艇に銃爆撃を加えてきた。

基地周辺の上空を乱舞しつつ、執拗な攻撃は、午前10時過ぎまでつづき、
魚雷調整場も桟橋も惨憺たる情景を呈し、港内船舶の被害も甚大なものとなった。

正午頃には、さらに第3波の空襲が同型機5、60機をもって行われ、
銃爆撃もいよいよ熾烈をきわめた。

残りの甲標的はすべて嘉手納湾に出て海底に沈座、この攻撃はのがれたが、
魚雷艇はつぎつぎに銃撃をうけて炎上し、陸上施設もほとんど破壊されてしまった。

上空をわがもの顔に乱舞する敵は、ちょっとでも動くものを見つければ、
土砂降り雨を叩きつけるように容赦なく撃ってくる。
そのために、地上での動きがとれず、わが対空砲火は次第に劣勢となった。

そこへ、さらに執拗に約70機からなる第4波の来襲である。

午後1時過ぎの強い日光の直射を背にして来襲する敵機に対し、
わが方の機銃照準が困難であるのとは逆に、

敵の銃撃精度は倍加し、しかも高く上った陽光の下にさらされて擬装効果も半減したため、
被害も極めて大きく、数隻の魚雷艇がまた相次いで沈没した。

午後2時半頃にいたり、ようやく敵機は北東に去ったが、
延べ200機に達するその日の空襲で、基地は徹底的に叩かれ、

爆弾の落ちぬ場所はなかったほど、惨憺たる結果に終わり、
周囲山林の火災も夕方まで燃えつづけた。

せっかく今まで苦労に苦労を重ねて建設してきた基地が、
完成を目前にしてみごとに破壊され、

また一戦をも交えずして標的の半分を失うという結果に、
隊員一同、歯がみをして悔しがったが、如何ともなしえず、

ただ、わが甲標的隊に13ミリ機銃3基があって、よくこれと応戦し、敵一機を撃墜したこと、
隊長以下全員無事で、一名の戦死者もなかったことを、唯一の幸運とするほかなかった。

隣の27魚雷隊基地においても敵の一機を撃墜したが、
ここでは戦死2名、重軽傷10数名を出し、魚雷艇18隻中の13隻を失ってしまった。

もちろん港外にいた陸軍の輸送船は全艇沈没、住吉丸も沈没、
瑞博丸は座洲して、かろうじて沈没をまぬがれた。

また、すぐ近くの瀬底島錨地においては、潜水母艦迅鯨が被爆沈没し、
航海長以下約100名が戦死したほか、

南部地区の海軍の小禄飛行場、陸軍の南、北飛行場等も、相当の被害をうけている。

極秘のうちに建設をすすめていた、いわば秘密兵器に属する甲標的の基地が、
突如としてまず叩かれたことについては、敵の諜報機関の活躍によるものに相違ないとして、
当時種々の噂が流れた。

「夜になると敵潜水艦の乗員がひそかに上陸して島民から清水を求めて帰っていく」
等というのも、その一つであったが、もちろん確証はない。

空襲後、被害の後始末とともに、ふたたび基地建設作業に再起したが、
重要施設はなるべく地下に移すこととし、

発電機室、指令室等はすべて防空壕内に設けることとした。

翌和20年3月、敵の上陸直前の、一週間にわたる大爆撃、艦砲射撃等、
猛烈をきわめた上陸準備攻撃にも、よく耐え抜くことができたのは、そのためであった。

空襲以後は、搭乗員も日の出とともに標的に移乗して湾内に沈座し、
水中信号によって基地と連絡をとり、空襲のないのを確認して訓練をつづけた。

訓練は出撃に備えて、基地から外洋に出る航路の研究、ツリムの調整、
夜間操縦等でいつでも出動できるよう、整備員、搭乗員一体となって、
残る4隻の甲標的は完備されていた。

B29が毎日一回位、雲の上はるかな上空を飛んで偵察しているくらいで、
昭和19年末から20年はじめにかけての運天は敵機動部隊進攻の予想さえなければ、
実にのんびりと訓練のできる平和な基地であった。

「数百人の勤労報国隊員が、島民の常食とする、さつま芋の弁当をひろげる時、
我々軍人だけが米の飯を食っているのが、申し訳ないような気がしてならなかった」

と当時の隊員は述懐している。

基地の周辺には熱帯植物が生い茂り、気候もよく、
農家は砂糖きび、パイナップル、さつま芋などを作っており、
海の水はあくまでも碧く澄んでいたが、

その間にも敵機動部隊は次第に攻撃の目標の輪をせばめ、
沖縄本島にひしひしと迫っていたのであった。



2、出撃命令
                                                    
2攻撃命令発動 佐野大和著『特殊潜航艇』P210

昭和20年3月23日

やや涼気を覚える早朝から、
はたしてふたたび敵機動部隊の空襲(延約200機)がはじめられた。

百雷の一時におちるような艦爆機の大空襲が、終日沖縄の空を圧したのである。

だが、この日は大河内艇以下、新たに内地から増強された新鋭の丁型(蛟竜)3隻を含めて、
7隻の特殊潜航艇、すべて勘定納湾海底に沈座して、被害をまぬかれた。

湾内の水深は最高12メートルほどである。
しかし、その夕刻、桟橋に横づけして充電中の、渡辺義幸大尉(7期艇長)の艇は、
ふたたび来襲した敵艦載機の爆撃をうけて、ついに沈没した。

艇長・艇付・整備員ともに防空濠に退避したため、幸いに無事だったが、
沖縄の甲標的はついに、会敵前に計5隻をうしなったことになる。

たのむところは、蛟竜をも加えた残りの6隻のみであるが、兵舎も倉庫も消失し、
地上の施設は、今や一物もなくなってしまった。

不気味な緊張のうちにも、翌3月24日の朝が静かに明ける。

早朝からド、ド、ドロドローン、ド、ドロドローンという、
不吉な遠雷を聞くような敵の艦砲射撃の響きが伝わってくる。

沖縄本島南部、あるいは、その周辺諸島に対する砲撃であることは間違いない。

翌25日にかけて、砲声は次第に近く迫ってくるようであり、
その合間にはまたまた、艦載機の銃爆撃がくりかえされる、

という状況下では、敵の沖縄本島上陸はもはや確実、
しかも、今日明日中にせまっている、と考えなければならない。

しかるに、味方航空部隊はほとんど全滅しており、
制空権をうしなった戦闘のみじめさに、隊員一同切歯扼腕するも、

沖根司令部は、満を持して、なかなか攻撃命令を出さない。

上陸作戦にうつる前に、徹底的に地上戦闘兵力を殲滅しておこうとするのが
敵の作戦であれば、

その敵が水際に近寄ってくるまで、あくまでも隠忍自重し、
無駄な対空戦闘によってわが兵力の暴露するのを避け、

劣勢ながらも戦力の温存をはかり、水際で一挙に敵に大出血を強いる以外に、
わが方策はないのであった。

全艇勘定納湾に沈座して砲爆撃にたえるが、
湾内狭しとばかり、いたるところに炸裂する爆発音を前後左右に聞きながら、

水中でおたがいに、僚艇や基地の、無事ならんことを祈るのみであった。

3月25日夕刻に至って、ようやく沖根司令部から、

「甲標的の半数(3隻)は日没後慶伊瀬島南方に散開待機せよ」
との攻撃命令が下った。

指揮下の海上兵力が、敵の砲爆撃で、
破壊されつくさぬうちに、その威力を発揮させるためである。

いよいよ攻撃の時がきた。大浦崎以来心身をすりへらしての激しい訓練にたえて、
はるか南島に進出し、敵の猛爆撃下に身を挺して標的の整備にあけくれてきたのは、
思えばこの日のため、この時のためであったのだ。

待ちに待った攻撃命令である。青白くすみきった桟橋の上で静かに水杯をかわし、
隊員一同の祝福を受けて無言の別れを告げつつも、
勇躍する搭乗員の前で、隊長鶴田大尉は、一語一語かみしめるように訓示した。

 「いよいよ日頃の成果を発揮する時がきた。攻撃は血気にはやってはならぬ。
  じっくり落ちついて敵艦をねらえ。決して命を粗末にしてはならぬ。

  わが方には6隻の標的しかないが、敵艦は無数にいる。
  必ず生きて帰ってきて、 今日までに不幸撃沈された5隻の艇の分も含めて、
  3回でも4回でも、基地の魚雷を撃ちつくすまで、攻撃は繰り返さねばならないのだ。
  諸君の成功を祈る---」

甲標的が外洋に出るためには、湾口にある、水深わずか6メートルの珊瑚礁の、
狭い水路を通り抜けねばならなかった。その潜航は困難であり、
たとえ潜航しても上空の敵機からは丸見えとなるため、発進は夜間と決定した。

蛟竜隊の編成は次の通りである。

第1小隊(3月25日夜出撃)
   1番艇(蛟竜209号)、2200発進  
              艇長 大河内信義大尉、   艇付 青柳吉郎上等兵曹
              藤井正雄上等兵曹  小坂直行上等機関兵曹  松下実男上等機関兵曹

2番艇(蛟竜210号)、2300発進
              艇長 唐司定尚中尉、   艇付 柿沼熊雄上等兵曹
               永瀬政一一等機関兵曹 中野守二二等飛行兵曹 相馬明二等兵曹

3番艇(丙型67号) 2400発進
              艇長 河本孟七郎少尉   艇付 日浦正夫上等兵曹  金近他一二等機関兵曹

第2小隊(3月26日出撃)
   1番艇(丙型60号)、2200発進
              艇長 川島巌大尉、  艇付 鎌形強上等兵曹  高久満一等機関兵曹

   2番艇(蛟竜208号)、2300発進
               艇長 酒井和夫中尉、      艇付 遠藤敬一二等兵曹
              福原勇治上等機関兵曹  和田孝之二等飛行兵曹  松本績二飛行兵曹

  3番艇(丙型64号)、2400発進
              艇長 佐藤隆秋兵曹長  艇付 長野重義一等兵曹  松井成昌上等機関兵曹

第一次小隊の3艇は予定通り、3月25日夜、全隊員の見送りの中を、
一時間間隔で出撃していった。
しかし、大河内大尉の一番艇、唐司中尉の二番艇は、ついに還ってこなかった。

両艇とも、丙型とくらべれば、ずっと足の長い丁型蛟竜である。

どこかの島影にでも無事でいてくれれば、と祈るほかなかったが、
あるいは日頃の訓練状況やその人柄から推して、勇敢に慶伊瀬島付近の敵艦艇群に突入、
攻撃を敢行して戦死したものと推測された。

河本少尉の3番艇は、翌26日に至り、慶伊瀬島の北方5浬付近で敵戦艦を補足
接近して魚雷二本を発射、命中爆発して水柱の高く上がるのを、陸軍の観測班が確認している。
同艇はその日のうちに無事、基地に帰還した。

その日、天号作戦が発動され、蛟竜隊は全力をあげて攻撃を続行すべき命令が下った。
そこで第二小隊も予定通り、勇躍発進すべく整備に万全を期して夜を待ったが、

夕刻にいたって、またもや敵機の空襲をうけ、折から桟橋に横づけ繋流して
充電中の酒井艇(208号)が、被爆沈没の悲運に見まわれた。

搭乗員、整備員は退避して防空壕にあったため無事ではあったが、ここまできて、
しかも出撃直前、わずか数時間という時に撃沈されようとは、

なんとしてもあきらめきれぬ無念さに、艇長酒井中尉は、
ずんぐりとした小躯をふるわせて、狂わんばかりに口惜しがった。

かくてこの夜の出撃艇は2隻となり、午後11時川島艇、午前零時佐藤艇が、
昨夜と同じく発進していった。
64号艇長、佐藤隆秋兵曹長の手記は、次のようにつづいている。

「 64号艇、予定のコースを航走、二時間おきに観測、位置確認す。

27日1400、残波岬西6浬にて巡洋艦(戦艦と間違う)攻撃、
魚雷一本命中(距離千メートル、 速力6ノット位)、大破(陸軍観測班確認)、
急速潜航、面舵一杯回避す、潜航後間もなく 爆発音を聞く、
深度120メートル、数十回の爆雷攻撃をうける。数回気を失う。

27日夕方電池放電、基地まで帰れず、瀬底島名護半島の間に浮上充電する。

(陸軍部隊、敵小型潜水艦と間違え、危うく砲撃するところ、ハッチを開き出てきた者が、
フンドシをかけているから日本の潜水艦、砲撃をとりやめたとのこと、基地に連絡あり)、

長野二曹錨を投入するため裸になり艇首の方に行ったため。 28日基地に帰る。」

佐藤艇と同時に出撃した川島艇(60号)も、
翌27日同じく残波岬南西6浬付近に進出して敵戦艦を襲撃したが成功せず、
猛反撃を受けて、特眼鏡をはじめ十数発の被弾を浴びた。

潜水艦にとって何よりも大切な目をうしなっては一切の観測ができず、
攻撃を断念して盲潜航のまま、コンパスと時計のみをたよりに、

敵爆雷の猛攻撃の中で戦場を離脱、基地付近まで帰投、
佐藤艇と同じく28日ようやく基地に帰着した。

この頃には、敵の空爆はますます熾烈を加え、
艇の充電、整備、魚雷装填等は、常に必ず徹夜の非常作業で、
搭乗員・整備員の苦労は、筆舌につくせぬものであった。

隣の基地にいた魚雷艇隊も、同じく27日以後全軍突撃をくりかえし、
巡洋艦3、駆逐艦2を轟沈する戦果をあげており、

これらの奮戦に対しては、佐世保鎮守府指令長官から次の賞詞電報を受信し、
隊員の士気はますます旺盛であった。

「佐鎮281713番電
 第二蛟竜隊(甲標的隊)及第27魚雷艇隊ガヨク戦機ニ投ジテ戦果ヲアゲツツアルハ
大イニ可ナリ、皇土守護の挺身兵力トシテ今後一層ノ健闘ト成功ヲ祈ル」

かくて3月30日午後10時、河本少尉の67号艇がふたたび出撃したが、
途中艇に故障を生じたため、敵上陸部隊の蝟集する嘉手納沖まで行けず、   *下線部・下に説明有り
また会敵せず、翌31日基地に帰投した。

3月31日、特眼鏡が使用できなくなった60号艇長、川島大尉は、
「特眼鏡がなくても、まだ発射管はある。こうなったら双眼鏡と肉眼で、
浮上したまま肉薄して夜間攻撃を行うのだ」

と、あくまでも旺盛な攻撃精神をみなぎらせ、張り切って整備につとめたが、
敵機の空襲を避ける際、岸壁に接触し、浸水のため沈没した。艇長・艇付は無事であった。

(今和泉喜次郎氏は『鎮魂の海』の中で「魚雷搭載中の60号艇が電路故障を
生じて67号艇と衝突し、60号艇は沈没した」と述べている。いかなる資料によったか明らかでない)


3、山岳戦
                                          

3蛟竜隊、山岳戦に移行             佐野大和著『特殊潜航艇』P214

 この日(3月31日)、午前1時37分、沖縄方面根拠地隊司令官大田実少将から
最後の訓示が発せられた。

 「天1号作戦すでに発動せられ皇国防衛の大任を有する我等、
 正に秋水を払い決然蹶起すべきの秋なり、

 それ元軍十万も恐るる所なくしてこれを西海に撃退せし時宗の胆、

 忠烈千古楠氏の訓---(この間不明)---聖将の大信念こそは偲はざるべけんや。
 驕敵今にして撃たずんば止まるところなからむ。

 真に皇国興廃の大任は吾等の双肩にありというべし。
 諸子よく各自の重責を思い尽忠更に訓練を重ね、必勝の信念に徹し、
 真摯自愛勇戦奮闘、もって皇運に副い奉らんことを期せよ。」

しかしわが蛟竜隊はもはや64号、67号の2隻を残すのみであった。

翌4月1日は、風もなく穏やかなよく晴れた日であったが、
午前8時、いよいよ米軍4個師団の兵力が、
本島中部西岸、嘉手納飛行場付近をめざして、上陸を開始してきた。

猛烈な準備攻撃と掃海作業を実施したあとでの、ほとんど無疵の上陸である。

まさに甲標的が最後の攻撃を行うべき好機であるが、

敵の空爆は相変わらず激烈をきわめ、息つく隙もないため、
出撃準備の整備も思うにまかせず、難航するばかりであった。

しかも4月3日には、すでに敵の駆逐艦、掃海艇等数十隻が、
掃海作業でもはじめたのか、旗旒信号を掲げつつ、
備瀬崎、古宇利島を結ぶ線を傍若無人に遊弋しはじめた。

いよいよ、運天港にも上陸を開始してくることは確実と見えた。

翌4日には敵艦艇は距岸2キロ付近まで近接しており、砲撃こそしてこないが、
艦内のアナウンス等が聞こえるぐらい近いので、薄気味悪いことおびただしく、
艦艇の双眼鏡で見れば、わが方の人員の動きまではっきり見えていたに相違ない。

今まで沈黙を守ってきた陸軍の砲台から、
今一斉に砲撃すれば、敵艦艇全滅は間違いないのだが、

徹底的な空爆でほとんど破壊されてしまったとみえて、その気配もない。

4月5日夜に至り、ようやく残った2隻、佐藤艇(64号)と河本艇(67号)の整備が完了し、
最後の出撃をする。

攻撃目標は敵の輸送船を第一とし、第二に航空母艦、戦艦をねらうこととしたが、
2隻とも警戒厳重な護衛艦艇のため、敵輸送船団に近づくことができない。

やむをえずなるべく大型の護衛艦をねらって攻撃を実施したが、
魚雷は命中しなかった。

4月6日、2隻は基地に帰投したが、その頃の運天基地は、
3月末以来の間断ない空爆のため、潰滅的な打撃をうけていた。

いたるところ爆弾の跡で掘り返され、
美しい緑の草木に囲まれていた施設はみるも無惨な焼土の景色と代わり、
基地としての能力も、ほとんど失われていたのである。

しかも本島に上陸した米軍北上部隊は、早くも運天港に近づきつつあり、
隣の第27魚雷艇隊では、すでに陸戦移行の準備を進めていた。

かくて4月6日夜、沖縄方面根拠地隊司令部の命により、鮫竜隊も基地物件を破壊、
2隻の甲標的(中1隻は行動不能)を処分し、食糧兵器をトラックに満載し、

第27魚雷艇隊(隊長白石大尉)とともに陸戦に移り、
八重岳(標高457メートル)の陸軍部隊、国頭支隊長・宇土大佐の指揮下に入ることとなった。

沖縄蛟竜隊の攻撃はかくて終わったのである。
陸上の山岳戦にうつってからの蛟竜隊の編成は次の通りである。

隊長 鶴田伝大尉 中隊長 川島巌大尉

第一小隊長 池田賢一少尉、第二小隊長 阿部充孝少尉、
第三小隊長 中島成治少尉、第四小隊長 松井兵曹長

八重岳は峻嶮で、頂上付近では春の冷気が感ぜられ、霞がかかって、
戦さえなければ仙人でも住みそうな気配であった。
しかし谷間に兵舎が散在し、陣地は幾重にも構築されていた。

この天嶮によっていた陸軍の国頭支隊というのは、
沖縄へ進出の途中輸送船が沈没したため、
少数の重機、軽機、小銃、擲弾筒を保有するのみだった。
そこで、対戦車用爆雷、竹槍等をもって徹底的に抗戦する方針をとっていた。

わが蛟竜隊はほとんどが小銃武装をしている上、13ミリ機銃3機を保有していたので、
東斜面の敵来攻の道路に一番近く配備された。

圧倒的優勢な火力を誇る敵の進出に抵抗する手段は、
とりあえず街道の松並木を路上に爆破し、
または橋梁を破壊して、その進出を阻止することであった。

しかし4月7日から8日にかけて、
八重岳山麓の三叉路における戦闘で、早くも第一小隊長池田少尉以下12名が戦死し、
河本猛七郎少尉が代わって第一小隊の指揮をとった。

しかし兵器の優劣は何としてもおおい難い。
わが38式歩兵銃一発を撃つうちに、自動小銃によって2・30発の敵弾が集中してくる、
という現実の前で、蛟竜隊はみるみるうちに兵力を消耗していった。

4月10日以後、戦闘はさらに熾烈となり、
13日砲撃に飛行機の対地射撃をも加えた敵の猛攻がはじまり、

軍刀片手に陣地を飛び出して斬り込みに向かった川島大尉も、
迂回して敵陣に肉薄せんとする途中、腹部を迫撃砲弾に貫かれて
壮烈な戦死をとげた。

かくて、17日までの戦闘で、さらに河本少尉、松井兵曹長等をはじめとする、
多数の戦死者をかぞえなければならなかった。

9期艇長とは同期の3期予備学生出身、海軍工機学校を経てP基地に着任、
整備の分隊士として、大河艇、唐司艇とともに3月3日大浦崎を出撃、
ここまで転戦してきた第二小隊長阿部充孝少尉も、

4月18日、呉我山アザナバル山頂で、米軍から奪取した自動小銃を撃ちつくした後、
敵の包囲の中で、みずからの拳銃で潔い自決をとげている。

昼間は敵機の跳梁にまかせる他なく、はげしい爆撃と機銃掃射の下では身動きもならぬ、
となれば、夜間斬込隊を編成して敵の野営地を襲撃する以外にない。

爾後、戦闘は次第に、夜間斬込による野営地攻撃に移った。

敵は学校等の建物を宿泊に利用し、鉄条網を幾重にもめぐらし、
また通路には細線を張り、触れれば照明弾があがる、という防備を施し

あるいは校庭の広場に天幕を張って露営するが、周囲には塹壕を堀りめぐらし、
地雷を附設するなど、厳重な警戒体制の下にある。

この敵陣攻撃にあたっては沖縄護郷隊の活躍があったことが忘れられないと、
佐藤隆秋氏は回想している。

護郷隊は小学生または中学生の隊で、もとより土地の事情にはもっとも詳しいから、
ゲリラ戦には非常によく働いた。

昼間のうち敵の駐屯地に遊びにゆき、兵器、人員、通路など、
かなり正確な敵状を探ってきて報告する。
日没後の斬込隊に参加させてくれ、というものもある。

今帰仁の敵陣を攻撃した時は、二隊に分かれ、一隊は渡辺義幸大尉、
一隊は佐藤隆秋兵曹長が指揮をとり、夜陰にまぎれて出発。

途中ものすごい雷雨にあって、河をわたるのに胸までつかりながら6キロ近く歩いた。

大雷雨のおかげで校庭の塹壕は水びたしとなって寝られず、
敵兵は皆校舎に移動しているらしい。

校内には歩哨がいるが、その目を盗んでわが兵2名がしのび込み、
校舎の床下に爆薬を仕かけ、点火して引き上げる。

大爆発と同時に敵兵が校舎から飛び出し、右往左往するところに機銃掃射の雨をふらせ、
擲弾筒を打ち込み、百名以上殺傷という戦果をあげたりした。

しかし、もちろんわが軍不利の戦況が大勢において変わるべくもない。

4月19日には第二陣地とした乙羽岳(八重岳の北東約6キロ)をも撤退、
第三陣地の久志岳(本島の中央部、名護の南方約6キロ、標高341メートル)に転戦した。

4月21日までに久志岳に集結した鮫竜隊は、隊長鶴田大尉、渡辺大尉、三好軍医大尉、
酒井中尉、中島少尉、佐藤兵曹長等6人の士官および下士官59名に過ぎなかったが、
翌々23日に至り、後からたどりついた飛沢上曹以下26名がこれに加わった。

しかし食料も弾薬ももはやほとんど底をついていた。

4月22日から25日までの戦闘で、またまた三好軍医大尉他6名が敵迫撃砲を浴びて戦死し、
さらに5月1日以降、河本少尉にかわって第一小隊の指揮をとっていた酒井和夫中尉他13名
が次々に戦死していった。

食料、弾薬がなくなれば、部隊として集結していることができなくなる。

5月末に至って、鶴田大尉は部隊を分散せしめる決意を固め、

 「気の合ったもの同志、グループを作り、援け合って食料を探し、
  成し得れば敵の兵器弾薬を手に入れて斬込隊、ゲリラ戦等の方法により、

  友軍が沖縄奪回にやってくるまで持久戦によって攻撃を続行する。

  さらになし得れば、丸木舟を探してでも、機を見て沖縄本島を脱出し、
  再度蛟竜を駆って敵艦に攻撃を加える」という方針を示した。

これが沖縄蛟竜部隊の最後であった。

隊員たちは三々五々として次第に分散していったが、
当時畑という畑には砂糖きびもなく、さつま芋もない。

蘇鉄の木をかじって常食とするような状態で、次第に栄養失調や下痢になやまされ、
歩行も困難となりながら、いずれも敵部隊を攻撃、
優勢なその火力の前に戦死をとげていったと考える他はない。

鶴田大尉は、南部戦線小禄地区の沖根司令部にこのことを報告する責任を感じ、
隊員の分散を見届けた後、直ちに単身敵陣地を突破して、南部戦線との連絡を決意した。

内地を出る時から、艇付として常に隊長の傍にあった篠原敏明上曹が、
敵陣突破は非常に困難で、むしろ無謀ともいうべきことであり、
是非思い止まるように進言したが、

沖縄蛟竜隊員戦死者名簿等の書類を佐藤兵曹長に渡せといい残し、
敢然として南に向かって出発していったという。

おそらく南部の敵陣に突入して、壮烈な戦死をとげたのに相違ない。
6月7日のことであった。

その後、佐藤兵曹長は北方に向かった。
しかし当時、沖縄本島の各道路は、両側数百メートルをすべて焼き払って見通しが効くようにし、
また海岸という海岸の船舶は、小舟に至るまでことごとく破壊して、日本軍のゲリラを防ぎ、
本島よりの脱出も、南部戦線への斬り込みも、ほとんど不可能な状態にあった。

約40日余りを経て、本島最北端の辺戸岬にたどりついた佐藤兵曹長と伝令の山田機関兵長は、
途中で落ち合った陸軍中尉と報導班員の四人で、付近に隠してあった小舟を発見し、
7月7日夜に入り、これを海岸までかつぎ出して、脱出をはかった。

ようやく沖に出ようとするところを、辺戸岬の敵探照灯に照射されて砲撃をうけたり
(4月21日以降敵は辺戸岬にレーダーを設置している)、

敵哨戒艇に発見されて機銃掃射を浴びたりしたが、
高波で海が荒れていたのが幸いして、翌8日早朝、九死に一生を得て与論島に漂着した。

さらに翌日陸軍の大発艇で沖永良部島に着き、陸軍の二人と別れて数日後、
徳之島を経て奄美大島に帰着、回天特別攻撃隊に配属され、
回天基地設営に従事しつつ終戦を迎えた。

しかしそのわずか一日前、8月14日の空襲で、不運にも山田実機関兵長は戦死したという。

八重岳から乙羽岳、さらに久志岳に転戦し、ついに優勢な敵軍の前に分散していった
鮫竜隊の他の勇士達も、いずれ劣らぬ惨憺する戦況の中で死闘をつづけ、
次々に戦死していった。

昼は山中に隠れて転々とし、夜は数人ずつで行動したが、
二日も三日も雨の降り続く山中で、蚊とハブに悩まされ、

敵軍の毎日の山狩りをのがれてゲリラをつづけるということは、
人間能力の限界を、はるかに超えるものであった。

                             以下、「父の沖縄脱出」に続く


父の沖縄脱出

         *平良沖縄本島の北部東村あたりを拡大すると、平良湾が出てきます。
          米艦が数百隻はいた、というのが納得できるような大きな湾です。
          検索すると宮古島が出てきますが、そこではありません。

以下は舟を発見し、父と共に沖縄を脱出してきた人の話。


特に徳永道男兵曹は、4月はじめ、八重岳における最初の戦闘で右手右顔面に爆傷、
右膝に打撲傷を負い歩行困難となりながら、

移動する部隊の後を追って強靱な精神力と鍛え抜いた肉体力をもって孤独と絶望を克服し、
よく百日以上を山中に生き抜いて、

8月2、3日頃、平良部落付近で石灰運搬用の曳船(幅2メートル、長さ6メートル程)を発見し、
蛟竜隊の戦友7名、山中で一緒になった陸軍15名とともに脱出をはかった。

平良の山中で帆柱を切り、陸軍のもっていた毛布と敵の通信線で二枚の帆をつくり、
オールも10本用意した。

夜9時頃、満潮時を待って、砂の中にかくれている曳航船を掘り出して深夜の海に浮かべる。

 しかし海上には敵艦艇群がいたるところに停泊しているので、
発見されずにその間を漕ぎ抜けて沖に出るのは、
至難というより不可能に近い。

運を天にまかせて死力を尽くして漕いだが、風はまったくなく潮流にわざわいされて、
平良の港外に出るのに5時間を費やし、夜明けが迫ってきた。

 夜が明ければもはや絶望的である。各人は最後の時に用意した手榴弾をもう一度確かめてみた。

ところが幸か不幸か、夜明けと同時ににわかに強い東風が吹きはじめ、
驟雨をともなった台風に襲われて、
目の前にこうこうと輝いていた、敵艦艇の電灯も見えなくなるほどの大暴風雨となった。

15メートルから20メートルの風に翻弄されて、
船は10ノット以上の速力で一日中突っ走り、その日の夕方大島の見えるあたりまで流されたのである。
しかしこんどは荒れ狂う激浪が敵となった。

 もとより不完全な舟はたちまち浸水をはじめる。
食料もなく水もなく約一週間も漂流をつづける間に、
台風の去った海上を哨戒する敵機の銃撃をうけること三日間、

小舟の上は鮮血に染まり、そこここに肉片がこびりつき、真夏の直射日光がギラギラ照りつける下で、
頭髪が半分しかなくなった戦友も戦死していった。

かくてほとんど半死の状態で、九州五島列島沖約60マイルあたりを漂流しているところを、
敵潜水艦に発見救助され、二世の通訳で終戦を聞かされた時は、8月17日であった。

                              佐野大和著『特殊潜航艇』図書出版社1975年


              *** 昔、父のことを少し調べていた時に、
                   共に脱出した方と連絡が取れて、
                   手紙を頂いた事がある。

                   ネット検索で、朝日新聞広島支局発信のニュースに、
                   徳永氏の講演会?の記事があって、

                   記者の方に連絡したら、徳永氏の住所を送って下さった、
                   というような経緯だったと思う。

                   あちこちリンクが切れているホームページなのに、
                   つながっている部分があったので、以下にリンクしておこう。

                   ここには、私の父が脱出の指揮を取っていたことが、書いてある。

  徳永氏は、私の父が脱出の時に指揮をとっていたのは間違いない、
  と、手紙に書いてきてくださった。

    「 沖縄脱出も、5期講習機関科教官佐藤満上機曹(死去)等による考えも、(私注:考えでも?)

     正夫氏は常にリーダーで、帆のつくり方、オールの作成、水、食料の確保、数日分の用意、又、舟の破損部分の修理等、

     脱出については、コンパスによる方向、沖縄本島から、東北、どこにどんな小島があるか調査していた。

     脱出については、陸地にいても心身ともに極限状態、いずれ死ぬ、

     海軍軍人であれば、海の上で死ぬも本望であるの結論(10パーセントの希望)

     荒れ狂う海で、舟の舳先に立って、褌一枚驟雨の中、

     「とり舵いっぱい」で大声で指揮をとるのは日浦正夫、今も目にうかびます。




 日浦正夫という名前は、父が実家に成人養子として北海道からやってくる前の姓名である。
 大正9年生まれ。

 添付の特潜会報(昭和61年4月5日)では、「数百隻にのぼる敵戦艦の間を脱出できた」とある。


                        「徳永道男氏の手紙」
                      hiyori.yamanoha.com/tokunagamitiotegami.html

                   父親と私は、いろいろと軋轢が激しかった。

                   調べても中断し、忘れ去り、今また思い出して、惜しいことした、
                   と思っている私である。
                     (このリンクを失ったら、二度とたどれないだろう。
                     手紙の現物なんか、どこへ行ったのか、わからないもの)



*****
二回目の出撃で、故障による危機を脱出した時の話がないので、その話を、
兄の記憶によって追加する。


2回目の出撃は敵に発見され、

爆雷を受けて沈み始め、
排水可能な70メートルを超えて沈んだ。

海底で着座。艇長はあきらめて自決しようとしたが、
モーターをかけてみると、モーターがかかった。すると電気系統が復活した。

70メートルを超えて上昇し、排水できるようになった時、
今度は全力排水になってしまった。

止めようとしたが、海上に飛び上がってしまった。

それで海面下に引っ込めて、沖縄から外洋方面に向かって逃げ、
敵は島の方へ行ったので助かった。

戻って来るのに時間がかかった。

      *この時、モーターを復活させたのは父親だったそうだ。
        その話を聞いたのは、私が高校生の時だった。兄もいた。

        その操作の復活理由が、私の科学の知識が豊富だったその当時、理解できたのだが、
        今は何の話だったのか、全く思い出せない。

        特殊潜航艇を写真で見ると、とても不安な気持ちになりそうだ。
        あの昔に、あんな物の中に入って、100メートルの海底に沈んで絶望的な状況で、
        とっさの判断で浮上させたのは、やはり異常な力なのだろう。

*****
父たちが米軍潜水艦に収容されて、連れていかれた所は、グアムだった。

そのグアムに、父の乗った特殊潜航艇が置かれていて、
何とも言えない気持ちだったそうだ。

海底に沈めたらしかったのだが、引き上げて、グアムまで持ってきていたらしい。


グアム 特殊潜航艇 で検索すると、写真がいろいろ出てくるではないか。
しかし丙型67ではないようだ。丙型67はどこへ行ったのだろう。












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