物質世界と人間 (歴史認識の土台)

                  (20180319 書き直し文)     
                     
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目次:1【宇宙的物質創成の時の流れ】2【時間の固定・短縮・逆行】3【人体基準の認識枠】4【世界は一つ】
5【自然科学の基準】6【物質世界と人間】7【時間と人間の歴史】8【物理学での時間停止と社会】
9【物質世界の時空連続と世界】10【人間と形象と地球世界】11【事実の3レベル】12【歴史と事実】
13【史実の証明という考え方の、社会的必要性について】14【歴史と証明】15【史料批判】 
 

1【宇宙的物質創成の時の流れ】

目の前の机や本・ノート、鉛筆・消しゴム、これらは全部物質である。

そして突き詰めれば、
 <日常レベルに近い最小単位で言えば、原子である>

人も動物も家も、草木も山も川も、空も、全部原子でできている。

それは、「空中写真で見る地表の姿」、あるいは「パソコンのグーグル・アースの画像」、
また「月面から写す地球の姿」とか、「ビッグバンの宇宙観」とか、
そういうものと、矛盾なく適合するだろう。  

   空中写真の例:高井戸IC航空写真・国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省、
月から写す地球 (申し訳ないですが勝手にリンク状態です)

この宇宙の中の小さな点、地球世界の基本は物質である。

宇宙創成から、銀河系、地球の誕生、生命の誕生、人類の誕生から文明の発祥という、
宇宙的物質創成の中の歴史。

地球は「現在も」そうした宇宙的物質創成の時の流れの中にある物質的な系である。


2【時間の固定・短縮・逆行】

その一瞬の光が生み出す像を、平面に固定する、
そういう写真技術ができてから、
私たちは、時間の固定という想念を知るようになった。

さらにはまた、動画再生という技術ができてから、私たちは、
フィルムの早送りによる、時間短縮という想念を知るようになったし、
フィルムの逆回転による、時間の逆行という想念を知るようにもなった。

これを地球社会に当てはめるなら、「3次元の立体の」地球社会を、
古代から現代へと、フィルムを早送りするように、
時間短縮で観察することを想像することもできるだろう。

あるいは、「3次元の立体の」地球社会を、
現代から古代へと、フィルムを逆回転するように、
時間を逆行させて観察することを想像することもできるだろう。

人の命がある時、突然出現するはずはない。

すべての人に両親がいて、その両親ににもそれぞれ両親がいて、
さらにその両親にも、それぞれ両親がいる、はずなのである。

だから、今現在生きている人のすべてに、
どの時代にも、祖先がいるはずなのである。

現在は、過去があったからこそ、存在する。


3【人体基準の認識枠】        

宇宙から地球を眺める。地球を、社会を、物質だけの存在感で考えてみる。
衛星写真や航空写真でイメージを補強する。

その世界の内容は、極小粒子とエネルギーである。

こうして地球世界を極小粒子とエネルギーとして考えてみたら、
次には、生きている自分というものを考えてみる。

自分も極小粒子とエネルギーになりうるけれども、
実際感覚にもう少し近づけるには、
細胞の集合体くらいの水準で考えたほうが、都合がよいだろう。

   自分は膨大な数の細胞の集合体であり、常にその細胞を入れ換えつつ、
   自分の体というものの恒常性を維持している、生物である。

   細胞レベルでは、その細胞の交代率で考えると、
   どこまでが自分で、どこまでが自分でないのか、判然としないながらも、
   自分という恒常性は維持されている、一個の生物である。

そこで考える。自分とは何か。

考えている頭だろうか。しかし、頭で考えるためには、血を送る血管が必要だし、
血を送りだす心臓が必要だし、その心臓を動かすエネルギーを取り込むために、
口や消化器官が必要だし、口に物を運ぶために手も必要だし、
食べ物に近づくためには足も必要だ。

目は、人体構造に規定された働きをする器官である。

光の波長の全てを捉えるわけではない。
見える波長もあれば、見えない波長もある。

錯視テストを行えば、みんな一様に錯視を発生させる。
(錯視テストは心理テストの入門書の中に載ってるかもしれない。)

このように人間の目は、人間固有の独特の見方をするのだ。

耳も、音波の全てを聞き分けるわけではない。
皮膚も、温寒を知覚する幅は狭い。嗅覚も限られたものである。

   このように人間が知覚するものは、人体というセンサーによって、
   極めて制限されている、固有のものなのだ。

あるいはこのようにも考える。

自分はかつて一個の受精卵だった。最初の細胞分裂を実行した。
それからどんどん細胞分裂して、栄養を吸収して、なにやら複雑な器官を持った生物に成長した。

最初の一個からすると、この膨大な細胞群の中で、私はどこ?
大事なのは心臓か?違う。
どきどきしてるけど、その周りにある肉や骨や手足や目鼻がないと、自分ではない。

では脳だろうか?違う。
目や体がないと、感じることができない。感じる体がないと、脳だけでは自分にはなれない

こうして、よく考えてみると、人体は全体として考えないと、
極めて都合が悪いように思われた。

また、前後左右上下という空間認知は、人体の構造を基本にした区分だとも言える。
なぜなら、もし認識主体である生物が、ヒトデやクラゲのように、前後左右が存在し
ない生物だったら、果して前後左右などという区分を、するだろうか。

前後左右は、人間のような体をした生物にとっては意味があっても、
ヒトデやクラゲのような体をした生物には意味がない、
というようなこともあり得るのである。

10進法が、人間の両手の指の数に対応しているから普及度が高い、
というのも、似たような理由が考えられる。

また、人体の大きさというのも、そこそこの大きさという水準があればこそ、
物が流通し、何に使えるかという目安もできる。

身近な身の回りの道具はすべて、人体基準の認識枠でできたものばかりだ。

言語学者は、長らく、その言語固有の区分、というものを指摘してきた。
しかし、言語はそんなに固い認識枠では、ないのではないだろうか。

なぜなら、それは最終的には、生物としての人体という共通基盤を基準にして、
修正可能になると考えるからだ。

例えば、色を示す範囲が言語によって違ったり、水と湯の区別がなかったり、
体の一部を指す名称が、言語によって範囲が違っていたりするようなことがあっても、

センサーである人体が、生物のレベルで共通なら、
何を指し示す言葉なのかは、理解できる範囲のものとなるではないか。

私は、このようにして人体は、その全体が認識の基準であると、考える。

デカルトは「我思う故に我在り」と言ったようだ。
しかし、考えるのは頭だけとは言えない。

知覚のすべてが人体という制限内であり、
また人体という基盤なしで考えることは不可能だ。

言語という他者から学習したものもある。
  他者なし、言語なし、では考えることも不可能だ。      


4【世界は一つ】

しかし、それにしても、この世界に生きているのは人間だけではない。
犬や猫、猿やイルカ、鳥や魚、昆虫やトカゲ、アリ等々から、
果ては微生物に至るまで、無数の生き物が生きている。

それぞれの生物が、それぞれの認識枠を持って活動している。
それぞれに違う見方で、この世界を見ているだろう。

犬は犬の、猫は猫の目線で、人間とその周囲を見る。
トンボはトンボの目線で、鳥は鳥の目線で、人間とその周囲を見る。
アリはアリの目線で、人間とその周囲を見る。

このように生物は、その生物特有のセンサーと認識枠で、世界を見る。
しかしもちろん、生物の数だけ世界があるわけではない。

私たちが生きている世界は一つである。


5【自然科学の基準】

ものの見方が個々の認識主体に拘束されるなら、
人間には見えない紫外線、聞こえない超音波というものは、
知ることができないことになる。

しかし現実には、科学を通して、紫外線や超音波というものを知っている。

人間には見えない紫外線、聞こえない超音波は、科学を通して知るのである。

一般人にとって、科学を通して知る、とは、
言葉で構成された科学の論理を、
他者を介して受容する、ということである。

個人の認識主体が、紫外線や超音波を、
自分で体験で確認しているわけではない。

そして私たちは、手持ちの科学が認識主体に拘束されるものならば、
その拘束を超えるように、概念や理論を書き換えてきた、ことを知っている。

紫外線や超音波も、そのような書き換えを経てきたものである。
それは物質世界を、認識主体の拘束から解放し、より正しく認識しようという活動だった。

自然科学は、認識主体に関係なく、
「ものの存在の仕方それ自体」を基準にして、
存在というものの把握を試みる方法である。


             6【物質世界と人間】                 

この地球世界で、人類が歩み始めてから、もう、かなりの時が立つ。
多くのことが忘れ去られた。

しかし、人の営みの痕跡や、残され、伝えられた事は、
歴史となって私たちの脳裏によみがえる。

人類の歴史。世界史。その自然的環境を考える。

長い長い宇宙的な時間や、出現して時わずかな人類、地球をとりまく宇宙環境、地球の形状等。
これがつまり、宇宙空間に浮かぶ地球上の、物質現象として世界をとらえることの、基本である。

宇宙全体の組成を極小粒子とエネルギーとして捉えなおす方法があるように、
地球という生命を含む物質圏の組成を、極小粒子とエネルギーとして捉えてみる。

それは、空間を占めて質量を持つ「何か」でできた世界である。
生まれたばかりの人にとっては、この世界にはまだ名前がない。

その意味では、人が生まれ出たこの世界は、生まれ出た人にとっては、
「ただ在るだけの世界」である。

この世界を、私たちは「物質世界」と呼んでいる。

 原子核や電子の動きは、時間が常に進行していることを示す。

 地球上の人間の歴史も、見方を変えれば、時間の経過に伴う、
  空間を占めて質量を持つ「物質」の動きである。

この極小粒子とエネルギーでできている世界という考えに、人間の考えることを混入させてはいけない。
空間を占めて質量を持つ、物質の存在の仕方が「ある」だけの世界なのだ。
それは、宇宙から見た地球である。

個々の人間を取り巻く「物質関係」というのは、常に「物質」に取り囲まれているということである。
その内容は、以下のようなものになる。

  「酸素」や「窒素」の混合物である「空気」、「炭水化物」や「たんぱく質」や「ミネラル」などの「食物」、「水」、
  あるいは「光」、「気温」、「気圧」、「重力」、等々の「物理的要素」。

  一人一人の人間の体が、そういう物質の環境の中で、いかに精緻な仕組みでもって生命を維持しているか、
そういうことが「物質関係」なのである。

  人間は膨大な数の細胞の集合体であり、
  常にその細胞を入れ換えつつ、自分の体というものの恒常性を維持している、
  生物である。

  細胞の交代率で考えると、どこまでが自分で、どこまでが自分でないのか、
  判然としないながらも、自分という恒常性は維持されている、
  一個の生物である。            
         

7【時間と人間の歴史】

地球は「宇宙の時間」の中にある。そして「人間の歴史」は「地球の時間」の中にある。
「人間の歴史」は、「地球の時間」と「人間の事象」とを対応させることによって理解される。

これは通常では、人間が作った「暦」と、「人間の事象」の対応として理解されている。
「地球の時系列」の中に、「人間の事象」の時系列もある。

「人間の事象」は活動の痕跡を残す。
その活動の痕跡を時間軸に沿って正しく整理することは、

歴史的事件・歴史的対象が、確かに同時代に物質的に関係している(同時代のものである)、

ということを証明するのに、役に立つ。


8【物理学での時間停止と社会】

物理学では、「時間が止まる」という事は、
「存在」そのものが「無くなる」ということである。

極小粒子は常に猛スピードで運動している。
それが「止まる」ということは、
「存在」が無くなる、ということである。

この宇宙、極小粒子とエネルギーの世界の、
存在と時間を分離することはできない。
存在のありようは、時間の進行をも意味する。

地球社会も、時間と共に物質として、絶えず動いている。

しかし私たちは、宇宙から見る地球、空中写真で見る地表が、
頭の中で思い描いて行動している日常の認識世界とは、
かなり違うと感じざるを得ない。

だがその世界も、確かに自分が生きている世界なのだ。

物質世界。それが何であるかを考えるために、

「時間の断面を切り取る」「時間をゼロに収斂する」
空中写真のように、ある瞬間を捉える。
時間が止まった社会を想像する。
(日常感覚では、この表現の方がわかりやすいだろう)

私はこれを、社会を物質として考察するための、一つの方法として提唱する。

これは、写真技術の光の固定によるイメージから来たものである。
同様に、フィルムの早回し、早送り、逆回転による時間の遡行、等のイメージで、
地球社会を想像することもできる。


9【物質世界の時空連続と世界】

これらは映像技術から来る「物質世界の時空連続イメージ」である。
それは物質世界が「個々の人間の認知を超えて存在する」ことを想起させる。

例えば、その時代の人が書き残したかどうかに関わらず、後から考えて、
はっきりと同時代であったと言えるような場合。

それは、人間の認識に関わりなく、
「ものの存在の仕方それ自体」を基準にして、
存在というものの把握を試みる方法、を適用した例と言えるだろう。

例えば、日本の「古墳時代の始まり」を3世紀半ばとすると、
それは世界史的には、以下のような時代に重なる。

巨大建築物を作り続けたローマ時代の後半期。ササン朝ペルシアの初期時代。
中国では後漢滅亡後の魏呉蜀・三国時代。

これらは、当時の日本人が知っていたかどうかは、定かではない。
しかし確実に、ほぼ同時代と言える、と、人は考える。
その背景にあるのは、「物質世界の時空連続イメージ」である。

現代において、世界各地の同時刻・同時期という考えはごく普通である。
遠い昔は、遠い場所のことなど、考える人はほとんどいなかった。
しかしそれでも、やはり世界各地に、同時刻・同時期というものがあったはずだ、と私たちは考える。
それは、昔の人がどう考えていたかには関係なく、「物質世界の時空連続イメージ」で考えるからである。

もちろん、そんな遠隔地の例を持ち出すまでもなく、日本国内の離れた場所のことを考えても同じである。
ペリーが浦賀に来た、という江戸からの手紙を、博多の人が受け取った。
博多の人は、その頃私は、全く別のことをしていた、と、考える。
ペリーが浦賀に来たのと同時期に、博多にも人の活動があった、と考えるのは、
背景に「物質世界の時空連続イメージ」があるからである。


10【人間と形象と地球世界】   

私の高校の頃の疑問に、お金や文字は物質だろうか、というのがあった。 
                         (参)拙著より「物質だけの存在感」

私はこの時、質量を持ち空間を占める物質、というイメージで世界を考えていた。

日常的に「物」とされているものは「物質」である。衣食住に関するものは物質である。
物として、他の物体に何らかの形で作用する。

服を着れば体温を調節するし、食べ物は胃の中で消化されて活動源になる。
しかしお金は、それ自体で他の物に作用するだろうか。

お金、例えば10円玉を穴に差し込んで回すと、内側にある掛け金がはずれる、
などというような場合は、私がここで言っている、物質の作用をした、
ということである。

しかしお金が通貨の役割をする場合、他の「物体」に対する作用、とは何だろうか。

手の上のわずかな重み、手に与える触感、というようなものは、ある。
しかしそれは、お金本来の役割には関係ない。

お金本来の役割とは何か。皆が同じ価値を認識する、交換の道具である。
1000円札を見て、AもBもCも、1000円という価値を想起する、そのための道具である。

日本人は皆、1000円札を見て、日本社会での1000円という価値を想起するだろう。
しかしそれは、500円玉2個でも同じだし、100円玉10個でも同じである。
500円玉1個と100円玉5個でもいいし、プリペイドカードの中の1000円相当でもいい。

素材や形や数は全く違っていても、いいのである。(参:拙著より「鈴木孝夫・ものとことば・机」)

日本社会での価値に結び付いた、1000円という数量認識、あるいは数の観念、
それが日本人の共有認識であるために、
素材や形や数がバラバラでも、<同じ>と認識される。

この場合、重要なのは、人の頭の中の認識や観念であって、
「お金」の素材や形や数ではない。

そして、交換できる物は、日本社会で流通する1000円の価値の物なら、
それこそ、何でも構わない。
パンに卵に野菜、ノートにシャンプーでもいいし、
雑誌に缶コーヒーでも構わない。     

文字や記号とは、人間の頭の中の共有認識を想起させる役割を与えられた、形象である。
     
***
私たちは、「通貨の数字や、文字・記号、音声・信号というような形象」
を媒介として社会生活を営んでいる。

個人が自分の認識として脳に入れている
「文言」「教訓」「知識」「行動姿勢」と、
社会にあふれている外側の「情報」を、

相互に関連付け、または分析し、
認識対象である社会の現実(物質世界と対応している現実)を探求する。

そしてそれらを元に、社会問題の平和的な解決を探る必要があるのである。


11【事実の3レベル】

このように、人間の認識に関係なく、世界は「ある」ものである。
人は、その世界を認識する。

生まれた人は、人体のセンサーで捉えた、この世界にあるものの特徴を、
他者から得た「ことば」に結び付ける。

「ことば」とは、「形象」である。
生まれた人は、無数の「ことば」の世界に突入する。

しかし、<「ことば」の世界> の検証が、
大きな声で語られることはない。

例えば社会機構の上下は、<「ことば」の世界>では、くっきりと示される。
しかし「空中写真の世界」には、そのようなものは存在しない。

ではこの「空中写真の世界」が「事実」かと言えば、
人にとっては逆に、社会機構の「上下」のほうが「事実」であろう。

このように一口に「事実」と言っても、「事実」には階層があるようだ。

「事実」の階層とは何か。
それは人が認識する際の、焦点を当てる対象によって生じる、階層である。

「事実」には3レベルがある。

(1)人間の認識に関係なく、それ自体の性質によって存在するもの。
     
    人間が意味を感じようとしたり、言葉で認識したりしようとするのを、
    意図的にやめてしまった世界。
    物質の性質だけで成り立っている、絶対的な世界。

(2)「物質存在的に確実なもの」を人間が認識して言葉で表現したもの。

    例えば目の前にパソコンがあり「目の前にパソコンがある」と表現する。
    それは「事実」。
    しかし目の前にパソコンがないのに「目の前にパソコンがある」と表現した場合、
    それは事実ではない。

    物質的な実態と人間の認識との間に、対応があるもの。
    大きな分類で行くと、サイエンスもここに入れられる。
  
(3)情報システムに支えられた人間の、主観的社会的約束事。

    「ある事柄についての共有認識の発生の事実」を前提として、

    社会的強制力を背景に、

    「発生した共有認識の相互実現を図る」という意味合いにおいて、
    実態との対応がなくても、『事実』として通用しているもの。

    *この3段階は、以下のように言い換えることもできる。
       (1)は、認識主体を想定していない世界。
       (2)は、一人の人と世界、という世界。
       (3)は、多数の人の、相互関係の世界。

ただし、(3)で言う「情報システム」とは、

人間の脳の認識にたたき込まれた「社会情報の意味構造」に対して、
人が共有認識でもって支持している状況、を言う。

首相とか社長とかの、社会的立場の概念。
政府とか会社とかの、組織の概念。
為替や株価や価格などの、経済の概念。
所有という概念。

           (参)拙著より「事実の3レベル」


12【歴史と事実】

「物語や小説」は事実である必要はないが、
「歴史」は事実でなければならない。

では、歴史的事実とは何か。
それは「証明されたこと」である。

物語や小説は証明される必要はないが、歴史的事実は証明される必要がある。

物語や小説は頭の中で創作したものであってもかまわないが、
歴史的事実とされたものは、創作であってはならない。
事実でなければならないのだ。

事実とは何か。これが違ったら大変だ。

これは普段でも、よく争いの種になる。
「あの人は他人の物を盗んだ」「いや盗んでいない」など。

どちらが本当なのか。
その判断によって、持ち主が違ってしまう。
また、当事者のイメージも、正反対になってしまう。

時には、両論併記が正しい、事実とは、見方によって違うものである、
色々な見方がある、それが一番正しい考え方である。
そういう主張もあるにはあるが、
しかし、盗人だと言われた人は、それでは収まるわけがない。
盗まれたと主張する人も、それで引っ込むわけがない。

仮に、公開のルールがあり、
それが社会を円滑に運営するものとして支持されていて、
人が皆、それに従うことで合意しているならば、

事実を確認してルールに従うことで、
次の活動に移行できるはずである。

しかし、事実の確認で争いが続き、
ルールが社会を円滑に運営するものとして支持されてはおらず、
人がそれに従うということにも合意していない場合、争いは収まらない。

こうしてみると、事実確認は、これら一連の流れの中の第一歩である。
そしてそのプロセスはルール形成の材料となるだろう。

歴史的な事実が問題になっている時には、その証明が必要であり、そのプロセスが明らかにされねばならない。

物質世界は絶対的なものである。
それゆえ理論的には、人間の行動・思考が、あったかどうか、も、絶対的な正否があるはず、なのである。

しかし、痕跡が残る行動というのは少ない。人が認識する自分の行動も限られる。他者が認識する行動も少ない。
ましてや、書かれる事は少ないし、人の証言は、錯誤や虚偽も多く、信頼できないことが多い。

いかにして「証明」に近づくか。それが人間としての、現実的な課題である。
そしてその課題に答える技術的な手続き遂行の中で、多大の収穫をえられることも多い。

しかしまた物質世界の問題としては、理論的に「事実」とは言えない、こともある。

価値評価は「事実」とは言えない。
ある人や集団から見た価値評価は、
その人や集団の人々の頭の中にある、とは言えるものの、
評価対象となった事実それ自体には、価値は含まれないものだからである。

しかし私たちに必要なのは、何が重要なのか、という問いに対する回答である。
これもまた、人間としての現実的な課題、であることは確かだ。


13【史実の証明という考え方の、社会的必要性について】

私たちは、「歴史」と聞くと、それは「事実」だ、と考える。
しかし、なぜ事実だと言えるのか、と聞かれると、はっきりした考え方を持っている人は少ないだろう。

「歴史として勉強する事柄」を歴史だと思い、
「歴史として流通している事柄」を歴史だと思っていることが多い。

これは要するに、
  「発言者が先生だから、著名な人だから、

  あるいはメディアが言うから、メディアが取材するほどの権威者が言うから、
  国が言うから」

歴史である、事実である、
と思っているに過ぎない、ということになる。

そして、では
「過去に実際にあったことだ」というのは、どのようにして「証明」されるのか、
となると、

一般社会向けには、大学の先生でも答えない。
それが、現代の状況である。

しかし、このような基本的なことについて、社会がそんなことでいいのだろうか。

誰もが、歴史的事実は証明される必要がある、と考えているのに、
実際となると、多くの人が「発信者の権威だけに頼る」ことになっているのだ。

これはおかしい。私は、「歴史」と「証明」の問題は、社会全体の問題であると思う。

いかなる権威者も、利益誘導や脅迫には弱いものである。
それは普通の人と、そう違うわけではない。

権威者が誘惑や脅迫に負ける可能性がある、と考えたら、
どうして安易に権威者に頼れるだろう。

私たちは、権威者に頼ってばかりでは、いけないのである。

誰もが、「事実」を巡る「証言」の周辺に、いかなる問題が潜んでいるかを認識しておく。
これは、権威者が誘惑や脅迫に負ける危険を、減らすことができる。

なぜなら、そういう状況ならば、権威者は、誘惑や脅迫に対抗して、
「それは世間には通用しない」と、言い通せば済むからだ。

世論操作、情報操作という事態を避けるためには、一般社会が、
歴史と証明の問題について、一通りの知識を備えておくことが大切だと思う。
拙文:歴史と証明・理論編

では、「過去に実際にあったことだ」というのは、どのようにして証明するのだろうか。

それについては古くから、一部の歴史学者の間では、
その考え方や方法について、いろいろな考察がなされてきた。

私は、その考え方や方法について、今一度、簡単にその要領を確認したいと思う。


14【歴史と証明】

証明するためには、証拠が必要である。
その「証拠」となるものを、 歴史学では「史料」と言う。

「史料」とは、
「過去の人間の著しい事実に証明を与えうるものすべて」である。

文献・口碑伝説のみならず、碑銘、遺物・遺跡、風俗習慣、地理、自然など、
「証明を与えうるものすべて」である。

ただし、その性質から考えて、史料には2種類あると言える。

 (1)史料が物質存在として、ある歴史的事件・歴史的対象と、物質的に関係しているもの。   

 (2)史料が歴史的対象に対して、
      人間の認識を経由して、人間の論理で整理され、言語で表現されている
      という関係にあるもの。         

たとえば、
(1)は、モノ的に関係する世界、やわらかい地面を歩けば足跡が残る、
というような世界での、「足跡」(痕跡)。あるいは作成物、地理、自然など。

          (物質世界に残(遺)された物。「遺物」である。)

(2)は、人が歩いているのを見て、誰それが歩いていた、
と証言する世界での、「証言」である。

(1)を考察の範囲に入れないものは、歴史とは言えない。
歴史は、物語や文学ではないのだ。


〔史料批判の必要性〕

(1、史料の偽作と錯誤)

経験的に言って、史料として提供されるものには、しばしば

「全部もしくは一部が本物ではない(偽作)」とか、
あるいは
「それまで承認されていたようなものではない(認定の錯誤)」、
というようなことが発生する。

                 (参) 過去に出現した偽作について

歴史学では、経験上、
「証拠物件として示された史料が、偽作」であることが珍しくない。

従って、「史料が本物かどうかを吟味する」ことが、
最初の手続きであり、基本なのである。

また、認定の錯誤の例としては、
「その史料が、違う時代、違う人物に当てられ、
間違った説明が加えられて、そのまま踏襲されたりする」ようなことがある。

そしてこのような偽造や錯誤が、全部でなく、一部であることもある。

このように、史料の偽作、
あるいは説明の間違い、構成の混乱などは、よくあることである。

だから 史料の正当性・妥当性は、常に注意深く検討されなければならない。

(2、証言内容の信頼性)

また、史料が証言する内容について、
どの程度信頼できるか、どの程度証拠力があるかを、評価する必要もある。

この場合、証言者は、
  論理的な意味で事実を述べることができたのか(認識の錯誤)、
  倫理的な意味で事実を述べる意志があったのか(虚偽)、
という二点で検討されなければならない。

このように、「史料」はそのままでは、事実の「証拠」として扱うことはできない。
必ず、その「真贋・錯誤」と「内容の信頼性」という面を検討しなければならないのである。

その上で、収集された多くの史料が、証拠物件として役立つかどうか、
またもし役立つとしたら果たしていかなる程度に役立つか、
を考察する。

以上のような作業を「史料批判」と呼ぶ。

                            (参)拙文:「歴史と証明」


15【史料批判】     
                                
史料批判は一般に、
   史料の外的な条件を検討する「外的批判」と、
   史料に記された内容を評価する「内的批判」
とに分けられる。

〔史料批判(Ⅰ)外的批判〕

史料がどのように証拠物件として使えるかどうかを検討する。
そのためには、史料の「外的な条件」を把握することが必要である。
これらは史料の証拠価値の判定基準となる。

「外的な条件」とは何か。具体的には、以下のような観点で検討されることである。
     (1)偽作でないかどうか(真贋の検討)
     (2)史料が作られた時・場所・作者とその人間関係はどうか(発生の検討)
     (3)オリジナルの史料かどうか(本源性の検討)


(1)偽作でないかどうか(真贋の検討)

1. その史料の形式が、他の正しい史料の形式と一致するか。
  古文書の場合、紙・墨色・書風・筆意・文章形式・言葉・印章などを吟味する。

2. その史料の内容が、他の正しい史料と矛盾しないか。

3. その史料の形式や内容が、それに関係する事に、発展的に連絡し、その性質に適合し、蓋然性を持つか。

4. その史料自体に、作為の痕跡が何もないか。その作為の痕跡の吟味として、以下のようなことが挙げられる。


   (1) 満足できる説明がないまま遅れて世に出た、というように、
      その史料の発見等に、奇妙で不審な点はないか (来歴の検討)

   (2) その作者が見るはずのない、またはその当時存在しなかった、
      他の史料の模倣や利用が証明されるようなことがないか。

   (3) 古めかしく見せる細工からきた、その時代の様式に合わない、時代錯誤はないか。

   (4) その史料そのものの性質や目的にはない種類の、偽作の動機から来たと見られる傾向はないか。

その他、種本にした史料との比較によって、明らかに偽作とわかったりすることもある。


「史料に付された説明」に錯誤がある場合についても、
偽作を検討する作業の中に、適用できるものが含まれる。

「混入」や「変形」がある場合の吟味の基礎は、詳細な比較研究である。


(2)史料が作られた時・場所・作者とその人間関係はどうか(作成状況の検討)

日時・場所を明らかにすることは、事の経過や状況を知るための基本である。

古い時代の文学作品等には、作者や著作日時が不明のことが多い。

また公私の記録文書、ことに原本がなく写しのみの場合、
例えば人々の書簡集のようなものには、これらが欠け、または不十分なことが多い。

だから、史料作成の日時を考察する。外的・内的の両方の吟味を行う。

外的吟味
    1、ある日時の明らかな史料のことが、その史料の中に出てくる。

    2、ある日時の明らかな史料の中にその史料の事が出てくる。

    3、共存する他の時間的関係の知られている史料から判断する。

    4、時として技術的関係からの判断による。たとえば手紙に日付がなくても、
      その到着した時がわかっている場合。

    5、それが時間の知られている史料の断片であることの考証による。など

内的吟味
    1、比較研究。すでに日時の明らかにされている他の史料と、
      外形的特徴、たとえば様式・材料・技術等を比較する。

    2、文献的史料では、特に言葉、スタイルなどがおおいに標準となる。
      文語体でも時々何か時代をあらわす要素が含まれている。

    3、記録等の場合、その記事の内容に手がかりを求め、それによって判断する。
      ある時より、前か後かを明らかにできるだけでも、その史料の利用に役立つ。

その他、「場所」の吟味、「人物」の吟味など。

言語で表現された史料の場合、その史料の「作者」の地位・性格・職業・系統等が明らかにされれば、
それがその史料の信頼性等を判断する根拠となって、その史料を用いる際に都合が良くなる。


(3)オリジナルの史料かどうか(本源性の検討)

史料の利用について特に注意するべきことは、「オリジナル史料」と「借用史料」の区別である。

各史料の要素を細かく分解し、親近関係が疑われる史料と比較し、
これによってそれらのオリジナル性や従属性を確かめる。

その理論的根拠は

    1、一つの出来事について、各人の観察把握の範囲および内容は、
      すべての個々のことについて、特に偶然的なことについて、
      みな一致するということはない。

    2、各人が同じ一つの事を述べるとき、その表現の形は同一ではない。

    3、すでに他人によって言語的に発表された表現内容に一致する証言は、
      少なくともその付随事項の一致により、
      またしばしば誤解があることによって、
      その従属性が明らかになる。

    4、二個以上の報告が、同じ内容を同じ形式で述べる時、それらの史料には親近関係がある。
      これらの史料にどういう系統関係があるかを判断する。

この作業がなぜ重要かというと、親近関係にある史料の中で、証拠価値があるのは、
ただオリジナルな史料だけ、だからである。

その他は、原典の借用であるために、いかに多数であっても、決して証拠力を持たない。

ただ、そのオリジナルな史料が既に失われて存在しない時に、

それを借用した比較的原形に近いものが、
現物を反映するものとして、重んじられるのである。


〔史料批判(Ⅱ)内的批判〕

                                      
史料をどの程度信じるべきか、どの程度の証拠力があるかを検討する。
同一事実に対して直接証人の「証言」が矛盾していることは少なくない。

「証言」を提出した人物は、
論理的な意味で真実を述べることができたのか、
倫理的な意味で真実を述べる意志があったのか、
この二点においての評価が必要である。

史料が証言する内容について、その信頼性が損ねられる例は多々ある。
その原因には、大きく分けて「錯誤」と「虚偽」がある。

[錯誤の例]
     1.感覚的な錯誤

     2.総合判断の際の先入観や感情による錯誤

     3.記憶を再現する際に感情的要素が働いて誇大美化が起きるような例

     4.言語表現が不適切で、証言がそのまま他人に理解されない例

 直接の観察者でも、錯誤が入ることはよくある。
ましてや証言者がその「事件を伝聞した人」である場合、
誤解・補足・独自の解釈等によって、さらに錯誤が入る機会は多い。

ことに噂話のように非常に多数の人を経由する証言は、
その間にさらに群集心理が働いて、感情的になり、錯誤はますます増える。

[虚偽の例]
     1、自分あるいは自分の団体の利害に基づく虚偽

     2、憎悪心・嫉妬心・虚栄心・好奇心から出る虚偽

     3、公然あるいは暗黙の強制に屈服したための虚偽

     4、倫理的・美的感情から、事実を教訓的にまたは芸術的に述べる虚偽

     5、病的変態的な虚偽

     6、沈黙が一種の虚偽であることもある

このように、言語史料である証言には、錯誤・虚偽が入る機会が多い。

事件の当事者の報告は、その事件を最もよく把握している人の証言だ、
という意味では最も価値がある。

これらは史料が本物と判断される場合、
通常は「一次史料」「第一級史料」と呼ばれて、
珍重される種類のものである。

しかし一方、当事者はそのことに最も大きな関心を持っているために、
時として利害関係・虚栄心などから、真実を隠す傾向がある。

この点においては、第三者の証言の方が、信頼性が高くなる。
錯誤はなくても虚偽が入るのだ。(当事者報告の虚偽の可能性)

すべての証言において、その作者の人物を考慮することは、
その史料の信頼性を考える上で、重要な標準となる。   (実際には、これは難しいテーマを含む)

言語史料を「音声」と「文字」に大別して考える。

「音声」史料の場合、時間的人間的に、間接の度が増して、
広がるほど遠くなるほど、信頼性が落ちる。
伝説はその典型である。

一般に、長く伝わる間に、1誇大・美化・理想化、2集中、3混合、
などが起きる傾向がある。
現在文献化している音声史料でも、かつて相当の期間口伝的だったものは、
こういう性質を持つ。

「文字」史料の場合、
公私の往復文書、宣言書、演説、新聞雑誌の記事、日記、覚書、回想録、系図、歴史書、年代記、伝記その他、
種々の種類に分類して、大体その性質を考察した上で、
さらにその史料の一つ一つを吟味する。

特に、利害関係を持つ内容、宣伝的性質を持つ内容、道徳的・芸術的効果
を目的とする内容等については、事実の歪曲を予想するべきである。

最後に、歴史認識に達するための総合作業がある。 (「総合」に関しても、後に説明することにする)


〔史料の発生経過による考察 〕 

手にした史料がどういうものか、見当をつけるには発生モデルを考えておくと、便利である。

時間の経過そのものが、史料内容の変化を特徴付ける、という面も、大きい。

特に、後世の記録や編纂物、それから物語・小説となってきた場合、
その変化には、顕著な意図的傾向が見られる。

物語・小説は流通しやすく、世の中に誤解を広げかねないので、それだけ注意が必要だと考える。


さて、事件の発生は、どのようにして知ることができるだろうか。
痕跡を知ることによるのだろうか。それとも他者の報告だろうか。

ともあれ、事件が事実だった場合、当事者以外の者がそれを知るのは、
痕跡によって判断するか(遺物)、他者の報告によって判断するか(証言)、
この2種類による。


ある事件が発生した場合について、経過をたどって考えてみる。

  1、 ① 事件・事実の当時、その場で当事者が、各自、自ら作り、あるいは残した史料。
        (例えば、「遺物」としては、足跡・血痕・指紋、作業の痕跡。

         あるいは「証言」史料としては、連絡・指示のための手紙、事務的な記録、備忘のためのメモ・日記等。

         社会や組織を運営し、機能させるために作成された史料。

          *(「証言」史料には、遺物という側面もある。したがってこれらは、紙質、筆跡、文章形式、言葉などで、
             当時の当事者のものであると確認できなければならない。)


     ②第三者が同時代に作った証言史料。
          *(証言史料の遺物としての側面からは、紙質、筆跡、文章形式、言葉などで、①と同様の確認ができるもの)
         この場合、事件から時間的・空間的に離れるに従って、信頼性は落ちる、
         と考えるのが自然だと思われる。
   
  2、 時間や場所が隔たっているが、当事者が自ら作った史料。普通の覚書や記録の類。
      
  3、 1と2を根拠として、それらを関連付けてまとめたもの。各々の当事者系譜の家譜・伝記・覚書など。

  4、 それらを参考にしつつ書かれたもの。
     A、道徳的感化や芸術的効果、教訓や娯楽を目的に書かれた物語。
     B、意図的な宣伝目的を持つ文献。
     C、編纂された歴史書
     など。

 大抵は、史実には、立場によって利害関係が発生する。
それゆえに、史料の背後にある人間関係が重要になってくる。

個人や集団の利害に関係する文書は、
当事者の作成とされていても、あるいは逆に、当事者が作成したとされるがゆえに、
むしろ信用できなくなることも多い。

史実のかく乱情報は、史実が発生した当初から存在しうる。

利害を左右するとなると、これら当事者による情報は、
本人あるいは他者によって、偽作・捏造・虚偽の対象になりやすい。

証拠となる痕跡や遺物、文献、証言、絵画・写真等が
「実物かどうか」「内容がどの程度本当か」

を判断するのに必要なのは、
その史料を構成する要素についての、同時代の正しい史料である。

つまり、地理・地形・地質・気象、痕跡、遺物、紙質・筆跡・文章形式・言葉、
あるいは物品の製作技術、その傾向や材料など、
時間や場所や状況を特定するのに役立つもの。

あるいは、情報として役立つものとしては、

全体の歴史、全体の人間関係、
当時の人々が残した、生活・慣習・制度・思考・行動様式の、記録・情報のうち、
その事件について、時間や場所や内容の蓋然性を証明するもの、

などが参考になる。

しかし証明に関する限り、
検証対象の「遺物」や「証言」と、明らかに正しいとわかっている「遺物」群の間で、
整合性があることが、何より重要である。

                    (参)拙文「歴史と証明」
                  (参)今井登志喜『歴史学研究法』

*注意

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