地球と社会の研究所   
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     【 人体基準の認識枠  】 
                                 

宇宙から地球を眺める。地球を、社会を、物質だけの存在感で考えてみる。
衛星写真や航空写真でイメージを補強する。

その世界の内容は、極小粒子とエネルギーである。

こうして地球世界を極小粒子とエネルギーとして考えてみたら、
次には、生きている自分というものを考えてみる。

自分も極小粒子とエネルギーになりうるけれども、
実際感覚にもう少し近づけるには、
細胞の集合体くらいの水準で考えたほうが、都合がよいだろう。

   自分は膨大な数の細胞の集合体であり、常にその細胞を入れ換えつつ、
   自分の体というものの恒常性を維持している、生物である。

   細胞レベルでは、その細胞の交代率で考えると、
   どこまでが自分で、どこまでが自分でないのか、判然としないながらも、
   自分という恒常性は維持されている、一個の生物である。

そこで考える。自分とは何か。

考えているだろうか。しかし、頭で考えるためには、を送る血管が必要だし、
血を送りだす心臓が必要だし、その心臓を動かすエネルギーを取り込むために、
消化器官が必要だし、口に物を運ぶためにも必要だし、
食べ物に近づくためにはも必要だ。

は、人体構造に規定された働きをする器官である。

光の波長の全てを捉えるわけではない。
見える波長もあれば、見えない波長もある。

錯視テストを行えば、みんな一様に錯視を発生させる。
(錯視テストは心理テストの入門書の中に載ってるかもしれない。)

このように人間の目は、人間固有の独特の見方をするのだ。

も、音波の全てを聞き分けるわけではない。
皮膚も、温寒を知覚する幅は狭い。嗅覚も限られたものである。

   このように人間が知覚するものは、人体というセンサーによって、
   極めて制限されている、固有のものなのだ。

あるいはこのようにも考える。

自分はかつて一個の受精卵だった。
どっこいしょ!と、最初の細胞分裂を実行した。

それからどんどん細胞分裂して、栄養を吸収して、なにやら複雑な器官を持った生物に成長した。

最初の一個からすると、この膨大な細胞群の中で、私はどこ?
大事なのは心臓か?違う。どきどきしてるけど、その周りにある肉や骨や手足や目鼻がないと、自分ではない。

では脳だろうか?違う。目や体がないと、感じることができない。感じる体がないと、脳だけでは自分にはなれない

こうして、よく考えてみると、人体は全体として考えないと、
極めて都合が悪いように思われた。

また、前後左右上下という空間認知は、人体の構造を基本にした区分だとも言える。
なぜなら、もし認識主体である生物が、ヒトデやクラゲのように、前後左右が存在し
ない生物だったら、果して前後左右などという区分を、するだろうか。

前後左右は、人間のような体をした生物にとっては意味があっても、
ヒトデやクラゲのような体をした生物には意味がない、
というようなこともあり得るのである。

10進法が、人間の両手の指の数に対応しているから普及度が高い、
というのも、似たような理由が考えられる。

また、人体の大きさというのも、そこそこの大きさという水準があればこそ、
物が流通し、何に使えるかという目安もできる。

身近な身の回りの道具はすべて、人体基準の認識枠でできたものばかりだ。

言語学者は、長らく、その言語固有の区分、というものを指摘してきた。

しかし、言語はそんなに固い認識枠では、ないのではないだろうか。

なぜなら、それは最終的には、生物としての人体という共通基盤を基準にして、
修正可能になると考えるからだ。

例えば、色を示す範囲が言語によって違ったり、水と湯の区別がなかったり、
体の一部を指す名称が、言語によって範囲が違っていたりするようなことがあっても、

センサーである人体が、生物のレベルで共通なら、
何を指し示す言葉なのかは、理解できる範囲のものとなるではないか。

私は、このようにして人体は、その全体が認識の基準であると、考える。

デカルトは「我思う故に我在り」と言ったようだ。
しかし、考えるのは頭だけとは言えない。

知覚のすべてが人体という制限内であり、
また人体という基盤なしで考えることは不可能だ。

言語という他者から学習したものもある。
  他者なし、言語なし、では考えることも不可能だ。         


*(以下20160716頃追加)

「人体基準の認識枠」は、
人間を主体として考えれば、ということが前提である。

しかし、この世界に生きているのは人間だけではない。
犬や猫、猿やイルカ、鳥や魚、昆虫やトカゲ、アリ等々から、
果ては微生物に至るまで、無数の生き物が生きている。

それぞれの生物が、それぞれの認識枠を持って活動しているだろう。
それぞれに違う見方で、この世界を見ているだろう。

犬は犬の、猫は猫の目線で、人間とその周囲を見る。
トンボはトンボの目線で、鳥は鳥の目線で、人間とその周囲を見る。
アリはアリの目線で、人間とその周囲を見る。

このように生物は、その生物特有のセンサーと認識枠で、世界を見る。
しかしもちろん、生物の数だけ世界があるわけではない。

私たちが生きている世界は一つである。

*(以下20160722追加)

ものの見方が個々の認識主体に拘束されるなら、
人間には見えない紫外線というものは、
知ることができないことになる。

しかし現実には、科学を通して、紫外線というものを知っている。

人間には聞こえない超音波は、科学を通して、
聞こえない波長の音波がある、ことを知るのである。

一般人にとって、科学を通して知る、とは、
言葉で構成された科学の論理を、
他者を介して受容する、ということである。

個人の認識主体が、紫外線や超音波を、
自分で体験で確認しているわけではない。

そして私たちは、手持ちの科学が認識主体に拘束されるものならば、
その拘束を超えるように、概念や理論を書き換えてきた、ことを知っている。

紫外線や超音波も、そのような書き換えを経てきたものである。
それは物質世界を、認識主体の拘束から解放し、より正しく認識しようという活動だった。

自然科学は、認識主体に関係なく、
「ものの存在の仕方それ自体」を基準にして、
存在というものの把握を試みる方法である。

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