満洲の水事情
    宮尾登美子 『朱夏』新潮文庫より
                             ( 20170817 UP)

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731部隊の正式名称は「関東軍 防疫給水部 本部」。
防疫や給水、厳寒対策の研究が必須だったことについて、
宮尾氏の自伝小説『朱夏』からの引用で、考えてみたい。



昭和20年3月 満洲首都・新京駅


(水売りの描写)
綾子を取り巻くように、たちまち紺の満服が黒山のように押し寄せてきて、
口々にわからない言葉を発し、地面に並べてある一升ビンを指し示している。



p86
 水は満洲の貴重な資源であって、新京を首都と定める時、
この地の市民の需要を満たすだけ、果たしての供給ができるかどうかが、

いちばんの問題点だったという話を、綾子はきいたことがあるが、
いま市内に道はひかれているのに、なぜ駅頭でを売っているのか
綾子は奇異な気がした。

アラビアの水売りはキャラバンが客だというが、ここでは、
見た目も決して澄み切ってはいない一升壜のを、一体だれが買うのだろうか。



p96 (入植地)

飲馬河村は新京から列車で1時間半あまり。

これは満洲でいえば最高に交通至便という土地で、
それに水田のほとんどない満洲では珍しく、飲馬河からの
によって既に2千町歩もの水田が作られてあった。



p99
満洲の農民のなかで暮らしてゆくのには、生活習慣すべて現地の人たちを
見習わねばならないが、やはり綾子が格段つらいと思うのはであった。

二号部落には、互いに離れた井戸が二つしかなく、それは露天掘りのために
うっかりすると落ち込む危険があるだけでなく、
地上の塵埃が容赦なく飛び込んでくる。

木枠を土に埋め込むようにはめ、そこにを汲みだすための小さな滑車が
取り付けてあり、その古びた木の取っ手をガラガラと音を立てて廻すと、

地底から、柳で編んだ籠がをいっぱいたたえ、その籠の目からざあざあと
を洩らしながら、ゆらゆらと上がってくる。

そのを見たとき、綾子は我が目を疑う思いがし、これが飲みとは、
とうてい考えられなかった。

は、内地のいかなる条件の悪い井戸でもこんなではあるまい、
と思えるほど真っ赤に濁り、小砂を巻き上げて水垢のついた楊の籠のなか
異臭を伴いながら、たぶたぶと揺れていたのであった。

綾子は新京駅前のあの喧噪な水売りの姿を思い出し、ここら辺りにも水売りが
来ればよいのにと思ったが、こんな暮らしに5か月の長ある要(夫)は、
煮沸すれば安全なのだという。

もし安全でなくても、この場合他に方法は全くないし、いたしかたなくこの水で
炊事一切まかなうことになったのだが、
やはりこのが原因で、ほとんどがアミーバ赤痢に罹患するのである。

の乏しい大陸にあって、満人たちのを大切にすることは大変なもので、
綾子はいく度かこの井戸のそばで王家の人達と一緒になり、手まねでその話を聞いた。

綾子は到着翌日から学校のバケツを借りてこのでおむつを洗ったが、その汚
捨てる場所はどこにもなく、そこら辺りにまき散らしていたのを、王家の人が見て
声を挙げて制止するらしいのに気が付き、

よく聞くと汚はなるべく王家のわきに掘ってある池へ捨ててくれという。
この池で農機具を洗ったりするのだから、と言っているらしいのはわかるが、
排水口を持たぬこの溜りは不潔極まりないものだというと

彼らは天を指して、いまに雨が降れば池のは自然にきれいになる、
というのを聞いて綾子は思わず笑った。


のちに綾子は、炊事を頼んだ苦力の一人が米をとぐのを見てむらむらし、一度だけ
思わず怒鳴ったことがある。

それは、米をといだ白を別の桶に移し、しゃっしゃっとといだあと、
またそのを入れてかきまわして別の桶に移すというやり方で、

つまり5、6回以上米はといでも、はただの桶一杯、それをあっちに移し、
こっちへ戻しするだけなのであった。

を替えなさい」と言った綾子に対し、日本語のできる彼は、この頃
日本人がこちらへ進出してきて極端にが減った、日本人くらいを無駄遣いする
民族はいない、神様も怒っている、と早口に言い返した。

綾子はなるほど、と思い、山も遠く川も少ない満洲の平原では、
は確かに神の一種であり、その故にあのの洩る楊の籠で、
つつしみ深く祈りながらゆっくりと汲み上げるのだとわかった。

この人たちはそのために、入浴はもちろん洗濯もあまりしない習慣を持っており、
綾子たちの国から来た人間が惜しげもなく使うのを、どれほどの深い憎悪を
こめて見ていたろうと、これはずっとのちになって思ったことであった。



p184
(7月、いく十年ぶりかに飲馬河が氾濫。三号部落水びたし。
出水量は地面をひたひたに覆う程度でも、水が引かなければ農作物は根から腐ってしまう。
井戸水も使えない。)



P213
畑のなかの道をたどりながら何気なく駅の方を振り返ると、そこに思いがけなく
コンクリートの塔がすっくと立っているのが見え、
「あら、あれ何?あの高いもの」
と話しかけると史子の声も弾んで、
「いやあ奥さん、あれは駅の給水塔ですに。前からありますに。
うちの三号部落からはあれが駅の目じるしです」
とおかしそうに笑った。
そうやったの、我々は井戸の暮らしやのに汽車ののためにはあんな設備をせんといかんのやね、
と綾子も話かけながら・・・・

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