地球と社会の研究所
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人間と形象と地球世界


         (本稿は著作権を主張しています。商業利用しないでください)


【情報の世界】                               


  <「新・科学的歴史社会学」というものを考えてみたらどうだろうか。>
    <マルクスの影響を否定するために、「新」を付ける。>

  
                                   

目の前の机や本・ノート、鉛筆・消しゴム、これらは全部物質である。

そして突き詰めれば、
 <日常レベルに近い最小単位で言えば、原子である>

人も動物も家も、草木も山も川も、空も、全部原子でできている。

それは、「空中写真で見る地表の姿」、あるいは「パソコンのグーグル・アースの画像」、
また「月面から写す地球の姿」とか、「ビッグバンの宇宙観」とか、
そういうものと、矛盾なく適合するだろう。

この宇宙の中の小さな点、地球世界の基本は物質である。

宇宙創成から、銀河系、地球の誕生、生命の誕生、人類の誕生から文明の発祥という、
宇宙的物質創成の中の歴史。

地球は「現在も」そうした宇宙的物質創成の時の流れの中にある物質的な系である。
     

***
私の高校の頃の疑問に、お金や文字は物質だろうか、というのがあった。 
                         (参)拙著より「物質だけの存在感」

私はこの時、質量を持ち空間を占める物質、というイメージで世界を考えていた。

日常的に「物」とされているものは「物質」である。衣食住に関するものは物質である。
物として、他の物体に何らかの形で作用する。

服を着れば体温を調節するし、食べ物は胃の中で消化されて活動源になる。
しかしお金は、それ自体で他の物に作用するだろうか。

お金、例えば10円玉を穴に差し込んで回すと、内側にある掛け金がはずれる、
などというような場合は、私がここで言っている、物質の作用をした、
ということである。

しかしお金が通貨の役割をする場合、他の「物体」に対する作用、とは何だろうか。

手の上のわずかな重み、手に与える触感、というようなものは、ある。
しかしそれは、お金本来の役割には関係ない。

お金本来の役割とは何か。皆が同じ価値を認識する、交換の道具である。
1000円札を見て、AもBもCも、1000円という価値を想起する、そのための道具である。

日本人は皆、1000円札を見て、日本社会での1000円という価値を想起するだろう。
しかしそれは、500円玉2個でも同じだし、100円玉10個でも同じである。
500円玉1個と100円玉5個でもいいし、プリペイドカードの中の1000円相当でもいい。
素材や形や数は全く違っていても、いいのである。(参:拙著より「鈴木孝夫・ものとことば・机」

日本社会での価値に結び付いた、1000円という数量認識、あるいは数の観念
それが日本人の共有認識であるために、
素材や形や数がバラバラでも、<同じ>と認識される。

この場合、重要なのは、人の頭の中の認識や観念であって、
「お金」の素材や形や数ではない。

そして、交換できる物は、日本社会で流通する1000円の価値の物なら、
それこそ、何でも構わない。
パンに卵に野菜、ノートにシャンプーでもいいし、
雑誌に缶コーヒーでも構わない。

     

文字や記号とは、人間の頭の中の共有認識を想起させる役割を与えられた、形象である。
     


***
私たちは、「通貨の数字や、文字・記号、音声・信号というような形象」
を媒介として社会生活を営んでいる。

個人が自分の認識として脳に入れている
「文言」「教訓」「知識」「行動姿勢」と、
社会にあふれている外側の「情報」を、

相互に関連付け、または分析し、
認識対象である社会の現実(物質世界と対応している現実)を探求する。

そしてそれらを元に、社会問題の平和的な解決を探る必要があるのである。



                              2016.06.10                            作成動機                                                                                                               

                                                                                                  

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