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久武 喜久代 (ひさたけ きくよ) 1955年生まれ  (2022年2月現在66歳)  神奈川在
 suisyou2006@nifty.com
                  
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人体は、膨大な数の細胞群の一集合形態であって、
  原子でできた分子構造物が絶えず出入りしている生命である。

個々の人間を取り巻く「物質関係」というのは、常に「物質」に取り囲まれているということである。
  「酸素」や「窒素」の混合物である「空気」、「炭水化物」や「たんぱく質」や「ミネラル」などの「食物」、「水」、
  あるいは「光」、「気温」、「気圧」、「重力」、等々の「物理的要素」。
  一人一人の人間の体が、そういう物質の環境の中で、いかに精緻な仕組みでもって生命を維持しているか、
そういうことが「物質関係」なのである。 (マルクス批判の基礎)
「物質世界と人間」
***

 子供のころから「世界観」の問題を追ってきました。ネット世界につないだのは1994年頃でしょうか。 
 パソコン通信や掲示板の世界を経ながら、ホームページを「いくつか」立ち上げて、自分の考え方を発信してきました。
 パソコン切り替えをきっかけに、1年半ほどのブランクを経て、再度、新たなホームページを立ち上げました。

                                 



以下は、2016年8月8日追加:
「これまでの活動の流れ」

拙著、『ものの見方の始めについて』(リンク済)
に着手したのは、1990年より前である。

認識論がらみの問題は、ここに書かれているように、
幼少の頃から形成されてきたと言える。

空中写真には、小学校低学年の頃にお目にかかった。

「昭和40年記念出版の、読売新聞縮刷版と報道写真集」は、
私が10歳(小学校4年)の時に出会った。

学校の世界地図を見て、人間は個体としてバラバラに独立しているのに、
一致団結、なんて話になるのは、

人がいろいろと情報のやりとりをしているからだ、
と思ったのは、小学校5年の時の話である。

 (5年生の考えることだから、正確に言えば、先生が子供たちに話したり、
  子供同士で話したり、先生同士が話したり、親同士で話したり、
  中央から内容のある話が伝わってきたり、
  新聞で伝わったりする、そういうイメージの話である)

小学校6年になる「前」には、戦争と社会について、
漠然と考え始めていた。

  もやもやした形でなら、小学生でもそれくらいは考える、
  という一例として、学校の先生方にも考えてみてもらいたい。

  西洋思想史に出てくる、奇妙な生物生態学的政体論とか、社会進化論とか、
  マルクス主義とか、そういうものには、全然つながりそうにない考え方が、
  すでにあるのである。
 
その後の思想的変遷は拙著に譲るとしよう。

大学時代に直面した生涯テーマは、「自然科学と社会科学は別物だ、という言明に対する異議」と、
「私流科学的世界観からの、マルクス主義に対する異議」だった。.

この拙著を他者に理解してもらうことについては、困難を極めた。

この理論問題に関する本を書くのとほぼ同時進行で、「スペイン太平洋航路」(リンク済)のことを調査し、
また、古墳時代と天皇家にまつわる疑問(リンク済)も、関心を持ち続けた。

また『庭訓往来』(リンク済)のホームページを作った。

私の経験では、
江戸期以前の筆記文字や文章の説明が、学校教育ではとても奇妙で、完全に不足していた。
現代表記への移行説明も、全然なかった。
せめて「変体仮名」の説明の本でも書けないかな、と思って、

『千年文字かな』(リンク済)というタイトルにするつもりで、
調査をして、原稿の下書きを作ろうとした。

2008年の郷里での「スペイン太平洋航路」の発表会の後、

今井登志喜『歴史学研究法』全文(現代文?現代漢字に表記を改めた全文・リンク済)
をサイトUPした。2009年末である。

(1990年代は、拙著『ものの見方の始めについて』のテーマである、方法論・認識論の関係で、自分の論理が有効かどうか、
他の人が同じことを言っていないかどうかを、常に気にしていた。そのため、方法論がらみの本には注意していた。

だから、今井登志喜『歴史学研究法』が、他の本の説明から<消えた!>、<本が絶版になった!>
のが気になってたまらなかった。要望しても却下される。それで、何としても公開するんだ、と思ったのである。)20180505追加

尖閣諸島漁船衝突事件が起きたのは、2010年9月のことである。

この暴力的事件に対して、私の「危険対応」として思い浮かんだのが、
「正しい大枠」(参:拙著内〔正しい考え方〕リンク済み)としての、「史料批判」の考え方の流布だった。
(この拙著は、今となると、ニセ情報工作発見前の、のんきな感じがあると思う)20180505追加

そこで「史料批判」のレジュメを準備しようとして、
実例として、対立の激しい「南京大虐殺」を見てみようとして、
秦郁彦『南京事件』中公新書を見て、

偽文書発見、ということになったのである。

2010年10月初め頃から、偽文書注意喚起の文を送信し続けた。
掲示板でも書き込みを続けた。

2011年の間は全く相手にされず。2012年になって、
秦著p131の、写真版・元兵士日記をサイトUP。

それを学会に送り続けたところ、「古文書学会」の事務局担当の先生が
目に止めて下さって、論文を書いてみませんか、と言って下さったのが、

「南京事件元兵士日記の偽作の証明についての一考察」(リンク済)
を書いたきっかけである。

論文は数行の不採用通知で返却されてきたが、
論文のサイトUPについてはクレームがなかった。

古文書学会がOKを出すことは、
中国が、南京大虐殺を国家利益のための確定事実と宣伝している当時の状況では、

国際政治問題に発展することは確実だったから、
OKを出さないのも無理はないかもしれないが、

私の立場が一向に改善されないことについては、困ってしまった。

南京大虐殺は、中国主体の米中共同によるニセ情報工作です。

秦郁彦『南京事件』中公新書p131の元兵士日記は贋作です。

(335人も捕虜を虐殺したのに、変体仮名「志満っ多(しまった)」
の文字の意味は「めでたい」となっています。

「こころざし満つること多し」)

文の内容と文字の意味が、逆になるように、ひねった表記にしてあるのです。

また、幕末から昭和までに、日本人の手書き文字は、
時間的に特定の傾向を持った変化、をしてきました。

南京事件の昭和12年に、これほどの草行書・変体仮名をあやつる青年は、
いなかったはずです。画像全体から見ても、奇妙な点はたくさんあります。

これは、元将校の団体・偕行社から出版された『南京戦史資料集』
に掲載されている日記です。秦郁彦氏発掘です。

元の手書きから活字にするために、現代表記にした専門家がいたはずです。
南京事件調査では、元将校の専門家がトップリーダーでした。

その専門家は、非常に奇妙だということには、
気が付いたけれども、握りつぶしたようです。

日本には、ニセ情報工作が極めて多い。

終戦直後に開かれた東京裁判等で、有罪か無罪か、生か死か、を賭けて、
ニセ情報工作員に仕立てられた元将校たちがいるようです。

さらには、脅迫や勧誘で工作員に仕立てられた専門家、
が、たくさんいるようです。


古文書学会は古文書学会で、それなりに調査を進めてくれるだろうと期待はしたが、
隠密に進めるだけでは、世論の左寄り(親中国)、南京大虐殺事実論を、食い止めることはできない。

私は私の懸念するところを、メール送信で訴えるしかない、と感じた。
私が言っていることを古文書学会が知っている状態で、他者が同じことを喧伝するのは難しい。

さらには、天皇家擁護派が、南京事件否定論で、私のサイトを引用することは、できないだろう。
私の南京事件否定論を引用すれば、天皇制への疑問が出てきてしまう。

2012年末、論文サイトUP直後から、再び偽文書注意喚起文を送信する活動に入った。

日本の従来の右派は、多分、関心を持ってくれたと思うのだが、いかんせん、
古墳時代と天皇家に関する私の調査・意見文が、ホームページに掲載されている。

これが引っ掛かったと思う。右派の沈黙の原因はこれだろう。
チャンネル桜なんかは、多分これ。

左派にも送信を続けたが、見たとたんにはねられているかも、という懸念はあった。

2013・2014年とやっている内に、草書変体仮名解読専門家が、やってくれるだろう、
という気になったりして、活動は切れ切れになった。

しかし、その間、地元の解読者にぶつけてみたりもした。
これもうやむやの反応しかなかった、が、何か他の都合で返事をしかねている感じにしか思われない。

2015年になって、「古墳時代と天皇家」の一文を追加した状態で送信開始。
送信済みリスト付きにした。

2016年6月、方法論や今井・史料批判を宣伝する必要を感じ、
それと同時に、送信してきたメールをサイトUP。

20170903  トルーマン大統領の日記・原爆投下・ニセ情報工作(ジョン・ダワー『容赦なき戦争』より)


生活環境



(以下、20160901、追加)
新サイト「小説スペイン太平洋航路(写真・イメージ画像付き)」  (元の「旧版」) 
小説の「あらすじ」である。
書いた時期は、2009年から2014年の間だろう、ということ以上には、わからない。

2009年以降に調べたことが、かなり反映されている。
発表会では、可能性、ということに関心を持ってもらいたい、
ということが主眼だったので、その可能性にはあまり深入りできなかった。
それを、小説スタイルでは、仮説を含めて、相当、深く言及している。


フィリピンに到達したスペイン船は、ご存知、マゼラン艦隊である。
1521年にマゼランが到達して、メキシコに帰る航路を発見したのが、1565年である。

この40年の間にスペインは、
  第1回・1521年マゼラン艦隊(スペイン発)、
  第2回・1525年ロアイサ艦隊(スペイン発)、
  第3回・1527年サーベドラ艦隊(メキシコ発)、
  第4回・1542年ビリャロボス艦隊(メキシコ発)、
  第5回・1565年レガスピ艦隊、(メキシコ発)


と、5回も探検隊を繰り出した。そして先行の4回は、
太平洋を東に向かおうとしたものの、ことごとく失敗した。

第5回は、太平洋をかなり北に進路を取って、やっと成功したことになっている。

その航路は後に、支倉常長の航路、咸臨丸の航路、
横浜に係留されている日本郵船の氷川丸の航路になる。

スペインは1565年以降、約250年間、フィリピンとメキシコの間を周回し続けて、
フィリピンを植民地として維持し続けた。


応仁の乱で大内氏に瀬戸内海通行をはばまれたために、京・堺側の人々の太平洋側航路が開かれたこと、
南方に進出して刀剣を売りさばいていた日本人・ゴーレスの話、
ポルトガルによるマラッカ陥落に対して、一矢報いんと出かけた武士の作戦で、マゼランが命を落としたこと、

第4次スペイン帰路探検隊とフランシスコ・ザビエル一行の強い関係、
帰還路発見に向けての、ザビエルに託された役割、
京阪の当時の実力者である、阿波母体の三好長慶を介しての、阿波海部氏とのつながり、
秘密の軍港・那佐湾に侵入した、偵察者・島弥九郎の話。


                            

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