20171015  

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   「言語表現と事実の対応」とは何か。


(パソコンの調子が悪い。以下は従来の哲学に対抗する意味で書いている、試論である。
例えば、構造主義とか、マルクス主義とかに対抗するものだと、私は思っている)



以下は拙著『ものの見方の始めについて』に引用してある鈴木孝夫『~  』の
「ものとことば」の「机」の文につながるものである。
  参:
  (この文は、どこかの教科書にも載っているらしい)


<「机」がある>という言語表現に対応する事実とは。

「人がその上で何かをするための、床から離れた平面」とは、「人体」を基準にした把握の仕方である。

例えば自分がアリならば、「人」が「机」だと思う物は、巨大すぎて、
アリである自分が、それで何かをしようなんて、考えようもない。

机の足を昇っている「アリである自分」に、机がどのように見えるか、想像してみればわかるだろう。
「机」を「机」と認識するためには、「人体」が必要なのである。

<「机」がある>という言語表現に対応する「事実がある」、ならば、
アリにとっても、その物質存在が存在する。猫にとっても、その物質存在が存在する。

アリが、人体というものを見てその体を理解し、人間の言語を理解する能力があるならば、
<「机」がある>という事実について、人間と、認識を共有するだろう。

    (余談:アリは人体を見て人の体を理解するか。マンガではアリの擬人化なんか
        簡単だが、生物生態学的には、そのようなことはありそうにない。
        そういうことについて、いろいろな事象を考え比べて理解する、
        その過程も踏んでおく。)

言葉の発生と展開というものを、時間の経過で考えてみる。
言語というのは、初期は、音波による信号だった。
やがて編み出された相互共有の符丁や記号が、その音波信号である言語表現を、さらに豊かに複雑にした。
符丁や記号は、小さく書かれて、複雑な事象を表現するようになった。

例えば日本語の場合、

「机」という<文字>と、それで表される<音>(tukue)と<概念>
(人がその上で何かをするための、床から離れた平面)は、
物質現象としてどこに現れるか、と考えてみる。

<文字>は、長期の間、大抵は紙(古くは粘土や木片、皮)に、人間の手で書かれた記号である。
ある程度の時間を経過しても、残って行くものだった。
「遠くの人」へ、また「時間を経ても他者に届けることができる」という意味では、便利な記号だった。

<音>は、声が届く範囲にいる人に、即座に届くという意味で、便利な信号だった。
距離的には声が届く範囲でなければならない、ということと、
全く残らない(かつては)という意味では不便だった。

<概念>は、人間の脳の中にあるものである。
私たちは普段、「机」のことを、「人がその上で何かをするための、床から離れた平面」、
などと考えているわけではない。

しかし、自分や他者の、体や意識、行為・行動の、無数の実例から、
椅子でもなく、床でもなく、棚でもない、「机」というものを、
<概念>として、身に付けている。

人体外の記号や信号の記憶は、脳の中の概念と結びつけられて、脳の中に格納されている。
「机」の文字や音に触れると、神経を伝わって脳に達した信号が、
「外部の文字や音の信号」に共通する「脳内格納信号」を刺激する。
それが、体という自己存在の感覚と結びついた<概念>を、脳の中で呼び出す。

  (こんなことは、医学的・生理学的・心理学的に解明されているとは言い難いが、
   上記は、実際の状況から推測しての説明である)

脳の中で呼び出された<概念>は、
「自分の身体機能」や「個人的な記憶」と結びつく意識や理解である。
ここで、人類としての共通基盤である身体機能を通して、他者の経験を共有しよう、
という心構えが準備される。


〇腰掛ける(座る)、という体の動作は、人類共通である。

異文化社会での、その動作を表す言葉が「シット」だとして、それが仮に、
「丸太」に腰掛けることを意味していたとしよう。
「石」に腰掛ける時は、「ダウン」という言葉を使うとする。

  (椅子を使わない社会を仮定している。そしてこの場合、言葉に、何に座るか、という
   「目的物を特定する働き」が含められていると仮定している)

しかし椅子に腰掛けたら、椅子に「腰掛ける(座る)」である。
  (座った物が「椅子」ならば、即座に「シット」か「ダウン」という言葉で流用されるだろう。)

言葉が「目的物を特定する働き」を持っていたとしても、人間の動作が共通ならば、
共通する動作を含む言葉が、流用されるだろう。

椅子とは「腰掛ける」目的で作られ、設営された、人工的な工作物である。
同じように、机は、その上の平面で作業する目的で作られ、設営された、人工的な工作物である。

「机」の、形や素材や色などという物質的な側面は、「机」という物を決定する要素ではない。
では、「言語表現と事実が対応する」とは、どういうことを指しているのだろうか。

「机」という言葉は、そのままでは「概念」を示すだけである。
「ある」か「ない」かも不明である。

「事実」として、「ここに机がある」と表現されると、
そこには「机」という「概念」に該当する「物質存在がある」ということになる。

「概念」に該当しない「物質存在」があっても、それは「事実」とは言えない。
例えば、椅子や棚があっても、「ここに机がある」という「事実」とは言えない。


私たちは、空間を占め質量を持つ物質とエネルギーの世界=極小粒子とエネルギーの世界
に生きている。
その世界を、自分たちに有用な形で切り取って、それを共有してきた。

言葉の共有とは、そういうことを意味する。
そして他者の経験を自分も共有することで、活動範囲を広げてきた。



〇私たちが生きている世界を、極小粒子とエネルギーの世界として眺めてみる。
私たちは普段、自分の体を基準にしてこの世界を見ている。人が捉える世界は、
すべてが、人体のセンサーで捉えうる世界である。

しかし、自分が電子の大きさだと仮定して、自分の周囲を観察すると、
この世界には、電子、原子核、その他、極小粒子しかないように見えるだろう。

人も家も、草木も山川も、人間が人体で捉えるから、それらはそうと見えるのである。
電子の大きさの自分が捉える事実は、そのようなものは何もない、ということである。
しかし、その空間を占めて質量を持つ世界が、同じであることも確かである。

例えば原子。これは、物質世界の性質そのものを基準にして、
「ある」と私たちは考える。

原子という存在を考えると、その周辺のミクロ世界のデータや現象を理解するのに都合がよい。
データや現象と整合性を持つ「原子」というレベルの存在自体は、
人間が意思して作ったものではない。

対するに「机」は、人間が、その上で作業をする目的で、作ったり設定したりしたものである。
人間がこうしようと考えたことが原因で、その結果「ある」ことになったものである。

しかし、空間を占め質量を持つ物質でできた、
形を保って、その用をになうべく存在している物質の全体は、人間の意思によるものではない。

例えば、木製の机が、木の質感を持っているとか、ある程度の荷重に耐えられるとか、
形を維持し続けるとか、そういうことは、人間が意思すればそうなる、というものではない。
それは木の自然の性質である。

「ここに机がある」という表現が事実であるためには、
人間の意思に関係なく存在している物質存在が、
人間の側が持っている概念を、体現している必要がある。

「机」という言葉で人間が想起する概念
     =「人がその上で何かをするための、床から離れた平面」

を体現するならば、それは、壁から突き出た足のない板でも良いし、丸でも四角でも良い。
スチール製でも良いし、真っ白でも真っ黒でも良い。

しかし、物質存在として、「机」の概念を体現するものが、存在することが必要である。

「原子は存在する」ではどうだろうか。その表現が事実であるためには、
「原子」という言葉で人間が想起する概念を、体現するものが、存在することが必要である。

人間が勝手に考えた概念ではなく、それを体現するものが存在するから、
そのレベルでは、「原子は存在」し、それが事実だということになる。

      (ここで「体現」などという言葉を使うのは、甚だ不本意なのではあるが)

〇私たちは生まれ落ちた時、一人ひとりが、何だかわからない世界に立ち向かっている。
この世界は人間のためのものではない。そもそもが極小粒子とエネルギーの世界である。
その世界に対して、極小粒子とエネルギーでできた体で、生きようとしている。

他者と自分は、絶えず音信号と身体の共通性でもってコミュニケーションを繰り返す。
その中で、他者が持っている「音」信号と「概念」の結びつきを、自分も身に付けてゆく。

人間の場合、音信号は記号と組み合わされて、さらに複雑に、無数の概念を形成してゆく。
音信号や記号は、人体の外の世界を飛び交い、人間の脳を刺激し、行動に影響を与える。

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