普通文・実例:史料批判(塩尻峠の合戦)  (20180614) (20220614改訂)

                          
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目次: 1【序】
 2【真贋の検討】
3【発生事情の検討】
4【本源性の検討】
(ここから内容批判)
5【証拠力の検討】
6【解釈】
7【史実の決定】
8【歴史的関連の構成】
9【歴史的意義の把握】
10【付記】 11【補正】


1【序】
時は戦国時代、天文17年(1548年)7月19日。
武田信玄(晴信)が、小笠原長時を、信州(長野県)塩尻峠に撃破した戦いについて。


この戦いのことを書いてある文献はたくさんある。

しかしそれらの内で第一義的なものは、
 当時の現場での、直接経験者たちの残した「痕跡や遺物」、
 直接経験者たちの「証言」、直接観察者の「証言」、
である。
これらは「一次史料」と呼ばれる。

次は、そう遠くない時期に書かれた、伝聞による同時代の記録。
これらは、比較的、距離が近いことが多い。(ここまでを「根本史料」とすべし)

その次は、時が下ってからの、当事者の回顧。
さらに第三者がそれらを編纂した書物、といったものがある。



さて、塩尻峠の合戦について書いてある文献から、
上記の残存形態の例に沿って、8種類の史料を取り上げる。
  (原文は別ページ。その文章の内容は、このページ下の「解釈」の段にある。)

(1) 古文書(武田信玄が出した感状)
     武田の家臣がもらった武田信玄の感状(*WIKI)

(2) 諏訪神使御頭之日記
     武田寄りの諏訪神社の記録

(3) 妙法寺記
     甲斐の寺の記録、

以下の3点は、小笠原氏復興の時に、小笠原氏の家臣が提出した、
       父祖または自分の経験を書いたもの
(4) 溝口家記
(5) 二木家記 または 壽斎記
(書名が二通り出てくる。混乱しないように)
 (6) 岩岡家記
    
以下は、百数十年後に、信州伊那の82歳の人によって書かれた、この戦に触れた本
(7) 小平物語

江戸時代に流通した甲州流軍学書     
(8) 甲陽軍鑑     


註:長野県諏訪大社の御柱祭は、その起源は平安時代以前と言われる古い祭りで、
7年に一度行われる。テレビ中継で、斜面をすべり落ちる大木に乗る男たちを、
見たことがある方も、多いのではないだろうか。
諏訪大社の外宮にまで討ち入った小笠原氏の動きは、
この祭りの進行に影響したため、神官の記録に残されることになった。


2【真贋の検討】

(1)の「古文書」(感状)は、甲州文書の中に、これと全く同一文句のものがある。
それは 宛名が土橋惣右衛門尉どの、となっている(持主、遠光寺村、土橋文六)。

さらに、筆者(今井登志喜)の見た書物に、
これと同一文句の古文書が収められているもの、が二通ある。

一つは、木曽考に載っている、信玄父子義昌朱印書札という中の、
大村與右衛門という人物に宛てた、信玄(晴信)の感状三通の中の一通である。

これは原文書は今残っているかどうか知らないが、この書を編纂した時はあったもので、
確かなものであることは疑いない。

他の一つは、武田三代軍記・巻之七・塩尻峠合戦之事の条に載っている、
小山田平治左衛門なるものに宛てたものである。

この書物は全く信用できないものだが、この古文書だけは上の三通と同じものである。
従って、その類のものがあったと思われる。

ただし、この軍記では、朱印ではなく花押になっている。
が、この書物の性質上、そこまでは信用できない。

以上、「古文書」(感状)は、現に疑うことのできない実物が存在している。

書物に収められたもののうち、武田三代軍記に載るものは、それだけでは信用出来ない。
しかし 先に述べたような、他の史料と比較する方法を取ってみると、

こういう信用できない書物にあるものでも、はっきり古文書の形で載っているものは、
極めて実物に近い、ということを知ることができる。


(2)の「神使御頭之日記」は確かな原本が存在していて問題にならない。
(3)「妙法寺記」が本物であることも、疑う余地がない。

(4・5・6)「溝口」・「二木」・「岩岡」の三家記および「小平物語」は、
著者自筆のものは、どれも、すでにないらしい。

しかし書物そのものは偽書ではない。
そのことは、 内容や、またその発生事情から考えて、判断できる。

 
これに反して、「甲陽軍鑑」は高坂弾正昌信著となっているが、
「偽書」であることが明らかにされている。
これについては史学雑誌等に多くの考証がある。

しかしながら、徳川時代には、この書を元にした小説的な歴史読み物が、非常にたくさん出た。

のみならず、続本朝通鑑、列祖成蹟、逸史、日本外史、日本野史等、
いずれもこれ「甲陽軍鑑」を典拠としたので、史学史的に、非常に重要なものになった。

本書は実に、わが国の偽書中の、最も著名、かつ、最も注意すべきものの一つと言えるだろう。



 次に混入・脱落・変形等については、「古文書」(感状)および「神使御頭之日記」には、問題はない。

 「妙法寺記」は文政9(1826)年の版本によったが、
東京大学図書館蔵の天保8(1837)年の日付のある長澤衛門なる人の写本「妙法寺旧記」には
「信州塩尻嶺ニ小笠原殿三千斗に而」となっていて、ここだけ前掲の方の五千と違っている。

版本はすべて五千となっているが、なお他の写本によって校合の必要があるだろう。


 「溝口」・「二木」・「岩岡」三家記の信濃史料叢書に収められたものは、
小笠原伯爵家所蔵の笠系大成の付録になっているものである。

そのうち「二木家記」(壽斎記)は史籍集覧中に収録されており、
またこの三書とも明治35(1902)年出版の松本六萬石史料(上)という本に収められている。

 いま壽斎記について見れば、集覧本の底本は上の大成本よりも悪いらしく、誤字が多くまた脱落がある。

たとえば上に引いた終わりの方に
「長時公も漸々林の城へ御引取被成候。晴信公泉迄御働、泉に陣を御取被成、
林への手遣被成候處に、村上殿小室へ働被申候由御聞」
云々のところで、線を引いた部分だけ脱落し、まったく意味がわからなくなっている。(脱落)

 またその次の「二木一門の者、本道を退事不罷成候て、櫻澤へかかり奈良井へ出、
奈良井孫右衛門所にて、飯米合力に請」

の「櫻澤」を「梅津」、「奈良井孫右衛門」を「奈井源右衛門」としている。
「櫻澤」「奈良井」の方が正しいことは勿論である。(誤字)


 六萬石史料に載るものは、さらに大いに原形から遠くなっている形跡がある。

たとえば著者が「拙者十六の正月末也」というところを
「時に天文乙巳正月の末なり」とすべて年号に改めてあり、
その他、この類のことが多い。

しかし大成本にもすでに若干誤りがあるようである。

たとえば始めのほうの長時の家臣を並べたところに「何もさうしや」と変な文句があるが、
これは集覧本にただ「サウシヤ」となっているのが正しく、

すなわち「宗社」で、松本の東にある「総社」から出た姓であることは明らかである。

また中ほどの「長時公被仰候は、我等縁のさきを望事推参なり」となって、
これでは意味不明であるが、 集覧本には「稼ノハナヲ望事」とあるのが古い形であろう。

また「洗馬・山邊、敗軍仕候に付」は、集覧本には「洗馬・山邊、逆心仕」となっている。
これはすぐ下の記事から見て、この方が正しいであろう。

両者を比較すれば原形に近づくことができる。

(4)「溝口家記」も、大成本に比べれば、六萬石史料に載るものは崩れている。

たとえば引用した始めの「三十一之年」を、
後者では「長時、年三十一、天文十八己酉年」となって、注の混入した形がある。

要するに3家記は、笠系大成本が、大体、原形に近いものと思われる。

(7)「小平物語」の信濃史料叢書に載るものは蕗原拾葉本であるが、
これは後に述べるように、上に引用した箇所は、なんの証拠力もなく、
異本との校合の必要がない。

最後に、(8)「甲陽軍鑑」は早く版本となったので、大体原形を伝えていると思われるのである。



3【発生事情の検討】

(1)古文書は一見して明瞭である。

(2)「諏訪神使御頭之日記」は、諏訪神社上社の神官、いわゆる五官の一つである守矢家の記録である。

享禄元年(1528)より天文23年(1554)に至る27年間についての、
上社の祭礼の当番になった郷名を記してある記録である。

その間に細字でもってこれに関係のある要件の他、各年に起こった大事件を記入してあるものである。
すなわち一種の年代記で、同時代の記録と言うべきものである。

もとより年代記であるから、多少追記的であろう。
ことに御頭の日記は、多く「此年」と書き出してあるが、これは追記的である証拠であると思われる。


(3)「妙法寺記」は甲斐国(山梨県)南都留郡木立妙法寺の主僧が代々書き継いだ年代記である。

文正元年(1466)から永禄4年(1561)までの96年間にわたり、
極めて素朴に、毎年の豊凶治乱等の大事件を略述している。

甲斐国誌に引いている勝山記はこの一異本である。

筆者が親しく見聞したところの書き留めで、その点、前書と類似し、ひとしく同時代の記録である。


(4)「溝口家記」(5)「壽斎記」(6)「岩岡家記」は、ほぼ同じ性質のものである。

すなわち(4)「溝口家記」の終わりに、

慶長十三戊申7月吉日      溝口美作守貞康(花押)
謹上 主水助殿   
  (慶長13年は西暦1608年)

とあり、また(5)「壽斎記」の終わりに、

  兵部大輔秀政ひでまさ様御望おのぞみに付、任御意、拙者存候通、書記し差上申候、以上
    慶長十六年辛亥十一月吉日
                      二木豊後入道壽最
      小笠原主水殿
(慶長16年は西暦1611年)

とあるのを見れば、当時、諸臣が小笠原家の故事を記述して、家老に提出したものであることがわかる。

確かに、小笠原氏は天正十八(1590)年、家康の関東入国にしたがって下総に移った。

しかし、関が原の後、秀政が慶長6年(1601年)、飯田(長野県)の城主となり、また故国に帰った。

この時代、一度長く没落して、ようやく復興した小笠原氏の歴史および臣下の功績について、
諸臣に書き出させたと、判断される。

これらはいずれも、主家の興亡を述べるとともに、自分の家の功績を巧みに宣伝しているのである。

すなわち、(4)「溝口家記」は小笠原氏の始祖以来、歴代の小伝を述べ、
長時の条が最も詳しく、その間、筆者溝口直康の祖先以来の忠節を述べている。

(5)「壽斎記」は長時の時以来、生き残りの臣、二木壽斎が、
記憶によって、長時の没落および貞慶さだよし(私注:)の復興を記した形のものである。

その間、彼自身のほかに、父、叔父、その他一族のことを多く記載している。

そして彼が天文13(1544)年を15歳としているところから計算すれば、
この書を提出した慶長十六(1611)年は、82歳に達したわけである。

(6)「岩岡家記」は岩岡織部なる者の記述で、小笠原貞慶の復興の事情を記す。

終わりに、前の2書のような献上の文言が欠けているが、「あらまし如此候」とあって、
同性質のものであることを暗示している。

筆者は塩尻峠で岩岡石見という者が戦死したことを述べ、
「是は拙者祖父にて御座候」と説明しており、前2書とほぼ同時代のものと思われる。


そして笠系大成は、小笠原家の家譜を本伝とし、
付録としてこれらの家記その他の記録を収めたものである。

その序文に、豊前小倉の城主・小笠原候の家臣、溝口正則・二木重時が、
京都で、元禄10年(1697)に編集を始め、 宝永元年(1704)に完成したと記している。

つまりこれらの家記ができた約100年後であり、
その間に若干の変形が考えられるのである。


(7)「小平物語」は伊那郡の人、小平向右衛門正清なる人物が、
祖父・信正入道道三、父・信諸入道円帰に関する話を、父円帰から聞いていたのを、
貞享3年(1686)82歳の時、伊那の漆戸郷で書きつけた、と記してある記録である。

そして上に引いたのは蕗原拾集本であるが、
これは高遠の儒者中村元恒の収集した古書の叢書であり、
貞享より百数十年以後に成ったのである。

 (8)「甲陽軍鑑」については先人の考証があり、ここに挙げる必要はないであろう。

(私注:「発生」も書いてあるが、「来歴」も書いてある。
しかし「作成時の周辺事情」という意味で「発生」に重心があるだろう。)


4【本源性の検討】

 各(1)「古文書」および(2)「神使御頭之日記」(3)「妙法寺記」が、
全く独立的で本源性を持っていることは、なんら疑いを入れられない。

(4)「溝口家記」も上に引用した文句において、他と親近関係を持たないと断定できる。

それなのに、(5)「壽斎記」、(6)「岩岡家記」、(7)「小平物語」および(8)「甲陽軍鑑」は、
発生からは全く予想されないにもかかわらず、内容的にすこぶる従属性があることが認められる。

(7)小平物語の上掲の文は、先にすでに指摘したように、(5)壽斎記と(8)甲陽軍鑑から大いに借用している。

たとえば

(5)壽斎記
「長時公、家老衆を召て被仰候は、下の諏訪に武田晴信より城代を被置候事、
信濃侍の瑕瑾と被仰候て、諏訪の城代追払可申被仰、則両軍の侍、仁科道外」
より以下、武士の名前の並べ方、

「長時公は其日は諏訪の内四ツ屋と申處へ御馬をあげられ候。
夜明候て諏訪峠に御陣御取被成候。其日の四ツに軍はじまり申候。」

(7)小平物語
「天文十四乙巳歳、長時公老臣各を召て宣ふは、一両年已来、武田晴信上の諏訪の城に舎弟天厩差置、
下諏訪には家老の板垣信方を置事、無念の至りなり。
諏訪の城代を踏倒し、其時晴信後詰において有無の勝負と被仰渡、仁科」
以下の武士の名前の並べ方、

「長時公其日、四ツ谷といふ處御馬被上、夜明て諏訪嶽に陣を取、同巳刻に軍始也。」

この両方の表現の様式の一致は、その親近のまったく明瞭な証拠である。

(8)甲陽軍鑑の
「御さきは甘利備前、諸角豊後、原加賀守、右は栗原左衛門、穴山伊豆守、左は郡内の小山田左兵衛、
天厩様、御旗本後備は日向大和、小宮山丹後、かつ沼殿、今井伊勢守、長坂左衛門、逸見殿、南部殿」と、

(7)小平物語の
「御先衆は甘利備前、両角豊後、原、栗原、穴山、小山田、御旗本にて日向大和守、小宮山、菅沼、今井伊勢守、長坂、逸見、南部」

の間の親近は疑う余地がない。

製作年代から言って、(7)小平物語は(5)壽斎記および(8)甲陽軍鑑よりさらに新しいのであるから、
前者が後者の焼き直しであることは明瞭である。

内容的に言っても、そのことは論証される。すなわち、

(5)壽斎記の
「二木豊後、舎弟土佐、三男六郎右衛門、兄弟三人也。豊後子萬太郎、土佐子萬五郎弟源五郎兄弟也。
此源五郎は土佐二番目の子にて候。兄は草間肥前が養子に罷成りて、草間源五郎と申候。」から

(7)小平物語の
「二木豊後、同土佐、草間源五郎(割注:肥前養子)、二木弥右衛門(割注:豊後実子壽斎事)
(今井注:壽斎記に壽斎長じて弥右衛門と改名する記事がある)

が出ていることがわかる。

(5)壽斎記が自分の一族を特に詳記するのはうなずける。
しかし小平物語が、ほかは大部分ただ姓のみであるのに反し、二木の一家を例外的に名を挙げているのは
言うまでもなく借用だからである。

すなわち、一方において妥当な性質を、他方がただ盲目的に踏襲した形跡がある時、
よくその借用を物語るという原則の、すこぶる適切な一例である。


その他さらに子細に見れば、(7)小平物語の上の記事が、
他の両所から借用している点がいかに多いかを、よく見て取ることができるのである。

そのことは(7)小平物語自身が若干物語っている。
すなわち上の文の最後のところに
「是は我等 小笠原古信濃殿 御家中にて聞及也」と書いてあるのである。

次に(6)岩岡家記の「天文巳五月、長時公、信玄公と御取合之時」
(私注:原書では晴信公となっていて、前掲の引用史料文と違っている)

の「巳五月」は14年5月であり、
(8)甲陽軍鑑の「天文十四年乙巳五月二十三日」と親近性があるだろう。

それは後に述べるように、この戦は十四年五月ではなかったのであるから、
このように誤りが一致することは、従属性がある証拠となる。

この場合、この書の最初から上に掲げた文句があったか、
それが笠系大成編集の時までの混入であるか、
それとも「巳五月」のみが変形であるか、という疑問が起きる。

それについては、この文がこの筆者の祖父の戦死を伝えている箇所であり、
主君に対して最も宣伝的効果のあるところであるから、
やはり最初からの形であると見るのが合理的であろう。
ただし、「巳五月」だけの混入も考えられる。

上述のように、この書(6)「岩岡家記」の一写本が六萬石史料に載っているが、
それには不思議にもこの「天文巳五月」が「天文十八年酉五月」となっている。
これは明らかに混入である。

すなわち先に例を挙げたように、年号を入れたことが注釈的であるほか、
五月がついていることによってわかる。

十四年五月なら(8)甲陽軍鑑の親近として必然性がある。十八年五月は意味をなさない。

これは思うに、溝口家記がこの戦を十八年にしているのに合わせて、
「巳五月」を十八年五月と修正したのである。
この点からいえば「巳五月」とあるのが、その部分だけ古く混入する可能性もあり得るのである。

とにかくそれが最初からにせよ、後の混入にせよ、
(6)岩岡家記の天文十四年五月は、(8)甲陽軍鑑の記事と親近関係にあることを認めうる。

ただし、この場合の親近関係は、史実の確定後に初めて推定されることである。
それまでは証言の一致する場合、ということにしかならない。

ここでその親近を決定するのは順序転倒であるが、
後の手続きを、便宜上ここでまとめた。

最後に(5)壽斎記と(8)甲陽軍鑑との間に親近関係は存在しないか。

これについては、両者がこの戦をともに天文十四年としていることは、
前の場合と同じく、これだけでは証言の一致であり、
史実が決定するまで、その従属性を決定する根拠とはならない。

それなのに、このほかにも、若干の親近を示唆するものがある、ということを指摘できる。

1・2の例を言えば、(8)甲陽軍鑑の長時没落の条に、

「小笠原長時いづ方にても他所において少の所領につき、
武田の家に堪忍と信玄公被仰出候へ共、
長時申さるるは、元来武田小笠原兄弟の事、武田は兄なれ共甲州に居る、
小笠原は弟なれ共都につめ、公方様御下に近く罷在候間、
武田より万事手うへなりつると申来り、
長時が代になり武田の被官になる事中々に及ばず候とて、上方へ牢人なり。」

とあるに対し、(5)壽斎記にも同じく長時亡命の前の事として

「晴信公より小笠原憩庵を以て、武田の旗下に御随身候者、一門之儀に候間、
御如在被成間敷由被仰遣候。
御屋形被仰候は、昔より武田小笠原とて兄弟たりといへども、在京して宮仕奉り、
武田より上手の小笠原、 只今長時が代に武田の被官になる事思ひもよらずと返答被仰遣候。
同年十二月晦日大歳の夜、忍びて中洞を御出被成候。」

と記しており、非常に類似した記事がある。

もっとも(8)甲陽軍鑑では、長時は、天文22(1553)年に深志を落ちて上方へ亡命するので、
その時のこととなっている。

(5)壽斎記では天文21(1552)年晦日に二木氏の山城中洞(または中東とも書く)
を落ちて越後へ逃亡するので、
その時のこととなっていて、完全には一致しない。

しかし上のような一致は、両者が直接の親近性がある場合か、
あるいは間接的な親近性、すなわちこの文字的あるいは口頭的伝承を、
両方で第三者から借用しているか、
ないしは一方が第三者を経由して他方に伝わる場合か、
が、当然考えられるのである。

さらにそれ以上に不可思議な謎がある。
それは(5)壽斎記に山本勘助が飛び出すことである。

すなわち長時亡命の後、二木氏は信玄に降伏したが、
長時がこの一族の擁護により、飛騨の国に隠れているという讒言ざんげんがあったので、

山本勘助は信玄の命により普あまねく飛騨の国を探した後、
そのことが虚構であることを復命した、

という記事である。(私注:山本勘助については、内容はともかく、実在は確認された、ことになっているらしい。)

山本勘助は(8)甲陽軍鑑によって吹聴されて初めて大物となった人物である、
とは、諸家が考証したことである。

この人物に長時捜索のような大役を振っているのは、正しく(8)甲陽軍鑑が(5)壽斎記の背景になっているのである、
という推測が一通り成立するのである。

しかし、ここに至って、他のやっかいな問題に衝突することになる。

それは田中義成博士の考証によれば、
甲陽軍鑑が世に行われるようになったのは、寛永(1624年~)の頃である。

それなのに慶長十六年(1611年)の日付のある(5)壽斎記に山本勘助が出てくる。
これを何と説明するべきか。

それには、次のいずれかの可能性を認めるほかないであろう。

(一) 壽斎記の山本勘助の項の混入を認めること。
しかしこの記事は系統の異なる笠系大成本、史籍集覧本、六萬石史料の異本のいずれにも出ているのであり、
軽々しく断定することは許されない。

(二) 甲陽軍鑑ないしそれに類似した書物は予想外に古く行われていたのであり、
壽斎記に現われる上の記事は、それを反映する。

(三) 山本勘助の伝説は、相当に古くからこの地方にあったのであり、そのことが壽斎記に現われ、
また甲陽軍鑑はそれを発展させたに過ぎない。

(二)(三)ともに甲陽軍鑑に関する従来の考証の一部を覆すことになるのである。

そして甲陽軍鑑がすでに慶長頃に行われていたとすれば、
(6)岩岡家記にある「天文巳五月」も始めから軍鑑を借用した可能性が生じ、
これに関する問題は、比較的容易に解消することになる。

(5)壽斎記に一箇所出るだけでは、山本勘助の話の事実性を認められないとすれば、
以上のように考えるほかはない。

 これはここで解決してしまうにはあまりにも難問であり、大方の教示を乞うこととする。
研究者が学問的功名心から不十分な材料で早く結論を立てることは、最も避けるべきである。

とにかく(5)壽斎記と(8)甲陽軍鑑とは、特に山本勘助によって、
ある点までの親近関係を暗示されていると言えるであろう。


(私注1:上記は、もとより昭和10年の研究段階の話である。
しかし、文献考証というものを、一般向けに例示するという目的があるので、ここに掲出する)

(私注2:山本勘助は、山本菅助という宛名の手紙が、山梨県立博物館によって発見され、その実在が確認された。
2009年12月14日付けのウィキペディア訂正記事。誰かが修正してる。さらに2009年12月27日、日経新聞記事によって確認。

今井が首を傾げている、壽斎記の山本勘助に関する記事は、全くのデタラメというわけではなく、
実在した人物について書いていたということである。

大活躍かどうか、までは判定できない。また、手紙が偽作だったら、またわからないことになるが。

すると、壽斎は1611年以前に自分の知識によって書き、
甲陽軍鑑はそのしばらく後に書かれた、ということで、話は通る。が。)





(ここから内容に関する批判)
5【証拠力の検討】

明らかに原典からの借用史料であることが証明できるものは、、独立した証拠力を持たない。
この場合、証拠として検討すべきものは、借りてきた元の原典文献である。

従って、原典から借りてきたとわかっている文献は、事件の証拠からは、除外されるべきものである。

すなわち(7)小平物語の証拠力は、この場合においては、問題とならない。

これは非常に誤謬の多い書物である。

しかも全体としては若干の史料的価値がある。

それは、戦国から徳川初年頃における武士の生活について、 興味ある証拠を提供している。
しかし上に見たように、この事件(塩尻峠の合戦)に関しては、その証拠力は皆無である。

一史料の価値は、固定的基準によって機械的に定めることはできない。

史料として採用される一々の場合について、個々に考えなければならない。
そのことは先に述べたが、これはその一例である。

次に、(1)「古文書」は遺物である。「古文書」の遺物としての証拠力は、
絶対的であることは言うまでもない。


(私注:上の「古文書は遺物である」の1文についての私の解釈。

「古文書が『ある事柄の結果として残ったもの』であることは疑いない。だからその『事柄の痕跡』としての信頼性は絶対的である。」

この解釈は、今井著p24「ベルンハイムは、『ある事柄の直接の結果として自然に残留しているもの』を『遺物』と呼び」から来た解釈である。

古文書の紙質、使われた筆記具等、これらはその時代の物質的残存物としてすぐに思い浮かぶが、
使用文字、用語、文法なども、その時代の物質世界で通用していた、時代を特定できる「物質的残存物」(「遺物」)である。
遺物としての可信性は絶対的である。

この文書内容が事実かどうかは、精密に考えれば、本当に首級を挙げたかどうかまでは、
わからない。確実なのは、「信玄サイドが認定した」ということでしかない。

しかし、古文書が本物であるならば、「戦闘があった」という事実の証拠にはなる。そういう「遺物」である。(?)

   物質的に、その事件の結果、その時代に残(遺)された物。紙。筆記具の痕跡。文字、用語。文章。
   今井は「遺物」の面を強調しているだけで、私の定義からすれば、
   書面の物体については「遺物」、内容に関しては「証言」。両側面がある。)


     
(2)「神使御頭之日記」と(3)「妙法寺記」の記事は、ともに同時代の人の見聞の記録である。
そのことの観察の最初の伝承()である。
少なくとも、この種のものまでは、いわゆる「根本史料」とするべきものである。

 そして日記でなく年代記であるから、記述の前後は不明であるが、
対象とする事件からの空間的関係から言えば、前者の方が、証拠力が大である。

前者の筆者の居所は、事件の場所より4里ほどの距離にあり、しかもよくその峠を望見することができる。
事件の印象が直接的である。

これに反し、後者の筆者は事件の場所より何十里をへだて、
ある日時を経てその戦に関する報告を得たのである。

経験がはるかに間接的であり、注意も前者ほど大ではあり得ない。
それゆえに錯誤の可能性が多くなり、公式的には、この方の可信性が前者より少ない、と見るのが当然である。


以上を除けば、(5)「壽斎記」、(4)「溝口」・(6)「岩岡」の両家記および(8)「甲陽軍鑑」が残る。

これらには、前述のように親近関係の疑わしいものがあるが、
それはこの場合なお未定であるから、一応その価値を考えなければならない。

(5)壽斎記は関係者が60年以上を経た時の回想録である。

証言が事件の直接の経験である点から、すこぶる重んぜられるべきものである。
ただし、非常に長い時日を隔てているために、錯誤の可能性が大であることに注意しなければならない。

(4)溝口・(6)岩岡の両家記は、直接関係者の子弟がその父兄から得た報告の再現である。
そして同じく長い年月を経ている。

経験が直接でないために、形式的には、錯誤の可能性はさらに大であると考えるべきである。

なお、上の3書は、ともに自家を宣伝する副目的を含んでいる。
その点から、いずれも同様の虚偽の可能性がある。

これらの要素の他に、なお考慮に入れるべきは、陳述者の素質である。
すなわち、記憶力および正直さが問題になる。

長い年月を経たことである時、記憶力は無視できない要素である。

そしてこれらの要素を入れて考える時には、
事件の直接経験者の証言が、必ずしも、間接経験者のそれよりも、
錯誤・虚偽が少なく、証拠力が高い、とは、限らない。

それゆえにこのような性質のものには、決して簡単な機械的な基準を当てはめてはいけない。

その証言を採用する際、その証拠力は制限されたものであることに十分な警戒を払う必要がある。
個々の場合について、吟味を加えて、その採否を決しなければならないのである。

最後に、(8)「甲陽軍鑑」は前述のように偽書である。

しかし偽書であっても、史料としてまったく採用できないわけではない。
つまりこれは、文献的遺物としては重要なものである。
その意味で、種々の場合に、史料的な価値を発揮するだろう。

しかし証言として見れば、この種のものは、はなはだやっかいなものである。
その理由は、方法的には次のように説明できるだろう。

1、この種の証言は確かにある歴史的事実を含んでいる。
それは著者が聞き集めた素材である。
しかしそれは著者の直接経験でなく他人からの伝承である。

伝承は人を経由するに従って変形する可能性を持つものである。
その最初の報告者が不明である伝承は、最も警戒を要する性質をもつ。

甲陽軍鑑のようなものは、内容に歴史的要素を含んでいることは明らかだが、
その部分も事件の極めて間接的な伝承で、錯誤が多いと思われる性質を持ち、
容易に信用し難いのである。

2、この種の書物は、その一方、宣伝的な性質を持つものであり、
また、広義の文学的作品である。

それゆえに、それは多分に利己的、または芸術的な目的からくる、虚構性を帯びている。
したがって、もしその中に若干の事実性があったとしても、
それを作為的要素から篩ふるいにかけることが難しい。

これらの理由から、(8)「甲陽軍鑑」のようなものを、事実の証言とすることは、躊躇しなければならない。

しかしこれが採用できないとなると、問題はなお残っている。

先に挙げた(5)「二木」(6)「岩岡」の2家記は、
発生から言って外形的には史料として採用されるべき形式を持っている。

それなのに内容から言えば、その中に、甲陽軍鑑との部分的親近性を疑うべき理由があるものがある。

そしてもしこの親近性が確実であり、しかも甲陽軍鑑の方が根本であるならば、
その部分についての証拠力評価は、完全に逆転する。

それらの証言に価値を認めるのは、その形式的性質に相応する部分についてのみである。

上の2家記の中には、確かに特殊な記事があり、書物そのものとしては無視できない史料である。
しかし証拠力が全体的には認められても、親近性の疑いある部分については、問題はなお未決定である。



6【解釈】

 以上の諸史料が何を証拠立てるかを、言語的にまた内容的に解釈する。

(一)古文書
上の古文書は、天文17年7月19日午前6時に塩尻峠において、
武田信玄が何人かと戦ったことを的確に証明する遺物である。

これだけでは相手が誰であるかわからない。
しかしそれは他の史料によって小笠原長時であったと解釈できるのである。

卯の刻とあるので、6時頃すでに戦がたけなわであり、すなわち非常に早朝の戦であったことがわかる。

(二)神使御頭之日記 
 これが上の史料中、最も難解なものである。

ことに「勝○に於て」としてあるのは、その字が誤字を書いてそれを直した形になっていて、
読みにくいためである。

その上字句にも「田部籠屋」、「御柱宮移にさはられ」、「西の一族」等、

神社関係および、当時のこの地の、社会的事情の基礎知識がないと理解できないものがあり、
その上文章も表現が断片的かつ不完全で、解釈が難しい。

   (私注:史料の文章をそのまま読むと、言わんとしたことと、表現された結果が、逆のようである。
   すなわち「西方破、悉ことごとく放火候て」をそのまま読むと、前後関係からすると、文章の意味が逆である。)

その関係を十分に理解することは困難であるが、
この戦に最も必要かつ疑いのない点をかいつまんで記せば、左のようになるだろう。

1、4月5日、村上・小笠原・仁科(安曇)・藤沢(伊那)の諸豪族が同盟して、
下諏訪(私注:信玄の支配地である)まで侵入し、放火して帰った。
それで御柱祭は、4月15日に甲州方で曳いて、決まり通りにすました。

2、6月10日、小笠原長時が下諏訪まで侵入した。
下社配下の人民だけで相手になって、多数の敵を倒した。
小笠原長時は二ヶ所負傷した。
御柱祭に支障を来たさせた神罰である、と評判された。

  3、7月10日、諏訪氏の西方の一族(西四郷の一族という)や矢島・花岡の諸氏が、
武田氏の支配に対して反抗し、反乱が起こった。
19日に、その反乱者側が破れ、みな放火された。
その信玄が小笠原長時を勝○に撃破し、小笠原長時側が千余人、戦死した。

 この「勝○」とあるのは不明であるが、
これが古文書に塩尻峠の合戦とあるのを指すことは、疑う余地がない。
いま峠から隔たっている南方に「勝弦」という所があるが、それだろうかと思う。

 文句を上のように解釈した上で、以上の事実の推移を見れば、
その中にすこぶる多くの重要な着眼点を挙げてあることが注意される。

 4月5日信玄の支配地たる諏訪に信州南北の諸豪族の侵入があり、
小笠原はまた6月10日に侵入し、下社の人民と戦った。
7月10日には郡内に武田氏に対する反乱が起こったが、
7月19日にまったく鎮圧された。
その日塩尻峠に武田小笠原の両軍が衝突して小笠原が敗れた、という順序である。

これは無論全部内的に連絡があり、事件が上の順序に展開していき、
7月19日をもって大段落となったのである。

 小笠原の侵入と郡内に起こった反乱とは、もちろん無関係ではないはずである。

また7月19日の記事は、反乱の失敗を先に、武田・小笠原両軍の衝突を後に書いてあるが、
それは反乱のことをその前に述べてあるため、後が先になったのであろう。

両軍の衝突が、古文書によって、きわめて早朝であるところを見れば、
事件の順序はむしろその逆である。

信玄は早朝、まず、長時を嶺上に強襲して致命的な打撃を与え、
一方、郡内の反乱の掃蕩は、その日悠々と徹底的に行われたのであろう。

 そして信玄の来着はもとより7月10日以後、おそらく19日のわずか前と思われ、
また戦争が早朝であるところから見て、長時も、その日に出兵してきたのでない、
ということは明らかである。

 この史料は前述のように神事の当番を記した余白に当年の事件を書き付けたもので、
できるだけ短く断片的に要項だけ記入してあって、
事件の連絡を取ることが甚だ困難であるが、

内容的にはこの戦に関する第一の史料であり、これを正当に解釈することが、
この戦の種々の関係を理解する最上の鍵となるのである。

 (3)妙法寺記(4)溝口家記(6)岩岡家記(8)甲陽軍鑑
   の上掲の文の文字的解釈は容易である。

いま内容的にそれらが証拠立てる必要な点をかいつまんでみる。
その中で甲陽軍鑑は証拠力が乏しいが、
なお部分的には事実を包含していることもあるだろうから、とりあえずこれも加えておく。

(三)妙法寺記
 天文17年7月15日、信玄は長時が五千の兵をもって塩尻峠に集まったのを早朝攻撃し、
これを全滅せしめた。
(松本地方からの五千はすこぶる大なる数である。
  後年松本藩の水戸浪士と戦った兵力は四・五百に過ぎなかった。)

(四)溝口家記
 天文十八年、長時が信玄と諏訪峠(塩尻峠の別名)に数刻戦ったが、
西牧・三村両人の武田方への内応によって長時が敗北した。

(五)壽斎記
 天文14年、長時が信玄の勢力を諏訪から一掃しようとして出陣したが、
信玄の出兵によって、その夜四ツ屋に駐屯し、翌朝塩尻峠に上って信玄の来攻を待った。

午前10時から戦闘が開始され、長時側は5回甲州軍の攻撃を撃退したが、
6回目に三村等の内応によって敗れ、長時の精兵は皆戦死した。

   *(6)岩岡家記(7)小平物語は略

(六)(8)甲陽軍鑑
天文14年5月23日午前10時、小笠原・木曽の連合軍は、塩尻峠を下って、
ちょうど出兵してきた信玄の軍を逆襲したが、信玄は連合軍を撃破して、629の首級を得た。

(七)地理
 地理が重要な史料であることは先に述べた。
地理は遺物であり、ただこれを解釈することによってのみ、史料となるのである。

 塩尻峠は筑摩諏訪両郡の境界をなす所で、標高千メートルをわずかに越している。
しかし諏訪湖面すら海抜約760メートルに達しているから、
事実上、峠は高くない。

だから、江戸時代、中山道中ではむしろ、すこぶる小峠というべきものであった。
ただ甲府と松本との間においては、唯一の峠である。

 天文時代の峠は、徳川時代の中山道の数町南にあり、この山脈の最低所を通り、
現在古道(ふるみち)の名を残している。

信玄の根拠地たる甲府よりは約18里であるが、長時の林の城よりはわずかに5里余りに過ぎない。

長時の領地からいえば、ここが突破される時、もはや敵は直ちに城下に殺到する危険に陥る。
だから、すこぶる重要な防御地点である。

 峠の西側は長くゆるやかに、東側は短く急である。
それゆえにこの地点は、東方からの攻撃に対する防御において、はるかに有効である。

この峠が戦場になったことは、明らかに長時が防御的であり、信玄が攻撃的であったことを意味する。
それは両者の兵力に関係があるであろう。

信玄の兵力はすでに少なくとも甲斐一円から徴集されて来るに反し、
長時の兵力は大体わずかに筑摩安曇二郡の武士群に過ぎない。

それゆえに信玄が全力を挙げて来る時、長時が防御的になるのは当然である。

 峠が戦場となる時には、必ずしも道路によって行われたのではないであろう。
すなわち両者の戦略的必要から、時に道路を無視した展開をなすべきである。

(2)御頭之日記に別の地名が出ているのは、それに関係するのだろう。



7【史実の決定】
 史料を基礎として史実が決定される。

 まず戦の日時である。それは「古文書」によって、
またそれに「諏訪神使御頭之日記」「妙法寺記」を傍証として、
天文17年7月19日早朝であったことが決定される。

 妙法寺記には7月15日とあるが、それは史料批判において見たように、遠距離にあり、
また直接の観察でないために起こった錯誤であろう。

ただしこれは、19日という記述を、いつか15日と誤写した可能性もある。

そして、(1)古文書は幾通りもあるが古文書相互、すなわち遺物と遺物とが一致し、
また(1)古文書と(2)御頭之日記、すなわち遺物と証言とが一致し、
さらに(2)御頭之日記と(3)妙法寺記、すなわち証言と証言とが、大体一致することになる。

他の一方、(4)溝口家記には天文18年となっているが、
これは1年の聞き誤りまたは覚え誤りであって、
60年後の証言にはすこぶるあり得るであろう誤りである。

さらに(5)壽斎記(6)岩岡家記および(8)甲陽軍鑑は、いずれも天文14年に戦があったことを報じている。
これは証言と証言との一致である。

しかしながら、これを採用することになると、
当然、戦は、同じ場所で同じ相手によって、二回行われたことになる。

それは、異なった二つの証言を、相矛盾するものとしないで、補足しあうものとする解釈である。
東筑摩郡誌のように、その扱い方をした編纂物も、ないではない。

それについて注意すべきことは、基礎的な史料において、
ただいずれかの一方を載せ、決して同時に両方を載せていないことである。

上に見たように、全部の史料がただ一回の戦を報告している。
これはすなわち「沈黙の証拠」であり、戦がただ一度であったことを証明するのである。

それゆえに、これは相補足しあうものでなく、相矛盾するものと見るべきである。
相矛盾する二つの証言は、必ず一方が誤りでなければならない。

そして17年の戦は確実な証拠によって立証されるのに反し、
14年の戦はその証拠に決して確実なものがなく、
また、同年の他の確実な事件、すなわち信玄の箕輪攻撃等と連絡しない。

ゆえに、14年は、17年を誤り伝えたと見なければならない。

 このことはすでに古人も気がついたようである。
たとえば甲陽軍鑑大全のように、武田三代軍記のように、
まったく軍鑑を基礎にしているにもかかわらず、
この峠における天文17年7月19日卯刻の戦を記している。

これはこの戦の古文書を見て、これによらざるを得なかったのである

(ただし上の二書のこの戦の記事はまったく親近である)。
 
(5)壽斎記に、長時が先に諏訪に出兵し、信玄の到来によって若干軍を回し、
この朝、峠に上って敵の攻撃に備えた、と記しているのは本当だろう。

双方の根拠地の距離の関係から見て、また諏訪におけるこの時の反乱から見て、それが当然である。
その上壽斎が、当時、若武者として一族と共に参加している。
だからこの点までも誤る事は、まずあり得ないだろう。

 (5)壽斎記などは、当事者の証言といえども錯誤があるであろうことは、先に述べたところである。
ことに言うまでもなく、それは80歳以上の老人の約60年前の思い出である。
それに錯誤があることは何の不思議もない。

 現に、筑摩郡平瀬の落城は、(3)妙法寺記によれば天文20年であるのに、(5)壽斎記はこれを18年としており、
信玄が伊那の箕輪を攻撃したのは、同じく(3)妙法寺記によれば天文14年であるのに、(5)壽斎記はこれを13年としており、
諏訪氏の滅亡は天文11年であるのに、(5)壽斎記はこれを14年としているのである。

 研究法的に問題となるのは、14年の戦の有無でなく、それに関する諸証言の一致である。

(5)壽斎記はこの戦の際、諏訪の城代板垣信形が、
長時の応援のために天竜川方面に出兵した伊那勢に当たって、敗北したことを記している。

(8)軍鑑にもこのことが載っているが、相当に別個の立場から述べられている。
板垣信形は天文17年2月上田原に戦死しているので、これが14年のことであれば差し支えないが、
同年7月19日の戦の時のこととなると、まったく辻褄が合わない。

 これらの不思議の一致点からして、さらに軍鑑と壽斎記等との親近関係の問題が、改めて注意喚起される。

 しかし、全体的に両書を比較すれば、その一致はむしろすこぶる局部的である。
一例として年代を取れば、諏訪氏の滅亡を軍鑑は天文13年とするに対して、
(5)壽斎記は14年とし、桔梗が原の合戦を、前者は同22年とするに対して、後者は21年としているのであり、
年代が一致するのは、わずかにこの戦のみである。
しかもこの戦においては、年のみならず、巳刻という時間まで一致している。

 ただしこれだけならば両書のでたらめの暗号とも見られるのであるが、
そのほかの局部的一致、ことに前述の山本勘助によって両者のある程度の親近が示唆される。

しかし両者の親近関係を断言するには、その一致は余りにも局部的であり、例外的である。

要するに、天文14年説の根拠となる諸書の一致は史料批判の迷宮的難問を提出するものであるが、
14年の戦が誤りであることは、疑いを入れないのである。


次に確実なことは、信玄の勝利が決定的であったことである。

(3)妙法寺記の「悉、小笠原殿人数ヲ打殺シ、被食候」は誇大であったとしても、
(2)御頭之日記に「小笠原衆上兵共ニ千余人討死候」とあり、
(5)壽斎記に「御旗本衆能者共皆討死仕候」とあり、
長時が致命的な打撃を受けたことは明瞭である。

両者の兵数および戦死者の数は不明であり、記録の数字は必ずしも信用がおけないが、
小笠原方は安筑2郡を挙げる兵力をもって出兵して、ほとんどその精鋭を失ったのである。(以上肯定:と今井注)

 信玄の敵は小笠原・木曽の連合軍だったとは(8)「甲陽軍鑑」の記すところであるが、
これは全然他の史料には現われず、長時は単独で戦ったと解されるのである。

この年、4月、村上・仁科、藤沢の諸氏が長時と同盟して諏訪に侵入したことは、
(2)御頭之日記によって知られるが、それらもこの戦には参加しなかったと解される。

(5)壽斎記に、仁科が下諏訪攻撃の半ばにして陣を撤して去ったことを、
 長時の「御一代の御分別違いなるべしと申し候」と記しているのは、

最も可能性のある仁科さえ、この時、長時と行動をともにしていないことを示すものである。

長時方の敗因として、小笠原方の史料(4)「溝口家記」(5)「二木壽斎記」は
三村等の裏切りをあげている。これは相当に可能なことと見なすべきである。

(4)溝口家記と(5)壽斎記には親近性が認められず、
しかも双方の証言が一致しているのは、これを証明するだろう。

(2)御頭之日記や(3)妙法寺記が沈黙しているのは、それらがすべて極めて簡潔に記して、
決して委曲をつくさないためである。

これは武田方の工作によったのであろうが、
敵の力を分裂させることは信玄の慣用手段とも言うべきものであり、
この際にも十分あり得たことである。

ことに長時が要害に拠りながらあっさりやられたのは、それに関係があろう。

(5)壽斎記に、長時が先に出兵し、信玄の到来によって若干軍を回し、
この朝峠に上って敵の攻撃に備えたと記しているのは実情であろう。

双方の根拠地の距離の関係から見て、また諏訪におけるこの時の反乱から見てそれが当然であり、
その上壽斎が当時若武者として一族と共に参加しており、
この点までも誤ることは、まず、あり得ないからである。(以上蓋然:と今井注)

(史実の決定・終わり)




8【歴史的関連の構成】
 以上のように史実が確定もしくは推定を見た。

ここにおいて、これを当時の状態の発展の中に配置して、
その全体的関連を、因果的に究明し得るに至ったと言える。

そのために、それに必要な事項を、年表的に列挙してみよう。
享禄元年(1528)~天文元年(1532) 武田・諏訪両氏しばしば交戦
天文4年(1535) 両氏和睦
同 6年 (1537)  諏訪氏、小笠原領に侵入
同 7~8年 武田・北条両氏しばしば交戦
同 8年 (1539) 小笠原・諏訪両氏和睦
同 9年5月 (1540) 武田氏、佐久を侵略
同   11月   武田・諏訪両氏婚家を通ず
同10年5月 (1541) 武田・諏訪・村上、連合して小縣郡に侵入し、海野氏を追う
同   6月   武田晴信自立、信虎引退
同11年7月  (1542)  晴信、高遠と同盟、諏訪氏を亡ぼす
同   9月  晴信、高遠を破る
同14年4月~6月(1545) 晴信、伊那の箕輪(藤沢氏)を攻める。質を取って和睦
同15年8月(1546) 晴信、佐久の志賀城を陥れる
同16年  (1547) 晴信、二回信濃に出兵
同17年2月 (1548) 晴信、村上義清と上田原に戦って敗北
同   7月  塩尻峠の戦
同   9月 晴信、佐久の諸将を破る
同19年9月 (1550) 晴信、小縣郡戸石城を攻める
同20年11月 (1551) 晴信、筑摩郡平瀬城を陥れる
同21年(1552)  晴信、安曇郡小岩嶽城を陥れる
天文22年(1553)8月   村上義清、越後に亡命
                                                                                                                                                                                         
 以上は妙法寺記その他によって、かいつまんで記した史実であり、当時の形勢の推移の輪郭をなすものである。

 それについて考察すれば、天文4年、その時まで敵対関係にあった武田・諏訪両氏が和睦し、
諏訪氏は小笠原氏に当たり、武田は北条氏と戦い、また天文9年・10年、佐久方面に出兵した。

10年武田信虎が海野氏を攻めた時、村上・諏訪両氏はこれと行動をともにした。
すなわち武田信虎は、天文4年より10年にわたって諏訪氏と交誼を結んで、
一方では北条に当たり、一方では佐久方面の経略に着手したのである。

 しかし信玄は天文10年自立の後、直ちに父の政策を変更し、
高遠等と同盟して、突如諏訪氏を襲ってこれを亡ぼし、その地を奪って信州経営の中心的立脚地をつくり、
さらに高遠を破り、また箕輪を攻めて、まず第一に伊那方面に進出し、
さらに天文15年以後3年にわたって佐久小縣方面に矛を転じ、
ついに村上氏の居城を衝つく形勢を示したのである。

 しかし、天文17年2月14日、村上氏の居城に近い、いわゆる上田原の合戦において村上氏と戦って破れ、
多くの武功の宿将が戦死した。

 この敗戦は(3)妙法寺記に
「甲州人数打劣け、板垣駿河守殿、甘利備前守殿、才間河内守殿、初鹿根伝右衛門殿、
此旁打死被成候而、御方は力を落し被食候」

とあるように、信玄自立以来の、無人の野を行くが如き信濃経営を、蹉跌さてつせしめるものであった。

 従来信玄の鋭鋒に当たりかねた信州の諸豪族は、晴信与くみし易しとして、
いまやいっせいにこれを反撃し、その侵略地を奪おうとした。

 すなわち村上・小笠原・仁科・諸氏の同盟がなって、4月、諏訪に侵入した。

箕輪の藤沢氏は、先に信玄に囲まれ質を出してわずかに和したが、
いまやまたその地位を回復しようとするに至ったものと解される。

 また小笠原長時は信玄の勢力がすでに山一つ彼方の諏訪に確立し、
さらに伊那に入って藤沢氏に迫ったので、小笠原氏はその羽翼をそがれる形勢となり、
すこぶる不安定な状態にあったことが察せられる。

したがって長時が、信玄の敗戦を利用して諏訪を奪い、
かねてそれによって武田方の勢力を信州から一掃しようと計画したのは当然である。
それが4月以後の3回もの諏訪侵入となったと思われる。

 諏訪諸氏の反乱も、従来は武田氏の武力の前に怖れ伏していたのが、
いまやこの羈絆きはんを脱しようと試みたものにほかならず、

またこれには小笠原の手が大いに動いていたことは、
その反乱に際して長時が出兵していることによって、見て取れる。

 さらに妙法寺記によれば、この年8月、佐久の諸将が武田氏の武将、小山田と戦っている。
これも、その記事の書き方によって判断すると、
一度屈服したこの方面の諸豪族が、信玄が諸方に敵を受けるに至った機会を利用し、
連合して反撃を試みたことが察せられる。

 以上の推測は、全部は当たらずといえども、ほぼ当時の実情に近いと言っていいであろう。

要するに、上田原の戦において、武田氏の信州における地位が危険を感じるようになったことは明らかである。
諏訪が動揺し、佐久が動揺し、そして信州諸将の反武田同盟が成立した。

信玄はある程度まで、再び出直さなければならない立場におちいったのである。
そしてこの形勢を一変させたのが、この戦である。

 信玄は諏訪の反乱を聞いて急遽出兵し、ちょうど侵入していた長時を塩尻峠に撃破した。
小笠原氏は、家格的に、また地理的に、信州諸将の同盟の中堅である。

小笠原にして倒れれば、村上・仁科・藤沢の合従の如きは支離滅裂たらざるを得ず、
いわんや諏訪の反乱の如きをや、である。

 戦略的に見て、また政略的に見て、小笠原長時に打撃を与えることは、
この時の信玄にとって最も必要な、また最も時宜に適した処置であった。

それはあたかも一方の小石が囲まれた時、それをしばらく放棄して、敵の中央の大石を攻め、
これを殺して曲面を転換した碁戦の名手に比すべきものである。

 塩尻峠の戦によって、小笠原氏は針なき蜂となった。

信玄はこの方面の地盤を固めた後、9月、迅速に佐久に出兵し、
小山田を苦しめていた敵を殲滅し、田の口城をほふって、
「佐久ノ大将ヲ悉ク打殺ス、去程ニ打取其数五千許、男女生取数ヲ不知」(妙法寺記)
と記されているように、またこの方面の地盤を固めることに成功したのである。

 実にこの年は、信玄にとって失敗と成功と二つながら著しい年であり、
それ以後、侵略の歩みは着々として進んだのである。 


9【歴史的意義の把握】

 信玄の戦争史において、また信州諸侯の歴史において、塩尻峠の戦の意義は大である。
この一戦によって信玄の信州併呑は決定的となった。
この戦にして勝敗を異にすれば、信玄は父信虎の代より約10年の間、
だんだんと蚕食したこの国の領地を、放棄せざるを得なくなったであろう。
彼は上田原で失ったところを、ここで回復したのである。

一方信濃の守護として名門を誇った小笠原氏は、この嶺上にその伝統的地位を失った。
これは実に小笠原氏の「長篠の合戦」である。

この戦以後の長時の運命は最も哀れむべきものであった。
すなわちこの峠は彼がやがて林の居城をすてて走り、
数年後にはうらぶれて他国に亡命し、あるいは京都に行き、
あるいは越後に行き、最後に奥州会津において非業に死するまで、30余年の全国的放浪生活への門出であった。

ひとり小笠原氏のみならず、この戦の後において、信州諸豪族の意気はまったく消沈した。
彼らはただ塁を高くし、堀を深くして、専心、自己の居城を守るのほかなきに至ったようである。

 妙法寺記によるのも、天文17年以後川中島の対陣まで、この国における信玄の戦はもはやまったく攻城戦となり、
戸石のように、平瀬のように、小岩嶽のように、要害が次第に陥落したことを記録しているのみであり、
上田原・塩尻峠にような野戦の記録を見ない。
それはほとんど記録すべきものが存在しなかったことを意味するであろう。

 上田原に信玄を逆襲して万丈の気を吐いた村上義清も、その後孤掌鳴らすに由なく(一人では何もできない)、
天文22年に至り「此年信州村上殿八月塩田ノ要害ヲ引ノケ行方不知ナリ候。1日ノ内ニ要害十六落申候」(妙法寺記)
というような貧弱な没落をなしているのである。

 武田氏は名門ながら、信玄自立の時においては北条今川のような強大に比べてむしろ微力な存在であった。

それらに対抗する素地を作るにおいて、彼は信州に、まことにあつらえ向きの舞台を見出した。
すなわちそこには中世的小勢力が割拠してなんらの団結もなく、甲州にとって最も抵抗力に小さい方面であった。

そしてこの地域を併呑するに及んで、武田氏は東日本における恐怖となり、
上杉、北条、今川、織田、徳川の諸雄を圧迫するに至ったのである。

 彼の基礎的地盤開拓の工作において、この戦はすこぶる大なる役割を担ったものであった。

天文17年7月19日、青春28歳の彼武田晴信が、この峠の嶺上に立って、
英姿颯爽、はるかに日本アルプスの威容を望んだ時、
他日「関東の弓矢柱」として戦国の群雄を脅威した、輝かしい将来が約束されたのである。



10付記
 天文17年7月19日は、西洋紀元の1548年8月22日に当たっていた。
しかしそれは当時のジュリアン暦であるので、これをその世紀の末から採用されたグレゴリー暦、
すなわち現行太陽暦に換算すれば、同年9月1日となる。

そして9月1日の東京における夜明けは午前4時39分、日の出は同5時12分であり、
この戦場のあたりではそれより5分あまり遅れるのであるから、夜明けは4時45分頃、日の出は5時18分頃である。

これは信玄がその前夜どこに宿営したか、すなわちその朝どこから軍事行動を開始したかを考えるのに、多少のてがかりとなる。

 信玄が甲州から出兵して来て、本営とすべき地点は第一に上原城である。

それは御頭之日記に此年二月十四日の上田原の戦のことを載せ、
「甲州ヨリ此方之郡代ニ上原城ニ在城候板垣駿河守殿討死、其舎弟室住玄蕃允殿三月ヨリ此方ニ在城」
と記してあるところから見て、

信玄が到着後ひとまずこの郡代室住玄蕃允の拠っていた上原城に落ち着くことが当然と考えられる。
しかし7月19日の朝、ここから出発したのではないことは推察できる。

6時頃に戦闘がたけなわであるためには、すでに少なくとも夜の二時前に上原城を立たなければならないからである。
上原でなければ、その夜の信玄の宿営地は下諏訪であろう。

 当時社寺は相当な軍事的勢力であり、諏訪神社下社が一武力であったことは、
6月10日に長時が攻めてきた時、「下宮地下人許出相」かなりな抵抗力を示していることで知られる。

そして下社は天文11年にすでに信玄の与党となって諏訪頼重を亡ぼすのを手伝っている。
その時のことを記した守矢頼真書留に
「同二十四日(今井注、6月)甲州高遠外宮方同心にて打入候由、酉刻につけきたり候」
とあるによって明瞭である。

まさに信玄は、諏訪氏を倒すのに、まず高遠および下社を薬籠中のものとしたのである。

 それで17年の4月5日に村上・小笠原・仁科・藤沢の連合軍が下社まで押し寄せて乱暴して帰ったのも、
6月10日に長時が下社を攻めたのも、
信玄の味方たるこの神社を脅かしたことにより、明らかに信玄に対する敵対行為であり、
下社はこの方面における武田方の最前線をなしていたと解される。

 信玄が上原城から前進すればこの線まで出るのが定石であろう。
下諏訪あたりに夜陣を張れば、少なくとも夜の白々明け、
すなわち天文学でこの日の夜明けと呼ぶ4時45分頃、
軍事行動を起こさなければ6時前後に戦うことはできない。

 下諏訪のあたりから恐ろしく早く進発したとして、ようやく卯刻の合戦というのに間に合うのである。

それならばその夜、小笠原方は壽斎記に「長時公は其日は諏訪の内四ツ屋と申處へ御馬を上げられ候」
とある通り、峠下に陣取っていたはずであるから、
両陣営は約一里をへだてて相対峙したことになる。

思うに両軍共興奮と緊張とに眠る間もない重苦しい一夜であったであろう。

 9月1日頃、山国は初秋の気がすでに十分に漂っている。しかし日盛りにはなお相当に暑い。
信玄は一つにはこの時候の戦争として攻撃能率の最も高い、夜明けの涼気さわやかな時を選んだものと解される。
ここに補助学科としての年代学の応用の一例がある。

以上は史料の解釈ないし史実の決定の項において述べるべき事柄であったが、
その記入を落したのでここに付け加えておくのである。


11補正
 他の科学においても同様であると思うが、史学の研究においては、
各題目について一通り研究が終了しても、その中になお補正すべき不完全な箇所を残しており、
さらにいっそう考察すれば、それが次第に注意されて来る場合が多いのである。

史学の研究において補正を必要とする場合は、
ことに新しい史料が発見されたか、または一応見逃した史料が、新たに注意されてきた場合である。
先に引用した実例においても、その種の点で気づいたものがあるので、その類の補正も研究法の一例としてここに加えておく。

 天文17年7月19日の塩尻峠の合戦に関係する史料として、先に列挙したもののほかに、なお次の2・3があることに気がついた。

一、 安筑史料叢書古文書集成上巻に載せられた二三三号の文書に、

今十九卯刻、於信州塚魔郡塩尻峠一戦之砌、頸二ツ討捕之條、神妙之至候。
弥可抽忠信事肝要候、仍如件。
     天文十七戊申  七月十九日   晴信   内田清三殿

という先に挙げた数点の文書とほぼ同文の晴信の感状がある。
これは結論に何も加えないけれど、重要史料の補遺として加えておくべき一つである。

二、 諏訪史料叢書巻十五上者神長官家文書に集められた64条の天文22(1553)年11月の守矢頼真書状中に次の文句がある。

   去戌申七月十日之乱に御馬、同十八日に上原へ御着候時も長坂殿馬御使
   御祈祷之儀、被仰付候間、是も夜すがら、拙者一人にて致祈祷候處、相叶塩尻峠
   之一戦、思召儘候

 先にこの戦のことを書いた中に、信玄の諏訪上原への来着は7月10日以後、
おそらく19日のわずか前のことと思われると想定しておいた。
それがこの頼真書状によって、正しく先の推察の通り合戦の直前18日の到着であったことが知られる。
思うに武田軍はまったく急出陣まったく猶予なく嶺上の小笠原の本陣を急襲したものであることがわかったのである。

三、 同書同神長官家文書142にも神長官訴状覚書案

これは相当に長い文書でそれは全体として難解な点が多いものであるが、
その中に

   七月十九日卯刻に、甲○塩尻峠に押寄處ところニ、峠の御陣ニ者は、
致いたす武田、人一人も無之これなく、過半者は、不起合体に候

 という文句がある。この文書は諏訪社のいわゆる五官の一人たる神長官が、
同副祝と争い事があって、ずっと後になるが小笠原家へ訴え事をしたものの案文であることが察せられる。

 小笠原家復活後、上の文句によって甲州勢が7月19日峠の上の小笠原勢を、
いわゆる朝駆けによって急襲したさい、
小笠原方は全く用意がなく、早朝不意討ちを食ったものであることが判断される史料である。

 先にこの時のことを考証したのは一つは二木壽斎によったのであった。
それによって夜明けて諏訪峠に陣を取ったことを真に受けたが、この文書によれば大いに事情は変わってくる。
小笠原方は始めから嶺上に陣取っていて、不意に寝込みを襲われたことになる。
以上の点で両史料の言う所が、まったく矛盾しているのである。

 壽斎記は当時の体験者の記録であり、神長官の訴状はそれに反して戦の直接体験者ではないのであるが、
壽斎記の記事は老人の記憶によっており、宣伝的要素が多く、案外に信憑性が乏しいもので、
訴状は訴状というものの性質として、よい加減のことを言うべきでない、真剣なものであるはずであるから、
あるいはこの方が真実ではあるまいかと思われる。

 この訴状の書かれた当時、小笠原方にはよく事情を記憶している者があり、
いい加減なことは書けなかったはずである。
少なくともこの史料によって、先に記した嶺上の合戦の実情には、若干疑問を持たなくてはならないものがあると考える。
これに関連して、これは史料の価値にただ時、所、人というような形式的基準で、簡単に決定するべきではない、
一個の実例となし得ると思うのである。

 私は講座の本稿の末尾に「本稿成って後、最後の節に関して、
守矢文書中の守矢頼真書留および神長官訴状覚書案によって、
なお多少明瞭にし得る点、また考察すべき点があることに気づいたのであるが、
印刷後で間に合わなかったので、後の機会を待つことにした」と追記しておいた。
その補正は、その追記に応じたものである。(歴史学研究法・終わり)


(私注:最後に、神長官訴状の発見によって、今井は自らの事実認定を修正している。

これは、二木家記(または壽斎記)にもどって確認していただくとわかる。

以下のように、小笠原長時の軍勢は、信玄軍に対して奮戦したことになっている。
今井も、史実の決定の部分では、壽斎の証言は本当だろうと書いている。

しかし、どうやら本当は「みんな寝込んでいた」、というのが真相らしい、と、判断を修正しているのである。

二木家記(または壽斎記)
「長時公は其日は諏訪の内四ツ屋と申處ところへ御馬をあげられ候。夜明候て諏訪峠に御陣御取被成なされ候。

其日の四ツに軍はじまり申候。初合戦に晴信先手を切崩し、四ツ屋迄敵下し、首百五十長時の方へ取申候。
其日の内に六度の軍に、五度は長時公の勝に候。

このように、小笠原方は、夜明けには布陣していて、初戦で切り崩し、6回戦って5回までは勝っていた、と書いてある。

しかし、当事者ではなく、第三者の証言の発掘によって、判断の修正が図られたのである。)


私註2: 上記のような今井の「『甲陽軍鑑』は偽書」という断定は、一部中世史家には面白くないらしい。
偽書という言葉の強烈さに辟易するようだ。「興味深い内容豊富な<文学>」と言っておけばいいのだろう。

以下、目についた今井登志喜『歴史学研究法』否定論

ウィキ:「甲陽軍鑑」・黒田日出男「『甲陽軍鑑』をめぐる研究史」2006等
(今井登志喜『歴史学研究法』攻撃の文書発見)

教えてgoo:偽書で名高い『甲陽軍鑑』はどこまで信用できるのか?

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