塩尻峠の合戦・史料   (20180614)   (20220614改訂)

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 塩尻峠の合戦に関する文献的史料の中で、方法的に材料となるのは次の種類である。

(1) 古文書(武田信玄が出した感状)(古文書の写真)
(2) 諏訪神使御頭之日記
(3) 妙法寺記
(4) 溝口家記
(5) 二木家記(壽斎記)
(6) 岩岡家記
(7) 小平物語
(8) 甲陽軍鑑

  (私注:史料の種類:
      (1)武田の家臣がもらった武田信玄の感状、(2)武田寄りの諏訪神社の記録、(3)甲斐の寺の記録、
      (4)(5)(6)小笠原氏復興の時に、小笠原氏の家臣が提出した、父祖または自分の経験を書いたもの3種、
      (7)百数十年後に、信州伊那の82歳の人によって書かれた、この戦に触れた本、
      (8)江戸時代に流通した甲州流軍学書。)

 その他、この戦を載せている、時代の下る記録は多数ある。
しかしそれらは、余りにも明瞭に『甲陽軍鑑』の影響を受けた、つけ足し的なものである。
後に多少関連説明することもあるが、特に記載するほどのことはない。

 なお、この合戦に関する「口碑」も、若干この地方に伝わっているが、
要するにこの峠に戦いがあったことを言い伝えているに過ぎない。
したがって、史料として見るほどのものではない。

 一方、この峠を中心とする「地理」が、重要な史料となして着眼するべきであることは勿論である。

 その内容を批判する上で必要なので、これらの史料をいま具体的に記してみる。

  (私注:入力の便宜上、いささか不都合ながら、常用漢字になっている部分もあるが、ご容赦願う。)

  (私注:史料の表記について)


(1)古文書・武田信玄が出した感状 
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 今十九卯刻うのこく、於において信州塚魔郡塩尻峠一戦之砌みぎり、頸壱討捕條、神妙之至候そうろう。
 弥いよいよ可抽忠信ちゅうしん事肝要かんよう候そうろう、仍如件よってくだんのごとし。
 天文十七戊申
   七月十九日       晴信(朱印)
                  波間右近進との
******

            

(2)諏訪神使御頭之日記

     (私注:長野県諏訪大社の御柱祭は、その起源は平安時代以前と言われる古い祭りで、7年に一度行われる。
      テレビ中継で、斜面をすべり落ちる大木に乗る男たちを、見たことがある方も、多いのではないだろうか。

      諏訪大社の外宮にまで討ち入った小笠原氏の動きは、この祭りの進行に影響したため、神官の記録に残されることになった。)


天文17年の条に次の記事がある(注は今井)
******
一、 四月五日ニ、村上・小笠原・仁科・藤沢同心ニ当方ヘ外宮まで討入、たいら計げ放火候そうろうて、則帰陣候。
然間しかるあいだ、御柱、十五日ニ甲州ヨリ、無相違そういなく被為曳候。
神長禰宜ねぎ其外そのほか社家衆、田部籠屋ヨリ帰村仕つかまつり候。

一、 六月十日に小笠原殿外宮まで打入、外宮地下人計ばかり出相、馬廻下侍十七騎、雑兵百騎討取候。
小笠原殿、二箇所手おはれ候。宮移之御罰と風聞候。
其上、村上・仁科・小笠原、御柱宮移ニさはられ候間、末々も可有あるべく神罰候。

一、 此年七月十日ニ、西之一族衆並ならびに矢島・花岡甲州え逆心故、諏訪乱入候。
神長千野殿、従河西上原え移り候。
同十九日に西方破、悉ことごとく放火候て、其日 武田殿小笠原殿於において勝○(注:1字不明)一戦候て、
武田殿打勝、小笠原衆上兵共ニ、千余人討死候。

 *「勝○」というのは、塩尻峠の南方の「勝弦」という所ではないかと言われる。)


(3)妙法寺記

 天文17年の条に次の記事がある。(文政9年の版本による)

*****
 此年七月十五日、信州塩尻嶺ニ、小笠原殿五千計ばかりニ而にて御陣被成なされ候ヲ、
甲州人数、朝懸あさがけ被成なされ候そうろう而て、悉ことごとく、小笠原殿人数ヲ打殺シ、被食くわれ候。
*****

  ( 私注:山梨県南都留郡木立妙法寺の主僧が代々書き継いだ年代記)


(4)溝口家記

  これに載っている小笠原長時の伝記の記事(以下の4書、信濃史料叢書所収による)

三十一之年、於において諏訪峠、武田晴信、法名信玄と打向合戦刻、
西牧四郎左衛門、与洗馬之三村駿河守同心に、其勢千四五百、企逆心、
於後之峠、鯨波を咄と上る。無據よんどころなきに付而つきて、両人之方に被馳向はせむかわれ、
両所の勢傍え引退、不及是非ぜひにおよばず、塩尻長井坂を御退候。
後より慕、長時帰合、不知数かずしれず打捨に被成なされ候。適大将之由、後々申伝候。

 また同書に、長時は天正11年に65歳で逝去した事が載っているから、
それから逆算すると、長時31の年は、天文18年のことになる。


(5)二木家記(または壽斎記)

 この記事は非常に長いが、この種のものの性質を示すことと、
次の小平物語との親近性を証明するために、全体を掲げる。(注は今井)

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 長時公、家老衆を召て被仰おおせられ候は、下の諏訪に武田晴信より城代を被置おかれ候事、
信濃侍の瑕瑾かきんと被仰おおせられ候て、諏訪の城代追払可申もうすべく被仰おおせられ、

則両軍の侍、仁科道外、洗馬の三村入道、山邊、西牧殿、青柳、苅屋原、赤澤、島立殿、犬甘殿、平瀬殿、
其外長時公御旗本衆、神田の将監、標葉、下枝、草間、桐原、瀬黒、何もさうしや、村井、塩尻衆、征矢野、大池各也。
二木豊後、舎弟土佐、三男六郎右衛門、兄弟三人也。豊後子萬太郎、土佐子萬五郎弟源五郎と申候。

長時公近習仕、林に住所、御旗本に罷在まかりあり候。
二木豊後、同土佐、同六郎衛門、同萬太郎是は壽最事也、同萬五郎五人は西牧殿備と一所に罷立候。

惣軍勢、林を立て下の諏訪へ取掛、晴信公より被置城代を、手きつく責申候、四月中旬なり。
強く責申候故、長時公へ城相渡可申候間、御馬を少御退可被下由申候に付て、城を受取可申もうすべき處ところに、

仁科道外望被申もうされ候は、下の諏訪被下くだされ候へ、左候はば甲斐の国迄の先掛を仕つかまつる、
晴信と一合戦仕つかまつり候はんと望申候處ところに、

長時公被仰おおせられ候は、我等縁(注:「稼」の誤り)のさきを望事、推参すいさんなり、と被仰に付て、
仁科道外ほね折ても詮なしと被申もうされ、晴信朱印有とて、軍前をはづし、備を仁科へ引取申候。就其城渡不申もうさず候。

然處しかるところに晴信後詰のために上の諏訪へ御着候。

各おのおの申候は、諏訪を道外に出す間敷と長時公被仰おおせられ候は、御一代の可為御分別違と申候。

長時公は其日は諏訪の内四ツ屋と申處ところへ御馬をあげられ候。夜明候て諏訪峠に御陣御取被成なされ候。

其日の四ツに軍はじまり申候。初合戦に晴信先手を切崩し、四ツ屋迄敵下し、首百五十長時の方へ取申候。
其日の内に六度の軍に、五度は長時公の勝に候。

晴信には旗もとこたへ候付、六度目の合戦に、洗馬・山邊、敗軍仕候に付、長時旗本にて懸つ返しつ軍御座候、
御旗本衆能者共、皆討死仕候故、長時公も漸々ようよう林の城へ御引取被成なされ候。

晴信公泉迄御働、泉に陣を御取被成、林への手遣被成候處に、村上殿小室へ働被申候由よし御聞、早々引被申もうされ候。
其時長時公の衆、能者共、皆討死仕候。

洗馬逆心に付、西牧の衆、二木一門の者、本道を退しりぞく事不罷成まかりならず候て、
櫻澤へかかり奈良井へ出、奈良井孫右衛門所にて、飯米合力に(注:「を」の誤り)請、
御たけ越をして漸々ようよう西牧へ出申候。
*******

壽斎はこの戦の時を何年とは記していないが、
斎すなわち上の文中に出る二木萬太郎の「拙者16」という年の所の記事であり、
そしてその前に伊那に出陣した所の記事に
「其時壽最(注:壽斎)を萬太郎と申し候、年15歳の時也、生年は庚寅の年にて候、
始て具足を着し御供仕候、天文13年甲辰の年也」
と記しているから、この戦は明らかにその翌年、天文14年を意味していることがわかるのである。


(6)岩岡家記
 この記事は極めて簡単なものである。

天文巳五月、長時公、信玄公と御取合之時、於諏訪峠、岩岡石見、討死仕候。是は拙者祖父にて御座候。


(7)小平物語

******
天文十四乙巳歳、長時公老臣各を召て宣ふは、

一両年已来いらい、武田晴信、上の諏訪の城に、舎弟天厩てんきゅう差置、下諏訪には、家老の板垣信方を置事、無念の至りなり。
諏訪の城代を踏倒し、其時、晴信後詰において、有無の勝負と被仰渡おおせわたされ、

仁科、洗馬、三村、山部、青柳主計、西巻、犬飼、赤澤、島立、平瀬、各の衆、大身旗頭なり。

その外旗本、神田将監、泉石見、栗柴、宗社、草間、桐原、村井、塩尻、大池、二木豊後、同土佐、草間源五郎(割注:肥前養子)、
二木弥右衛門(割注:豊後実子壽斎事)、丸山筑前守、此外、木曽同勢にて、雑兵共に八千余騎の着到を以、

塩尻を打越、諏訪近に陣を取、板垣が城を攻給ふ。

すでに本城ばかりになり、危き處に、又晴信後詰として、上諏訪迄御出にて、

御先衆は甘利備前、両角豊後、原、栗原、穴山、小山田、御旗本にて日向大和守、小宮山、菅沼、今井伊勢守、長坂、逸見、南部、
都合九千余騎の軍兵を以て、小笠原へ御向被成也。

長時公其日、四ツ谷といふ處、御馬被上、夜明て諏訪嶽に陣を取、同巳刻に軍始也。

晴信公の先手甘利、両角、原加賀守、栗原、穴山、小山田が兵崩て、味方、手負死人、大勢有之處、
天厩一体を以て、諏訪勢、相支ふるなり。

長時公方の洗馬丸山を追返し、敵百五十八の首を取るなり。此時、強き働を、諏訪衆仕る。
 
一日に六度の戦続て、不切手に合候んは澤、茅野、高木、高梨、三澤、小平、両角なり。
此両角は、両度迄、一番鑓やりを入るなり。

六度目の戦に、長時公の御内征矢野といふ大切の侍と、両角と馬上にて鑓を突合、互に柄を取て引合に、
両方共に、其頃聞え有、武功由緒有、近付なば、是非勝負を眼前にて迫合處に、

長時公の内にて、洗馬、三村入道、山部逆心して、晴信方へ首六百取り、亦また仁科道外も逆心仕り、武田方に成となん
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(8)甲陽軍鑑

 この本は、「偽書」であることが証明されている、が、他の史料との関係から、該当する記事を全部あげる。
(東京大学図書館蔵の同書中の最初の版本、明暦2年・1656年・京都二条玉屋町村上平楽寺開板による。注は今井)

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同月(注:天文14年5月)十九日午の刻に、諏訪高島の城代板垣信形、飛脚を以て申上る。

塩尻へ、小笠原打ち出で到下(注:峠)をこしてこなたへ働き申す。又、伊奈衆も働き申候由、

晴信公聞召、時日をうつさず、即午の刻にこむろを打出給ひ、諏訪へ御馬をむけられ、いな衆をば、板垣信形、うけ取向ふ。

小笠原木曽の両敵には、晴信公向ひ給ひ、御さきは甘利備前、諸角豊後、原加賀守、
右は栗原左衛門、穴山伊豆守、左は郡内の小山田左兵衛、天厩様、御旗本後備は日向大和、小宮山丹後、かつ沼殿、
今井伊勢守、長坂左衛門、逸見殿、南部殿、都合七頭後備、

五月二十三日辰刻に、小笠原、塩尻到下を下て、木曽どのを筒勢(注:同勢)にして、到下に備を立てさせかかりて、軍を始むる。

小笠原兼々分別には度々晴信にあふて勝利を失ひ、如此に候はば、小笠原滅亡と存ぜられ、
有無の合戦と、きはめ出られたしるしに、とき衆(注:さき衆の誤りか)三頭と暫く戦有。

其間に右備衆二頭にて到下を心懸、後ろへまはし、木曽殿備にかからんとするを見て、小笠原衆敗軍して勝利を失ふ。

小笠原木曽の両敵衆を晴信方へ討取、其数雑兵共に六百二十九の頸帳をもって、同日未の刻に勝時を執行給ふ。

天文十四年五月二十三日巳の刻に、木曽小笠原両旗にて、小笠原方よりしかも懸て軍をはじめ、
晴信公は待合合戦にて勝利を得給ふ。信州塩尻峠合戦と申は是也。晴信公二十五歳の御時なり。

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