やさしい今井登志喜『歴史学研究法』     20230621UP    改訂中

                                            トップに戻る


今井登志喜『歴史学研究法』の意義は、その中の「贋作・錯誤・虚偽 検討法」である。
まずは以下に、その「検討法の要点」を示す。次に「理論編の本文」を紹介したい。

「贋作・錯誤・虚偽 検討法」(要点)
         *今井登志喜『歴史学研究法』東大出版(元は1935年刊)より

           (2023年6月、旧字体を新字体に修正した「ちくま学芸文庫版」が出た。
           元の文に関しては、そちらを参照されよ。

           また、これは理論編だけである。「作業実例・塩尻峠の合戦」は「ない」。)

(真贋の検討)
  1. その史料の形式が、他の正しい史料の形式と一致するか。
    古文書の場合、紙・墨色・書風・筆意・文章形式・
    言葉・印章などを吟味する。

  2. その史料の内容が、他の正しい史料と矛盾しないか。

  3. その史料の形式や内容が、それに関係する事に、
    発展的に連絡し、その性質に適合し、蓋然性を持つか。

  4. その史料自体に、作為の痕跡が何もないか。
    その作為の痕跡の吟味として、以下のようなことが挙げられる。

   (1) 満足できる説明がないまま遅れて世に出た、というように、
      その史料の発見等に、奇妙で不審な点はないか (来歴の検討)

   (2) その作者が見るはずのない、またはその当時存在しなかった、
      他の史料の模倣や利用が証明されるようなことがないか。

   (3) 古めかしく見せる細工からきた、その時代の様式に合わない、
      時代錯誤はないか。

   (4) その史料そのものの性質や目的にはない種類の、
      贋作の動機から来たと見られる傾向はないか。

(虚偽の例)
     1、自分あるいは自分の団体の利害に基づく虚偽

     2、憎悪心・嫉妬心・虚栄心・好奇心から出る虚偽

     3、公然あるいは暗黙の強制に屈服したための虚偽

     4、倫理的・美的感情から、事実を教訓的にまたは芸術的に述べる虚偽

     5、病的変態的な虚偽

     6、沈黙が一種の虚偽であることもある

(錯誤について)
 〈1〉 感覚の錯誤 

  人が事件を認識する時、多くの感覚的認知が基礎となり、それが統一される。
  だからまず、感覚的認知に錯誤があってはならない。

  それにはその人間が、生理的・心理的に病的でないこと、また対象に対する距離が正当であること、
  妨害がないこと、十分注意力が働いていること、等の条件が整わなければならない。

  これらの条件が欠ける時、当然錯誤が起きる。 

 〈2〉総合の錯誤

  一つの事件は、細かい個々の感覚的事実の総合である。
  人の悟性が、その個々の要素を論理的・心理的に結合させるのである。

  その総合において、常に前の経験ないし知覚に基づいて類推が働く。
  この際、主観的要素がともなうことは免れない。

  ことに先入観、感情等が働く時、判断を誤り、錯誤を起こすことになる。

 〈3〉再現の錯誤 

  人が事件を述べるには、過去に認識した事を、記憶によって再現しなければならない。
  しかし、完全な記憶などというものは、全くの例外である。

  そのために、前後の誤り、時と所との誤り、などが常に起こりやすい。
  覚書、自叙伝等において、誤謬のあることはしばしば見る例である。

  ことに時間をへだてる程、その記憶に誤りを生じ、思い違い、脱漏が多くなるのである。
  これには感情的要素も働き、経験的事実に誇大美化等が起こってくる。

 〈4〉表現の錯誤 

  証言は言語的形式において表現される。
  しかしながら言語には不完全性があり、内容が常に適切に表現されるとは限らない。

  そのためそこに錯誤が入り、証言する本当の内容が、
  そのまま他人に理解されない、ということが起こるのである。

各人が観察した事実の直接の証言において、錯覚が起きる一般的基礎は、以上の如くである。

直接の観察者の証言にすら、錯誤が入ることを免れない。

いわんや証言者が直接の観察者でなく、その事件を聴取した人である時、
誤解、補足、独自の解釈等によって、さらに錯誤が入る機会が多い。これは、当然である。

ことに噂話等のように非常に多数の人を経由する証言は、
その間にさらに群集心理が働いて、感情的になり、錯誤はますます加わるのである。



以上が「贋作・錯誤・虚偽 検討法」の要点である。

次に、以下に今井登志喜『歴史学研究法』理論編・本文を紹介する。


今井登志喜『歴史学研究法』理論編・本文                                                 

        旧字体を新字体に直し、文語調を口語調に直し、長い文を分け、易しい語句に直し、改行を増やした。
        理解の便宜を図るために、「」・太字化なども施してある。
        ()は、原書にドイツ語がある部分。 ページ数は「ちくま学芸文庫版」   *元は2009年にUPしたもの。                              


 私は、昭和10年に、岩波講座日本歴史に、歴史学研究法という一編を加えておいた。

それはもとより小編ということもあって、ドイツのゲッシェンの叢書の、
ベルンハイムの歴史の研究法などに、若干通うところがあるようなものを、
と、想定したものだった。

そしてこれをもとにして、他日、修正する時があることを期待していた。

 しかし今、私の健康は、その仕事に堪えなくなった。
東京大学出版会はそれを遺憾とし、せめて講座の時の形のまま、出版させて欲しいと希望してきた。

私は前から、講座の時のものに若干の正誤補正を加える必要を感じていたので、
これを機として、岩波書店の了解を得て、是非加えたい正誤と補正を施すことにした。

そして、東京大学出版会の要求に、従うことにした。本書が世に出るに至ったのは、右の次第である。

 本書に、研究法上の述語などに、講座の時からドイツ語を並記しておいたのは、
研究法なるものが、ドロイゼンを始めとして、ドイツ人の工夫したところの多いものであり、
その原語を添えておく方が、いっそう理解に便利であろうと、考えたからである。

 岩波講座から本書となるについては、
岩波書店の布川角左衛門さん、堀江鈴子さんの好意による所が大きかったことを付記して、
ここに謝意を表しておきたいと思う。

昭和24年4月
                           今井登志喜



1、 序説    歴史学の方法論


 19世紀以来、歴史学は著しい発達を遂げて、まったく一つの科学となった。
それにともなって、歴史の方法論()、すなわち歴史学研究法なるものが、精密に考慮されるようになった。 

もとより歴史の研究は古代からあり、すでにその時代から歴史の表現に関する書物が出ている。
さらに文芸復興期以後、歴史学がようやく進歩するにいたって、歴史の方法論に関する著述も、次第にあらわれた。
しかしそれが十分に組み立てられるにいたったのは、19世紀の後半以後である。

 そして、歴史学研究法が成立してから歴史学が発達したのではなく、
かえって優れた業績を残したニーブール()、ランケ()以下、多くの史家が実際におこなった研究の方法を、
統一的・組織的に考察して組み立てられたのが、いわゆる歴史学研究法である。

 つまり、歴史学研究法の成立は、歴史学の発達の原因ではなく、むしろその結果であると言えるのである。

 歴史学は、その論理的性質において、他の科学と異なっている。
しかし、ひとしく経験科学の一つであり、その真理認識の論理的方法は、本質において全く他の経験科学と同様である。
したがって歴史研究法は、本質において、一般科学の研究法以外のものではない。

 しかしこれが特に考察され、叙述される所以は、
歴史の研究が実際において複雑であり、多岐であり、
したがって、研究の方法に対する基礎的知識を全体的に把握してかかるのが、
初学者にとって、すこぶる便利であるからである。

 多くの先人の取った実際的方法は、非常に多くの述作の中に含まれていて、
簡単にそれを把握し、吟味することはできない。

研究法として組み立てられたものは、それらを統一整理したものである。
そのために研究者の基礎的知識となって、実際の研究を指導する性質を持つ
のである。

 しかしそれは、いわば実際の研究の抽象化であり、したがってそれを十分に会得するのには、
やはり多くの研究者の実際の仕事について学び、また自己の経験鍛錬によらなければならない。

 19世紀以来、歴史学の方法論に関する書物が多く世に現われ、その中には

()1837
()ドロイゼン、1867
()エドワード・オーガスタス・フリーマン、1886
のような著名な歴史家の著述があり、ことにドロイゼンの書は、極めて短いながら、すこぶる注意すべきものである。
しかしそれらは大体、部分的、断片的なものであった。それらを集成統一した全体的、組織的な大著は

()ベルンハイム、1889
であり、歴史学研究法の書物として、画期的なものとなった。
ベルンハイムは新版においてさらにそれを増補し、またそれを要約して、
()1905(邦訳、歴史とは何ぞや、岩波書店)を出した。ベルンハイムの書についでフランスで

()セグノーボス1893
が出たが、これは平易で実際的な点を特色とし、ベルンハイムの書と並び称される。
英国のベリーはこの書の実際的な特色を推賞して、()の名で英訳している。
これらの後、研究法に関する書物の中で世に出たものが少なくないが、その中で、

()フェーダー、1921
()バウアー、1921
などは、研究法全体を概説した便利な書である。(いずれも新版がある)

 邦文の書物では、坪井九馬三博士の「史学研究法」は、大体ベルンハイムに基づいたことが認められるが、
まったくそれを消化し切って、引例を多く国史に求め、なんら翻訳的色彩をとどめない好著である。

また黒板勝美博士の「国史の研究」の総論は、最も適切な国史の研究法といえる。
その他、大類伸博士の「国史研究法」「史学概論」、野々村戒三氏の「史学概論」等、
いずれもこの方面の、便利な述作である。

 歴史学の研究法は、本質的には一般科学の研究であり、従ってその推理の形式も同様である。
ただ歴史学という、特殊な形式の科学への、応用に他ならない。

 しかし歴史学は、その認識の対象において、またその研究の基礎となる材料の広範さにおいて、その特殊性が甚だ著しい。
そのために、その研究法は、事実において、すこぶる独特の形を持っている。

そしてその部分的な点については、各人の工夫ないし見解が、決して同一でないのであるが、
しかしその大体の構造については、著しい共通点が認められる。

それは大体ドロイゼンが提起し、ベルンハイムが拡張した輪郭に基づくといえるのである。

本書では、極めて限られた紙数をもって、歴史の研究法の一通りの叙述が要求されている。

そのために、多くの方法論の書物に扱われている、最も主要な題目と認められるものについて、
極めて概括的に、その大体の要領を記述することとする。

詳細は前述のような文献を参照し、
また多くの歴史学上の述作について、咀嚼玩味することを希望する。


2、歴史学を補助する学科(「ちくま学芸文庫版」p15)

 学問は一つの有機体のようなものであって、全体が内的な関連を持っていると言えるのである。
古代ギリシャにおいて、哲学の語は一切の学問的知識を包含した。これが学問の本来の理想であるべきである。

しかし人間の能力には限りがあるから、文化が進むに従って、学問の分業が起こった。
すなわち、研究の対象の相違により、また、認識の形式の方法的相違によって、諸種の科学が成立した。

しかし、諸科学の分かれは、決して絶対的ではなく、むしろ便宜的なものである。
常に相互に補助し、提携して進歩するものである、ということは言うまでもない。

 歴史学は、人間の過去の社会的生活の変遷を研究する学問である。

しかし人間の社会的生活は極めて複雑なものである。従ってその研究の基礎となる材料が無限に広く、
またその考察する事項はすこぶる多方面である。

そのために、歴史学は他の諸種の科学と非常に多くの関係を持つのである。

 いま歴史学と他の科学との関係を考えてみる。

まず他の科学を主体として考えれば、諸科学の中には、
歴史学の援助なくしては、到底、十分その職能を尽くすことができないものがある。

自然科学の中にさえ、時に歴史学の援助を受けるもの、が認められるのである。

ことにいわゆる精神科学、人文科学または社会科学等、と命名される学問の方面にあっては、
歴史学の援助に待つ所、甚大なものが多い。

社会学、経済学、政治学、法律学、人文地理学、民族学等は、
歴史学を離れては、まったく不完全なものとならざるを得ないであろう。

 次に歴史学を主体として考えれば、歴史の取り扱う項目の中には、
その研究が、各科学の予備知識の上に立脚しているものが少なくない。

例えば経済史は経済学を、法制史は法律学を、各自然科学史は各自然科学を、各種の技術史は各技術学を、
基礎知識として要求するのである。

 一見歴史学と縁遠いように見える科学であっても、それ自身の学問史の場合のほかに、
時としてすこぶる重要な援助を、歴史学に提供することがあり得る。

たとえば医学のように、ある時の疫病がいかなる種類の伝染病であったか、
また、歴史上重要なある人物の死が自然でなく、従ってその間、なんらかの注意に価する関係が伏在しなかったか、
等の疑問を解決するに当たって、非常に重要なものとなるのである。

 要するに歴史学のような広範な範囲に関係する性質の学問にあっては、
一切の科学から何らかの寄与を期待しうる可能性を持つ、と言えるのである。

かのフリーマンが、歴史家は理想としては哲学、法律、財政、民族学、地理学、人類学、自然科学等の、
すべてを知っているべきである、と言っているのは、
歴史学に対する他の学問の関係を言い表したものと見る時に、すこぶる意義がある。

 多くの研究法に関する書物では、特に歴史学を補助する学科として、歴史学の補助学科()なるものを論じている。

例えばベルンハイムは補助学科として、
言語学()、古書学()、古文書学()、印章学()、古泉学()、系譜学()、年代学()、地理学()等を説明している。

なおこの類のものとして多くの書物に挙げられるものは、金石文学()、紋章学()、考古学()、歴史地理学()等である。

ベルンハイムは、補助学科とは特に史料研究()に役立つものとし、
いわば研究の日常に必要であり、そのために特に欠くべからざるものである()と、説明している。

 しかし上の説明はすこぶる不十分である。それはラングロアの指摘するように、いわゆる補助学科が、
常に一般的に歴史の研究に役立つのではない。

研究する項目によって、特にある種の補助学科は必要であるが、
他の補助学科はまったく不必要であるのは、常に見るところである。

もとより古文書学のように、すこぶる多くの場合に必要な知識もあるが、
紋章学、古泉学のようなものは、その必要はむしろ稀な場合である。

そしてある場合について必要であるという点においては、上に挙げた種類の学科のみに限らず、
他の多くの学科がまた同様である。従って日常の必要如何は、補助学科と他の学科とを区別する基準にはならない。

 フェーダーは補助学科を実質的補助学科()と機械的補助学科()に分け、
前者に哲学、人類学、社会学、統計学、法律学、言語学、地理学等をかぞえ、
さきに列挙した多くの種類を後者にかぞえている。

すなわち第一の種類はそれぞれ独立的な科学であり、
第二の種類はおもに史料の取り扱いに必要な技術的知識である。

 歴史学の補助学科といえば、いやしくも歴史の研究に役立つ一切の知識が、その役立つ時において補助学科である。

そして各研究項目には、各自異なった補助学科が予想される。
研究者は、各自の研究題目に従って、それぞれの補助学科的知識を必要とする。

 そして言語の知識、古文書学、古書学、印章学、紋章学、古泉学、金石文学、系譜学、年代学、考古学等の種類が、
慣習的に第一に補助学科としてかぞえられる。しかし、これらが皆、必ずしも、もっとも多く補助学科となるのではない。

 ただこれらの知識は歴史学に対して、特殊な共通の性質をもっている。

それは、これらがまったく歴史研究に従属的な存在であるか、
または歴史認識的要素を持ち、いずれも技術的性質を多量にもち、そして直接歴史そのものの研究よりも、
その材料たる史料と関係が深く、その対象の選択が、多くは任意的便宜的である点、である。

 すなわちこれらは大多数独立的でなく、歴史学に従属的であるか、
もしくは歴史学に交渉してはじめて十分な意義を発揮するものである。
そして歴史学に対して、派生的断片的で、その作業は歴史学的である。

これらは、本質的に、歴史学の補助学的性質をもって存在するものである。
そのために、その意味においてもっとも厳密な補助学科と言うべきである。

また一方、いずれも史料の取り扱いに関して、重要な補助的知識を提供するものである。
その点から、適切には、史料学の補助学科と呼ぶべきである。

 本質的な狭義の補助学科、すなわち史料学の補助学科に対して、
多くの科学は、歴史学の広義の補助学科と見なしうるであろう。

近代の歴史学の発達が、直接間接に他の科学の進歩に負うところが大きいことは、言をまたない。

 顕微鏡によって遺物の真偽を鑑定し、またその性質を吟味するような場合、
青銅のような合金の要素を分析して、文化の系統を論証するような場合、

天文学によって古代の事件の日時を断定するような場合、
地質学によって土地の源泉を推断するような場合など、

昔の歴史学は、夢想も及ばなかったことである。

 多くの科学は、間接には、その方法学によって歴史学に影響し、
直接には、それぞれの分野における学的成果において、
歴史学の発達に資し来り、また、ますます資しつつあるのである。

 ことにその点は、歴史学の補助学科たりうる場合の多い学科において顕著である。

たとえば考古学の発達は、エジプト学()、アッシリア学()等の特殊な研究対象を成立させ、
それによって世界の古代史の面目を一新させた。

わが国の古代史のようなものも、近時、考古学的研究の進歩から、決定的な影響を受けたことは否定できないであろう。

 歴史学の研究者は、それぞれの研究項目において、史料の利用に関し、またその研究そのものに関し、
基礎的知識として必要な補助学科に通暁すればするだけ、その研究に対する有力な武器をもつことになるのである。

これに反し、ある題目にとって、特に必要な補助学科の用意を欠く研究は、
究極、ついにディレッタンティズム(好事・道楽)の範囲を脱し得ないであろう。


3、史料学(「ちくま学芸文庫版」p23)

                    
 前述のように、多くの歴史学研究法の書物は、もちろん枝葉の点において相違しているが、
その根本的な構造において、大体の一致がある。

そしてそれらにおいて方法論の最も主要な部分をなすものは
(1)史料学()、(2)史料批判()、(3)総合()の三つである。

その他、なお多くは表現()の項が立てられているが、
これは方法論的には、前者のように重要なものではない。

 注意すべきは、研究の作業に対する上のような分類は、ただ論理的・純理論的なものである事である。
方法論とは、歴史の証拠物件たる史料に立脚して、正しい歴史認識に到達する方法の全体である。

それは実際には一つの有機体のように全部が相関連する。
一つの作業が終わって次の作業が始まるというような、機械的関係のものではない。

ただ説明の便宜から、論理的に分析し、順序立てたにすぎないのである。

いま、順を追ってそれらの概要を述べる。

 歴史学は経験科学であり、経験的な証拠物件を基礎として実証的に成立する学問である。
歴史研究の立脚する証拠物件たるものが、すなわち史料()である。


史料学は、史料すなわちいやしくも歴史の証拠物件として役立つべきものを考察し、
それを十分に収集する道を講じ、研究に便利なようにそれを分類し、整理する職能である。

 歴史学は、その対象が複雑な人間の社会であるため、その証拠として採用される史料もまた、非常に広範である。
ことに近代歴史学が進歩し、垂直的に深まり、また水平的に広まったために、史料の範囲もまた、ますます広範を加えた。

 すなわち、歴史の研究が深まって、その証拠として採用されるものが非常に多くなった。
また歴史の研究の範囲が広まった。

歴史は、かつてはもっぱら、政治的変遷、支配的階級の運命等のみを対象としたものだった。
それが、文化的社会的事項、一般大衆の運命にも着眼するにようになった。

そのために、自然に史料たるものの範囲が拡大したのである。
今日においては、史料の範囲は全く無限であると言えるのである。

 史料は、それに基づいて、歴史の対象たる「人間社会の過去の状態」ならびに「その変遷」を考察する、根拠となるものである。
従ってそれは、過去から継続して存在するものである。

しかし時というものは、多くのものを亡ぼし、失わせて行く性質を持つ。
それゆえに、史料は、何かの理由で時の亡滅作用から免れ得たものであり、いわばむしろ偶然的存在である。

   (私註:人間の意思によって操作された、意図的操作の面、作為を語らないままでは、片手落ちの感じが残る。
    全体を考えると、この点、検閲回避を疑う。)


 史料の範囲は無限であるが、その存在は決して完全ではない。
一つの事項の考察に際して、必要にして十分な史料が存在することは、むしろ稀である。

歴史学は、その不完全な材料によって研究を進めなければならない。
これは、歴史的性質を帯びる他の科学においても同様である。

例えば古生物学などは、化石の一つ、骨の断片等の乏しい材料から、古い時代の生物の姿を復元するのである。
こういう性質の学問においては、できるだけ豊富に証拠物件を探すことが、研究を進める基礎である。

 新しい一資料の発見によって、旧学説がくつがえるような実例は、しばしば見るところである。

この種類の学問は、いかに不完全でも、すでに発見できた資料に基づいて、
それによって立証される限りの真理を認識するほかないのである。

資料を探すことが、学問を進める大きな条件である。

 歴史学の史料は、その種類がはなはだ多く、多方面に秩序なく存在している。
何が史料であるべきかを考え、その所在を探し、それを収集し整理するのでなければ、
研究の進歩は決して得られない。

史料学の意義はここにあるのである。
近代の歴史学の進歩は、第一には、史料学の発達に負う、と言うことができるであろう。

 史料の概念の中に含まれる総体の資料は非常に多く、また内容的に極めて複雑である。

すべて文献口碑伝説のみならず、碑銘、遺物遺跡、風俗習慣等、
一般に「過去の人間の著しい事実に証明を与え得るもの」は、皆史料の中に入るのである。

このように史料が複雑であるために、それらを整理し、またその性質を吟味し、
その利用を好都合にするために、史料の分類が試みられる。

 史料の分類はいろいろな基準でおこなわれうる。

例えば、時間に基づく分類、場所に基づく分類、
史料の内容の性質による分類(政治史料、経済史料、宗教史料、芸術史料等)、
史料の外的性質に分類(文献的史料、遺物遺跡等の物的史料、口碑伝説制度風俗習慣等の無形の史料等)、である。

これらの分類も、時に実際上の必要があり、
ことに史料を収集し整理保存する等の場合において、実用的価値が認められる。

しかし方法論的には、この種の常識的分類でなく、
さらに内的に鋭利な分類が、研究の作業の必要に基づいて立てられるのである。

 ドロイゼンは、歴史の材料を遺物()、史料()、記念物()、の三つに分類した()。

この分類の原理は後の人々に採用され、ベルンハイムは史料を二つに大別して、
伝承または報告()と遺物()とし、遺物をさらに狭義の遺物たる残留物()と記念物に分類している()。

これはドロイゼンが史料と名付けたのを、伝承の名で明確にし、記念物を広義の遺物の中に加えたのである。

 バウアーは遺物()と証明()に二分し、遺物の意味を狭くベルンハイムの残留物の意味に用い、
ベルンハイムの記念物と呼ぶ類のものは、証明の中に加え、証明をさらに統制証明()と不統制証明()に分けた()。

 フェーダーは物的(沈黙)史料()と証言史料()に分けているが()、これは大体バウアーの遺物と証明の区別に一致する。

                                      (私註:私はバウアー、フェーダーに近い。)

 その他、大体この原則による分類が多く採用されている。

ただし、ラングロアおよびセーニョボスは物的史料()と文字的史料()に二分している()。
この分け方では史料の全部を包含せず、不完全であるが、なお上の分類の原理に通うものがある。

 そしてフェーダーは、この分類の原理を、
史料の認識価値に、または史料と歴史的対象との間の結合関係に、基づく分類と見なした。

  物的史料は、史料と歴史的対象とが、ただ本体的整頓()において結合し、
  証言史料は、史料と歴史的対象とが論理的整頓()において結合するものである

と説明している()。

 これはすこぶる難解な表現であるが、要するに前者は「史料自体が実質的に歴史的対象を表現」しており、
後者は「史料が歴史的対象を直接に発言している」ことを意味するのである。

 この分類の問題は、史料の価値の問題、またその扱い方の問題に関係をもつゆえに、
さらにその性質を明瞭にする必要がある。そのため便宜上、まずベルンハイムの分類を吟味してみることとする。

ベルンハイムは

 「ある事柄の直接の結果として自然に残留しているもの」を「遺物」と呼び、
 「ある事柄を人間の認識が一度把握し、人に伝えるためになんらかの形で表現しているもの」

を「伝承または報告」と呼んでいる。 

 そして、「遺物」の第一種たる「残留物」は、全く単純な狭義の遺物である。

  古い骸骨、先史時代の発掘物、言語、風俗習慣、宗教的儀式、法律制度、
  人間の精神的肉体的熟練の産物たる技術・学問・芸術・家具・武器・貨幣・建物等の一切、
  法廷・議会・官庁等の公文書、書簡・新聞・統計等の事務的性質の文書等 がそれである。

 第二種たる「記念物」は、その事柄に関心を持つ人の記憶のために、それを保存する意志がその根底によこたわるものとし、
ある種の公文書、墓碑等の碑文、記念建物等 がそれであるとする。

 また伝承には(1)歴史書地図等の形像的伝承、
(2)物語、伝説、逸話、歴史的歌謡等の口頭的伝承、
(3)歴史的碑文、年表、系図、年代記、覚書、伝記、各種の歴史記述等の文献的伝承があるとする。

 そしてベルンハイムはこの類別をもって、決して厳格に絶対的でなく、ある程度まで流動的であるとした。

例えば、ある事柄を記述する歴史書は、それとしては伝承であるが、それを文学的作品として見れば遺物である。
また絵画は、芸術的作品として見れば遺物であるが、内容が歴史画であれば伝承の範囲に入ってくる、と説明している。

 この分類はベルンハイム自身、すでに絶対的でなく相対的である事を認めている通り、
実際において曖昧であり不明である。

それでウォルフは、
  <この習慣的分類は便宜上のものであって、
 たとえ初学者には非常に有益であったとしても、個々の史料がいずれに属するかについて、
 当然の疑いを起こしやすい>、 という事を指摘している()。

バウアーもまた、
 <遺物と伝承の類別は個々の場合、各史料の批判的評価に際して意義があるが、
 史料の一般的分類および整理には用いられない。

 書簡のようなもの、公文書のようなものは、一般的には遺物に属するが、
 常に単純に遺物であるとは限らないのである。

 要するにこの分類は、一史料の研究法的評価の尺度を提供するが、
 史料の一般的分類の標準にはならない>、 と主張している()。


 史料を、「遺物」と「伝承ないし報告」、「遺物」と「証明」、「物的史料」と「証言史料」等にわける分け方は、
それらの「言葉の意味する範囲」が必ずしも一致せず、またその「分け方」に若干、明瞭さの程度に相違がある。

しかし要するに、「同じ分類の原理に基づいて、ある種類の史料を徹底的にその一方に決定する、
ということができない」、という点が共通である。

 これはなぜか。その分類の原理が不合理であるためなのか。ここでさらにその分類の原理を吟味してみる。

フェーダーの表現を用いれば、
  史料を、「それと歴史的対象とが、本体的整頓において結合する場合」と、
  「それと歴史的対象とが、論理的整頓において結合する場合」
とに分類するのである。

 この言葉は難解であっても、その意味するところは明瞭であり、分類の原理として合理的である。

  (私註:私の解釈だけれども、

  「本体的整頓」とは、史料が物質存在として、ある歴史的事件・歴史的対象と、物質的に関係している、ということだろうと思う。

  「論理的整頓と」は、歴史的対象に対して、人間の認識を経由して、人間の論理で整理され表現されているという関係にある、
  ということだろうと思う。

  例えば、
  「本体的整頓」とは、モノ的に関係する世界、やわらかい地面を歩けば足跡が残る、というような世界、
  「論理的整頓」とは、人が歩いているのを見て、誰それが歩いていた、と証言する世界。

 「モノ的に関係する世界、やわらかい地面を歩けば足跡が残る、というような世界」は、
  物質世界に発生した「歴史的対象そのもの」である。

  「人が歩いているのを見て、誰それが歩いていた、と証言する世界」は、
  見た人が脳の中で整理して、他者に伝えるために表現したものである。

  似ていたと思っても、別人かもしれない。虚偽の場合もあり得る。
  だから、「歴史的対象そのもの」、とは言えない。)

それがなぜ史料の実際の分類にあたって困難を生ずるのか、他なし(私註:?意味不明の部分)

それは史料の史料として使用される性質と、その物の全体的実際的性質とを混同するからである。

 個々の研究において、一つの材料が史料として使用されるのは、その物の全体的性質の中の一部である。
ここで書物を例にとってみる。

 <書物の例>

 書物は、ある紙にある内容をある言語および文字で筆記され、または印刷され、ある形式に製本されたものである。
 それが書物の全体的性質である。

 そして、一つの歴史的研究において、その書物の内容が史料として使用されるとする。

 その時史料であるものは、ただその内容だけであり、決して実際的存在としての書物そのものではない。
 すなわち、紙、言語、文字、印刷術、製本の技術等は、史料ではない。

 にもかかわらず、他の種類の歴史的研究においては、それらの方面が、始めから史料として使用される。

 すなわち、一つの実際的存在である書物は、ある場合にはその内容が史料であり、
 他の場合には、その書物の属性の、他のある物が、史料である。

 内容が史料となる時、それは研究の対象と論理的整頓において結合するゆえに、「報告証明」ないし「証言的史料」である。

 しかしながら、紙、言葉、文字、製本技術等が史料とされる時は、
 それらは研究の対象とただ本体的整頓において結合するものであるがゆえに、「遺物」ないし「物的史料」である。

 <書物の例>終わり

 これはきわめてわかりやすい例を挙げたのだが、この関係が、史料の分類の場合において、注意されなければならない。

実際、史料として使用されるものの史料的性質は、必ずしも単一ではない。
ある時は証言的に、ある時は遺物的に用いられる。

それゆえに、書簡、公文書、碑銘というような「外形的な性質」によって区別されている事物に、
「史料として使用される要素」の方法的分類を、簡単にあてはめる事に、無理があるのである。

「遺物」と「証言」というような分類は、史料の実物を分ける原理ではなく、
適切には、史料のもつ性質、それに基づく、(私註:研究者の側の)その取り扱いの態度を分ける原理である。

 言うまでもなく、ある史料は、ただ単に「遺物」たるのみという性質のものがある。
多くの考古学的遺物、言語、風俗、習慣、法律、制度等のようなものがそれである。

しかし「証言的史料」とされるものは、それと兼ねて、いずれも、「遺物」としての性質をもつ、と言えるのである。


 古く史学雑誌に「『太平記』は史学に益なし」という論文が出たことがある。
これはこの問題に関係がある。

『太平記』が史学に益なしというのは、その記述している事実に誤謬が多く、到底信用し難い、というのである。

しかしそれは、その記事を事実の報告として見た、すなわち、
ただ「証言的史料」として見た場合について、言っているのみである。

 もしこの書の文章を、この時代の文学的遺物として見、またその中に出てくる、
物質的・精神的・社会的等の、生活の素材的事項に着眼するならば、

その中から無限に「史料的要素」を探し出すことができるであろう。

すなわち、『太平記』は十分に「遺物的史料」として使用できるのである。
その点、『源氏物語』を、史料として平安朝の研究に利用するのと同様である。

 すなわち、『太平記』なる歴史的記録を、ただ単に証言的史料として見る、ということが不合理なのである。
所詮、個々の史料を実物そのままで、遺物または伝承等、とは分類できないのである。

それは具体的に史料の実物を分類するものではなく、「方法的に史料の性質を分類するもの」なのである。
そしてこのように見る時、この分類に伴う困難は解消するのである。

 一つの史料は遺物的に用いられる限りにおいて「遺物」であり、
証言的に用いられる限りにおいて「証言」である。

「遺物」であったり「証言」であったりするのは、決して、そのものの固有の性質ではない。

 「遺物」は沈黙しているものであり、歴史的対象に対して、何等の報告証言をなさない。
研究者は、悟性によって、その中に含まれている歴史的対象をつかみ出さなければならない。

しかし史料としては、「絶対的完全性」を持っている。
ただこれが、正しく解釈され、使用されることが要求される。

  (私註:たとえば、後の5総合に出てくる「へこみ石」を例にするなら、

   一般の人の目の前にあっても、ただの石とどのように違うのか、さっぱりわからない。
   昔の人が火起こしに使ったんだと説明されて、初めて普通の石でないことがわかる。

   石の存在は、残存という点では「絶対的」である。

   しかし、水力などによる自然変化なのか、人力によるものなのか、人間の生活にどう関係したのか、
   という点では、多くの用例と痕跡が確認されるまでは、ただの石にしか見えない。

   そして歴史的に意味があるのは、火起こしという、人間の活動の方である。)


 これに反して、「証言」は人の悟性によって把握構成され、言語文字等に表現されたものである。

それは主観的要素を持ち、誤謬または虚構による変形の存在が予想され、その証拠力は「不完全的・相対的」である。


 ラングロアおよびセーニョボスは、史料の提供するものを「概念」と「証言」とに区別した。

前者(概念)は、ある事実を史料そのものが明示しているところのものであり、
後者(証言)は史料の証言しているところのものである。

そして後者は、「事実を十分完全に立証するものではない」としている。

この区分は、「遺物」と「報告ないし証言」とが提供するものの、差であると言えるのである。


 ベルンハイムは史学入門()の方では、「伝承ないし報告」と「遺物」との他に、
さらに「直接の観察および思い出」()の種類を設けている。

これに対しフェーダーは言う。

  「直接の知覚」は本格的な史料ではない。

  そのわけは、史料は万人が認識し得るものであるのに、
  直接の知覚は、事件に対し、ただ極めて少数の人のみの認識方法となるのみ、であるからだ。

  またそれが表現によって他人に伝えられて、初めて本式の史料を構成するに至るからである。としている()。

 
 「直接の観察ないし思い出」は、いわゆる一般の史料と性質を異にし、
厳密な意味では史料とは言えないであろう。

しかし歴史の研究者が、たまたまその研究の対象である事項に参加し、もしくはそれにある関係を持っている時、
その体験をもって史料を補い、その事項を記述する事がある。

その時、その研究者の体験そのものは、いわゆる史料と同じ働きをするのである。

すなわち、歴史認識の基礎的素材として役立っているのである。
従って、極めて特殊なものながら、これを一種の史料としても、差し支えないであろう。


 それでは、これはまったく別個の性質のものと、するべきだろうか。
 まず「直接の観察および思い出」という表現について考えてみる。

これはこの場合、決して当を得た表現ではない。
なぜなら、「直接の観察」そのものは、決して史料とならず、ただ「思い出」だけが史料となるのである。

直接の観察は、それが感覚から消えうせる瞬間に、永久になくなるのである。
たとえ事件の直後にあっても、その事の認識はすでに記憶によって再構成されたものである。

すなわち、ただ「思い出」に他ならないのである。ただ「思い出」に時間の遅速の差があるのみである。


 そして「思い出」なるものは、かつて自分の悟性を通して認識した事柄を、再構成したものである。
そして「思い出」なるものの、史料的形式とその対象とは、論理的整頓において結合している。

それゆえにこれは、本質的には一般の証言的史料と同じ性質のものであり、
その特殊な変形と見るべきものである。

それが言語ないし文字に表現されれば、直ちに一般の証言的、報告的史料となるのである。

 従って「思い出」は、史料的性質において見る時、
一般証言史料の持つ、「主観性不完全性」をもつのである。


これを「遺物および報告」と並立させる分類は、
史料の「方法的性質による分類」の原理に、その「外形的性質による分類」を交えたことになる。

従って、決して当を得たものとは言えないであろう。

          (私註:以上はベルンハイムの史料分類に対する批判である。
              彼は「伝承ないし報告」と「遺物」と「直接の観察および思い出」、と分類した。


 方法的性質によって史料を分類することは、実際において、個々の史料の性質を吟味し、
それを鋭く利用することに意義がある。

しかし具象的な史料の実物を、一般的に分類する上で困難があることは、上述の通りである。

 だがその分類の原理を、ある程度まで実物の分類に加味することは、不可能ではない。

諸家の試みている分類はすなわちそれであり、それは史料を具体的に収集し、整理する上で、
実際的に役立つのである。


 もとより、史料の収集・整理・保存は、多くの物理的約束の制限を受けるために、
大いに史料の外形的性質に支配されざるを得ない。

しかしその際にも、なお方法的分類が応用される余地は、あるべきである。

図書館、博物館、美術館、古文書館等は、歴史学の立場からいえば、史料の整理・保存の場所であるが、
それらの中に、方法的分類の精神を取り入れる範囲があるであろう。

 近代の歴史学の発達は、史料の新分野を開拓して、それを組織的に収集することが、その基礎であった。

独仏英三国を例に取れば、特に史料として最も重要である古文書古記録だけについて見ても、
有名なドイツ歴史記念()が1826年に出始め、ドイツの国史研究に大なる貢献をなした。

フランスの史料集()が1835年以来、イギリスの史料集()すなわちいわゆる()が1858年以来出たほか、
種々の種類の、史料の大規模な収集整理出版があった。

 その他の諸国でも、それぞれ自国の史料の収集出版に努力している。

古代歴史は()等ギリシャ、ローマの史料として、新しく開拓された金石文収集の事業が起こされ、
古代史研究の大なる基礎となった。

わが国でも大日本史料編纂の着手が、国史の研究に新生面を開いた事は、顕著な事実である。

そして現在、わが国において、歴史学のためにすこぶる望ましい事は、
古文書館および充実した歴史博物館の設立である。



4、史料批判(「ちくま学芸文庫版」p39)
          

 「史料学」は、与えられたテーマに対し、史料をできる限り十分に収集する方法を示す。

これに対し、「史料批判」は、その収集された多くの史料が、

   「はたして証拠物件として役立つかどうか、
   また、もし役立つとしても、はたしていかなる程度に役立つか」


を考察することである。

 これは大体、前から用いられてきた「考証」という言葉に当たるが、
Kritikという鋭い原語を生かして、この訳語を用いることにする。

 ベルンハイムも、ラングロアおよびセーニョボスと共に、方法的根拠から批判を分けて、
内的批判および外的批判とする。それはその以後の著者にも踏襲されている。


もっとも、それらの作業の包含する範囲は、必ずしも一致しない。

 例えば、ベルンハイムは史料の解釈()を批判の後に置く。
ラングロア、セーニョボスは解釈を内的批判の最初に置く。
フェーダーは、新版において、これを両批判の中間に独立させている。

 言うまでもなく、史料の解釈は、実際的にはその収集の時から行われ、
批判の作業はこれなしでは不可能であり、さらに総合において、その十分の解釈が要求される。

これをどこに置くかは、必ずしも、こだわる必要はないであろう。



[一]外的批判


 外的批判は、史料の外的性質ないし価値を吟味する作業である。
そしてその主要なものは、次の吟味である。


(1)真贋の検討()  (「ちくま学芸文庫版」p40)
      (私註:原文では「真純性の批判」であるが、これではどうしてもパッとひらめかない。
       苦慮の挙句の選択である。)


 史料として提供されるものは、しばしば、「全部もしくは一部が真実のものでなく」、
あるいはまた、「従来承認されていたものでない」ことがある。

すなわち研究法で、①「贋作(偽作)」()、および②「錯誤」()、または「誤認」()、
と呼ばれるものが多い事を、注意しなければならない。

 「贋作」(贋造)のできる動機はいろいろかぞえられる。

すなわち、好古癖、好奇心、愛郷心、虚栄心等に基づく動機、宗教的動機等が挙げられるが、
とりわけ利益、殊に商業的利益の目的を動機としたものが、最も多いのである。

そしてこれらの動機に基づく贋作は、ほとんどすべての種類の史料に行き渡っている。

いま、その特に著しいものを挙げれば、

【遺跡】各地の旧蹟と称するものの中に、後世の贋作がすこぶる多い。

特に著しいのは、宗教に関係ある霊蹟である。パレスチナ地方の聖地()といわれるものが、
近代の研究家によって、その根拠のない事が示されているようなのは、その一例である。

【芸術品・工芸品】 これらは、好古癖および芸術的愛玩の目的物となるために、
商業的利益をねらって、最も多く、贋作の行われる種類である。

【古文書】これもまた贋作がすこぶる多いものである。

すなわち西洋の方では、領地等の権利を安定堅固にするため、中世時代に多く偽文書が作られた。
そのほか自己の家格をよくするための虚栄心から来る偽文書がある。
わが国でも戦の感状などの種類が偽造されている。

なお西洋の方では、教会に偽文書が多くある。
ローマ法王に関する著名な偽イシドールス法令集というようなものは、
偽文書としてよく挙げられるものである。

【系図】 東西とも、古くから贋系図が多数ある。
これはそれによって家格を誇ろうとする心理から来るのであるが、
また古い頃の諸侯武士等は、自家に由緒をつける政治上の必要もあった。

英国中世の記録として名高いアングロサクソン年代記()を見れば、
英国のいわゆる七王国()の諸王家は、ことごとくウォーダン()の神の後裔になっている。
はなはだしいのは、ウォーダンからさらにアダム、イヴまでさかのぼっているのがある。

      (私註:ウォーダン(オーディン)は、北欧神話の主神にして戦争と死の神。
       詩文の神でもある。)


わが国の系図は、多数いわゆる源平藤橘であり、贋作が過半であることは言うまでもない。

【逸話・噂話】これらは本来、無責任な捏造が甚だ多い性質のものである。
個人の逸話と言われるようなものは、真実を伝えている場合は、むしろ少ない。

これらと同じような口伝的性質を持っている伝説は、
さらに芸術的要素が多く、小説であって、容易に信用し難い。

 その他、金石文の偽物があり、偽書、偽記録があり、贋作の種類はすこぶる夥しいのである。

 つぎに、「錯誤または誤認」は、贋作のように、故意に捏造されたのではない。

それは、何かの理由から誤謬が起こり、その史料が異なった時代または人物に付会され、
あるいはそれに誤った説明が加えられたものである。

そしてそれが踏襲されて、史料の事実性()が損なわれているものである。

 このようなことが起こる経緯には、次のような種類が挙げられる。

すなわち軽信によって起こったもの、不注意から来たもの、
独断によって誤られたもの、批判的誤りから生じたもの等である。

 遺物的史料はそれ自身が沈黙しているために、その性質が誤って説明されやすく、
「誤認」に陥る機会が甚だ多い。

また神話ないし伝説()の性質をもつ物語が歴史事実と誤られて「誤認」が起こっている事は、
諸国の古代史において多く見るところである。

 「贋作」あるいは「錯誤」が、全部でなく部分的である時が、いわゆる「混入」()である。
すなわち、「全体としては本物」であるが、「一部分に不純物」が混入している場合である。

多くの史料、殊に文書記録等において、改竄(かいざん)の意志から混入が行われている場合が、少なくない。
それらはやはり、全体的な贋作と同じような動機から来るのである。  (「ちくま学芸文庫版」p44)

 しかし「混入」は、最も多くは誤謬から起こるのである。

建物・彫刻等の遺物において、後世改築されて、ある部分だけ新しくなっているものが、
他の、もとからの部分と同時代のもの、と誤られているような場合である。

 殊に書物は、原本の残ることはほとんど少なく、普通に幾度か転写を経たものである。
その転写の歳に「混入」が起こる。

それは始め、誰かが付加を加えたり、注釈として書き入れたものが、転写によって混入したり、
原文の難解な部分を平易に書き改めたりする、等によって生ずるのである。

 「真贋の検討」は、この「贋作」あるいは「錯誤」の有無を吟味することである。(「ちくま学芸文庫版」p44)
「贋作」に対して、ベルンハイムは次の吟味の箇条を挙げているが、これは適当なものとされるであろう。

〈1〉その史料の形式が、他の正しい史料の形式と一致するか。

  古文書において、紙・墨色・書風・筆意・文章形式・言葉・印章等を吟味するようなのが、これである。
  遺物の贋作のようなものは、多くは専らこの吟味によるのである。

〈2〉その史料の内容が、他の正しい史料と一致して、矛盾しないか。

  内藤清成の家臣某の著と言われる天正日記の記事が、家忠日記に符号しないことをもって、
  それが偽書であることの一つの理由とされるようなのが、これである。(田中義成『豊臣時代史』参照)

〈3〉その史料の形式や内容が、それに関係する事に、発展的に連絡し、その性質に適合し、蓋然性()を持つか。

〈4〉その史料自体に、何も作為の痕跡が認められないか。しかし、その作為の痕跡の吟味として、次のことが挙げられている。

     満足な説明がないまま遅れて世に出た、というように、その史料の発見等に、
     珍妙(私注:原文のママ)で不審な点はないか。

      先の天正日記が近代になって出てきたようなのは、この条項に関係する。

     その作者が見るはずのない、またはその当時存在しなかった、他の史料の模倣や利用が証明されないか。

    古めかしく見せる細工からきた、その時代の様式に合わない、時代錯誤はないか。

     その史料そのものの性質や目的にはない種類の、贋作の動機から来たと見られる傾向はないか()。

このほか、贋作がその内容の種本にした史料との比較によって、明らかに偽作とわかったりすることがある。
      (例、田中義成『北条氏康の武蔵野紀行の真偽に就いて』歴史地理第一巻第四号)
このように、贋作の発見の手がかりとなる、種々の場合があるであろう。

「錯誤」についても、上の原則のあるものが適用できるであろう。

「混入」の吟味の基礎は精細な比較研究である。(p46)
特に記録における混入の疑いがある場合について、ベルンハイムは、吟味の方法として、次の数項を挙げている。

〈1〉手筆の原本が存在する時は、そのなかに、他の部分の文字と比較して、
後に他人が前の字を消してその上に、または他の方法で、加筆の行われた事が認められるかを見る。

〈2〉 写本のみの時は、そのうちなお、まだ混入の行われていない古い良い写本を求めてみる。

〈3〉 上の事の不可能な時、混入の疑いのある部分の言葉や文体が、
他の部分のそれと比較して異なっていないか、他の部分との連絡に無理がないか、
他の部分の自然な意味や構造を妨げ、不自然に見えないかを調べる。

〈4〉 内容を比較して、その箇所が他の部分と調和して矛盾しないか、
それと異質的な傾向が見えないか、「混入」の誘因が見出されないかを調べる。

 「混入」に近似したものに「変形」()がある。

混入もこの一種と言えるのであるが、史料が時間を経過する間にその原形を損ね、
種々の変化を来たしていることを指すのである。

フェーダーはこの吟味をさして、「原形の検討」()と呼んでいる。

 建造物・美術品等の有形の遺物は、必然的に時の破壊作用によって変形を来たす。
口碑伝説のようなものも、長い間には変形する。

殊に書物は、何回かの転写の際の誤写、脱漏、省略、修正、種々の混入により、
また錯簡(順序間違い)の起こる事等によって、変形が多く起こるのである。

 「原形の検討」は、できる限り変形を除去して、その原形を復元することである。

書物等の原形を復元するために取る最も普通の手段は、比較研究である。
すなわち異本を多く求め、それによって変形を正すのである。

『更科日記』の古い写本が近時発見され、それによって、
従来の流布本に錯簡があったことが明瞭になった、というようなことは、この適例である。


(2)起源・発生の検討(批判)()(「ちくま学芸文庫版」p48)

  *(私注:原書では「来歴批判」である。これも悩ましい言葉である。
   原書付記()のドイツ語を辞書で引けば「起源・発生」である。

   日本語で「来歴」と言えば、「最初に誰が持っていたのを、誰の手を経て、どのようにして、現在の所在に来たか」、
   という考証だと思ってしまう)

   実際(1)の「真贋の検討」において、この日本語で言う「来歴(由来)」考証が必要となることも多い。
   どの段階でニセモノが入ってきたのかを考える時に、必要になるのだ。

   したがって、来歴批判とは、現在の所在に至る、経歴由来の考証だと考える人が多い。

   ではここでの「来歴批判」の意味は、この経歴由来を考えること、でいいのかと言うと、そうはいかない。
   以下に説明するような、起源・発生についての検討の意味で使っている場面を、見たこともあるのだ。

   今井氏は、昭和10年と言う厳しい状況の中で、かすかに意味が汲めないこともない、
   という、微妙でまぎらわしい用語をたくさん選択したと思われる。

   これらを伏字のようなものと思って読むと、納得がいく。

   しかしこの本は、日本の実証史学では、数少ない簡便で教科書的な本だった。
   「来歴批判」という言葉で史料の「起源・発生」を論じた方もおられるようである。

   そして、「経歴由来」用法の立場の人で、それを読んで、
   「経歴由来」ではなく「起源・発生」を論じているということに、気づかない人も多い。

   この「起源・発生」の場面での「来歴」という言葉が、いつ、どこから発生したかについては、
   私にはまだわからないが、とりあえず「発生」にしておくことにする。)**


 「発生」とは、その史料の作られた時、場所および人間の関係を指し、これを吟味することが「発生の検討」である。

 近時の史料には、書物・文書はもとより、建築物、器物等さえそれらが明言されていて、多くはこの検討の必要がない。
古いものにも、公私の古文書には、これらが記されていることも少なくない。
しかしその一方で、発生が不明である史料は、非常に多いのである。

 古い時代には文学的作品等にその作者および著作の日時を記してないことが多い。
わが国の物語類等はこの類である。

また公私の記録文書、殊に原本がなく写しのみの場合、
例えば人々の書簡集のような類のものには、これらが欠け、または不十分なことが多くある。

考古学的遺物のようなものは、大多数その起源が不明である。

 日時を明らかにすることは、次の意味において重要である。

すなわち、第一に、史料を事件の推移の順序に配列して、初めてその事の経過を知ることができるのである。
文化史的研究においても、史料の時間的関係が基礎となって、文化の各方面の発展がたどれるのである。

第二に、史料の証拠価値は、それと歴史的対象との間の時間的距離に関係があり、
その関係が不明であっては、その価値を判定するのに、十分な標準を欠くことになる。

 史料の場所的関係についても、これとほぼ同様のことが言えるのである。

また証言的史料について、その作者の地位、性格、職業、系統等が明らかにされれば、
それが、その史料の信頼性等を判断する根拠となって、その証言を適切に利用するのに都合がよくなる。

名が不明でも、せめていかなる人々であるか、を知ることが重要である。

 史料の日時を考察するには、外的および内的の、両種の吟味を行う。

外的な吟味とは
〈1〉 ある日時の明らかな史料の事が、その史料の中に出て来ることによる。

〈2〉 ある日時の明らかな史料の中に、その史料の事が出て来ることによる。

〈3〉 共在する他の時間的関係の知られている史料から判断する。
     考古学的遺物等において、この方法の適用の範囲はすこぶる広い。

〈4〉 時として、技術的関係からの判断による。たとえば手紙に日付がなくとも、
    その到着した時がわかっている場合などはそれである。

〈5〉 それが時間の知られている史料の断片であることの考証による。
    などを指すのである。

 内的な吟味とは
〈1〉 比較研究を行う。すでに日時の明らかにされている他の史料と外形的特徴、
    たとえば様式・材料・技術等を比較するのである。
    考古学的遺物の「時」の決定は、多くの場合これが適用される。

〈2〉 文献的な史料等では、特に言葉、スタイル等がおおいに標準となる。
    文語体でも、時々何か時代を暴露する要素が含まれている。

〈3〉 記録等の場合、その記事の内容に手がかりを求め、それによって判断を加える。
    もとより多くの場合、非常に精密な時間的関係を決定することは不可能である。

    しかし大体の前後の限度を立てる。
    すなわち何時より以後()および何時より以前()を明らかにすることができるだけでも、
    その史料の利用におおいに役立つのである。

 史料の製作された場所の吟味は、次のような条項が着眼される。

〈1〉 発見の場所。古く交通不便、運搬の困難だった時代のものは、
   発見の場所がただちに製作の場所を示していることが多い。 

   これに反し、また、その物が移動している場合も少なくない。
   芸術品等はすこぶる移動する性質を持っている。

   ギリシャの芸術品などは、早くからすでに多数が他の地方に移されていた。
   しかしとにかく発見の場所はその吟味の一標準である。

〈2〉 外的形式。すなわちその様式、材料、技術等の比較研究がその決定に役立つことは、
    日時の吟味の場合と同様である。

〈3〉 言葉およびスタイル。これも日時の場合と同様である。
    ただし文語体の時は、方言の差が出ないことが多いので困難である。

〈4〉 内容。文献的史料では、記事の内容が往々にして、その製作の場所を示している。
    たとえば特にある地方の記事が詳細であったために、その書かれた所が知られる、
    ようなのは、その適例である。

作者の吟味の方法としては、次のような条項が挙げられる。

〈1〉 外的な吟味 
  ①同じ作者の他の史料の中に、明らかにその史料を記してあることがある。
  ②同時代の他の史料または後世の史料の中に、その史料の作者が出ていることがある。
  ③作者の符丁、頭文字、または奉呈の人名等によってその作者が知られることがある、等である。

〈2〉 内的な吟味 
  ①現物があれば、書風を見れば、往々その作者が推定される。ただこの適用の範囲は甚だ狭い。

  ②言葉およびスタイルによって作者を推定する。

  ③その記事の内容に手がかりを求める。

   その叙述の中から、作者の人物、地位、系統、利害関係、年齢その他の生活関係を知り得る事があり、
   少なくともこれらの一部分が断定できることが少なくない。

   例えば貴族か僧侶か商人か等が知られるのである。

   またそのものが多くの人の合作である時、その形式・内容が同一でない事等が根拠となって、
   発見の手がかりを提供した例は、多く挙げられる。

(以上、「起源・発生についての批判」の項は、大体フェーダーの記事を採用した())


(3) 本源性の検討(批判) (「ちくま学芸文庫版」p53)

 史料の利用について特に注意するべきことは本原()史料借用()史料の区別である。

これは古くは甚だなおざりにされていた事項である。
しかし近時に至って、史料の本源性、およびそれに関連する従属性()の検討が、史料批判の主題目となった。

二つ以上の史料の間に、時として親近()な関係が存在し、それが実は、一つの種類であることがある。

史料が、本原的・独創的(オリジナル)なものであるか、または借用的・模倣的なものであるか、
の吟味が、「本源性・従属性についての検討」である。

 この批判の方法が、いわゆる史料解剖()である。

史料解剖とは、各史料の要素を細かく分解し、一見して親近の疑いがある史料と比較し、
これによってそれらの本源性・従属性を確かめることである。

そして史料解剖の立脚する理論的根拠として、フェーダーが挙げているのは次の条項である。

〈1〉 一つの出来事について、各人の観察把握の範囲および内容は、
    すべての個々の事について、特に偶然的な事について、皆一致するということはない。

〈2〉 各人が同じ一つの事象を証言するとき、その表現の形は同一ではない。

〈3〉 すでに他人によって言語的に発表された表象内容に一致する証言は、
    少なくともその付帯事項の一致により、また、しばしば誤解のある点により、その従属性を暴露する。

〈4〉 二個以上の報告が、同じ内容を同じ形式で述べる時、それらの史料には親近関係が存在する。
    二つの史料が、その形式も内容も著しく一致している時、それらに親近関係があることは、もとより疑いない。
    形式が異なっても、内容がよく一致しているので親近関係を証明することがある。

    形式は一致しているが、内容の一致が疑わしい時、偶然の重要でない個々の事項が一致し、
    親近関係が示されることがある。

 もし甲と乙の二史料に親近関係が存在し、一方が他方の元であるべき時は、
甲が乙から出たか、乙が甲から出たか、の二つの可能性があるのみである。

その際、いずれを本原的であるとするべきか。それについては、

 両者の時間の前後関係がわかるかを吟味する。それがわかれば簡単である。

 一方にだけ適合する性質を、他方がただ盲目的に踏襲した形跡がないかを見る。

 どちらかに誤解不都合が起こっていることが認められないかを吟味する。

 どちらかに内容的な付加または削除の痕跡がないかを吟味する。

 一方が他方の表現形式を改め、または内容を整頓改正したなどの点がないかを注意する。

などによって判断するのである。これが本源性についての批判である。

この種の批判のいい例として、例えば平家物語・源平盛衰記の関係の考証が挙げられるであろう。
 (津田左右吉『平家物語と盛衰記との関係について』史学雑誌第26編第7号参照)

 親近関係が実際はすこぶる複雑な形をもってあらわれ、
甲乙の史料に直接の親近性がなく、その関係が間接的であることがある。
その時は三つの史料の親近関係の場合となる。

 史料甲乙丙について言えば、甲が元となる時、
①甲―乙―丙、②甲―丙―乙、③乙と丙とが共に甲から出ている、
という三つの場合が起こってくる。乙が元となり、また丙が元となる時についても同様である。

 親近の史料の数が多くなる程、この関係は複雑になり、その吟味が困難を加える。
時には現物が失われて、借用史料のみが残っていることがある。

その場合、現存の多くの史料に比較研究をくわえて、ある程度まで現物の形を復元することができるのである。

 親近関係は多くの史料にわたって存在する。

西洋では特に中世時代に、作者が他の材料を著しく借用したことが多く、
時としては一節をそのまま借用することもあった。

わが国でも、鎌倉から室町の時代にかけて、他人の書物の改作の風習があった。
多くの書物の異本ないし類本は、かくして生じたのである。

記録のみでなく、法律制度、風俗習慣、伝説口碑の如きも、
一箇所から他方につたわり、親近関係をたどり得ることがある。

 この例として、かのバビロニアのハムラビ王の法典ないし楔形文字で記されている神話と、
旧約聖書のモーゼの法律および創世記の伝説との間に、
ある程度の親近性が認められるようなのが挙げられる。

かくて史料の本源性についての批判は、そのまま文化史の研究にも、応用の範囲を見出すのである。

 親近関係にある史料において、価値があるのは、ただ本源性を持つ史料のみである。
その他は、ただその借用であるために、いかに多数であっても、それは決して証拠力を持つものではない。

ただその本源の史料が既に失われて存在しない時、それを借用した比較的原形に近いものが、
現物を反映するものとして、重んじられるのである。(下線、私)

 先に掲げた英国のアングロサクソン年代記では、現存している中世時代の稿本が7種あり、
ABCDEFGと命名されている。

それらについて、その混入等の批判、起源の批判等に加えて、
その本源性の関係がすこぶる精密に考証され、この種の批判の一典型をなしている()。


(二)内的批判 (「ちくま学芸文庫版」p57)

(1)可信性の批判()(p57)

 外的批判によって、史料の外的性質ないし価値、すなわち真偽、起源、本源性が決定される。
しかしこれではまだ、その可信性()信憑性()は、決定されない。

すなわち、それをどの程度に信じるべきか、それがどの程度に証拠力を持つか、は、不明である。

 もとより史料を「遺物」として扱う時、それは、贋作または錯誤でなければ、十分に可信性を持つ。
だから、「遺物」は、可信性の批判の対象にはならない。

 しかし史料が「証言」である場合においては、その可信性はまちまちである。
実際、同一事実に関する直接の証人の証言が、矛盾している事は少なくない。

その場合、一方が正しいとすれば、当然、他方は誤謬もしくは虚偽でなければならない。
さらにまた、双方が、誤謬または虚偽であることもあり得るのである。

この可信性の吟味が、内的批判の任務である。

 この可信性の吟味について、報告ないし証言は、次の二つの点において評価されなければならない。

すなわち一つは論理的評価で、「証人は真実を述べることができたのか」である。
他は倫理的評価で、「証人は真実を述べる意志があったのか」である。

**(ここまで「陳述」を「証言」と変換してきたが、「陳述と証言」という文が出てきた。
ここではこの「陳述」を「報告」に置きなおした。再考の余地あり。)
***

 史料の可信性は、論理的または倫理的に、真実が歪曲される事によって損なわれる。
すなわち錯誤()と虚偽()が原因となるのである。

従って、史料の可信性の考察には、錯誤と虚偽が、いかにして起こるかを吟味する必要がある。 

 錯誤はいかにして起こるか。それには次の理由が考えられる。 (p59)

〈1〉 感覚の錯誤 

  人が事件を認識する時、それは多くの感覚的認知が基礎となり、それが統一されるのである。
  だからまず、感覚的認知に錯誤があってはならない。

  それにはその人間が、生理的・心理的に病的でないこと、また対象に対する距離が正当であること、
  妨害がないこと、十分注意力が働いていること、等の条件が整わなければならない。

  これらの条件が欠ける時、当然錯誤が起きるのである。 

〈2〉総合の錯誤

  一つの事件は細かい個々の感覚的事実の総合である。
  人の悟性がその個々の要素を論理的・心理的に結合させるのである。

  その総合において、常に前の経験ないし知覚に基づいて類推が働く。
  この際、主観的要素がともなうことは免れない。

  ことに先入観、感情等が働く時、判断を誤り、錯誤を起こすことになる。

〈3〉再現の錯誤 
  人が事件を述べるには、過去に認識した所を記憶によって再現しなければならない。
  しかしながら、完全な記憶などというものは、全くの例外である。

  そのために前後の誤り、時と所との誤りなどが常に起こりやすい。
  覚書、自叙伝等において、誤謬のあることはしばしば見る例である。

  ことに時間をへだてる程、その記憶に誤りを生じ、思い違い、脱漏が多くなるのである。
  これには感情的要素も働き、経験的事実に誇大美化等が起こってくる。

〈4〉表現の錯誤 

  証言は言語的形式において表現される。
  しかしながら言語には不完全性があり、内容が常に適切に表現されるとは限らない。

  そのためそこに錯誤が入り、証言する本当の内容が、
  そのまま他人に理解されない、ということが起こるのである。

 各人が観察した事実の直接の証言において、錯覚が起きる一般的基礎は、以上の如くである。

 かのサー・ウォルター・ロリー()が、みずから窓から目撃した街の出来事について、
他の目撃者によって語られたことと、自分の観察とが、本質的に異なっていたので、
執筆中の世界史の第二巻の草稿を火中に投じたという逸話は、
上述の錯誤の一例を示すものと解釈できるのである。

     *サー・ウォルター・ロリー
      (エリザベス1世時代の人。ギリシャとローマの古代史に関する本
      『世界の歴史 A Historie of the World』を著した。)

 直接の観察者の証言にすら、錯誤が入ることを免れない。

いわんや証言者が直接の観察者でなく、その事件を聴取した人である時、
誤解、補足、独自の解釈等によって、さらに錯誤が入る機会が多いのは、当然である。

ことに噂話等のように非常に多数の人を経由する証言は、
その間にさらに群集心理が働いて、感情的に、錯誤はますます加わるのである。

 次に虚偽にもまた種々の系統がある。(p61)

たとえば
(1自己または自己の属する団体の利害に基づく虚偽、
(2)憎悪心、嫉妬心、好奇心から出る虚偽、
(3)公然あるいは暗黙の強制に屈服する虚偽、
(4)倫理的または美的感情から事実を教訓的にまたは芸術的に述べる虚偽、
(5)病的変態的な虚偽等である。
(6)また沈黙が一種の虚偽であることがある。

 歴史学の史料としては、利害関係に基づく虚偽、
倫理的または美的感情から出る虚偽、が最も多いであろう。

近代以前においては、歴史目的の誤謬、
すなわち歴史を教訓的に、または芸術的に述べる傾向があり、
その記事が倫理化美化されていることが多数である。

それらの記述を史料とする時は、常に警戒を要する。

また伝記の作者も、自然、この傾向があることを免れないであろう。

 このように証言的史料には錯誤または虚偽の機縁が多く考えられる。
しかしだからと言って、全面的な歴史的懐疑、または歴史的真実の否定に陥るべきではない。

個々の史料について可信性を吟味し、厳密に方法的にこれらを取り扱う事によって、
ある真実をその中に認識することが可能なのである。

 なお、証言に対して、遺物は補充手段を提供する。
それを利用することによって、証言からの真実の認識を確かめることができるのである。

    ***(私註:ここでの「真実」は、原書では「真理」です。
        ほかにも以前、この改変を行ったところがあります。以下同様の疑問あり)**


 史料の証言の真実を損なうものは、錯誤および虚偽である。
そのため、可信性の批判では、個々の史料について精細に、錯誤および虚偽の可能性を考える必要がある。

そして、証拠として採用する要素を、これらから開放しようとすることである。

 そしてそのためには、史料を、外的批判の結果に基づいて、
①その性質、②その日時と場所および作者、の諸角度から検討することが必要とされる。


史料の性質 (「ちくま学芸文庫版」p62)

 前述のように、遺物は本物である限り、可信性の吟味の対象とはならない。

文献も全体的に(勅令、法律、条約文、文学的作品のように)あるいはまた部分的に、
遺物である範囲の性質において取り扱う時は、他の遺物と同様である。

 可信性の批判は、もっぱら証言的史料に対して必要である。
ゆえに、それについては、つぶさにその外的および内的な性質に従って、吟味を必要とする。

 たとえば外的性質に基づいて、口頭での証言、文字による証言に大別し、まず口頭での場合を考える。

すると、それにもまた種々の種類があり、本人直接の話は錯誤がもっとも少なく、
それが又聞き、すなわち間接的な話となると錯誤が入りやすく、
ことに時間的・人間的に間接の度が増して、広がるほど、遠くなるほど、真実を損なってくる。

 伝説はその著しいものであって、一般に、長く伝わる間に
①誇大・美化・理想化、②集中、③混合等が行われる傾向を持つ。

現在、文献化している証言であっても、かつて相当の期間口伝的であったものは、この性質を帯びており、
伝説口碑として扱う用意が必要である。

 また文字による証言は、外的性質によって、
公私の往復文書、宣言書、演説、新聞雑誌の記事、日記、覚書、回想録、系図、歴史書、年代記、伝記、
その他種々の種類に分けて、

大体その性質を考察し、さらにその史料の一つ一つについて、その証言の内容を吟味する。

 同じ公的往復文書であってもその性質は種々に分かれる。

たとえば外交文書のようなものは、フリーマンをして
「われわれはここに、虚偽の最も選ばれた分野を持つ」(1886年)と言わしめている種類である。

         *エドワード・オーガスタス・フリーマン。1935年以前に、外交文書は傑出した(研ぎ澄まされた?)虚偽だ、
          と言った、欧米の先人がいるらしい。
         
          これは、『歴史とは何か』の著者E・H・カーが、その出発点が外務省関係者だったことを
          思い起こすと、気になる点である。『歴史とは何か』には、そんな話はないから。


          後の中東に紛争の種をまくことになった、イギリスによる、ユダヤ・アラブ・オスマン等に関する宣言は、
          いずれも第一次大戦中のことである。「バルフォア宣言」で調べると出てくる。


しかし同じ外交文書であっても、その文書の目的の相違等によって、その内的性質は一様ではない。


 要するにある種の傾向のある、たとえば「利害関係を有する」証言、
「宣伝的性質を持つ」証言、「道徳的ないし芸術的効果を目的とする」証言等については、
特に真実の歪曲を予想するべきである。


日時と場所および作者(p64)
 
 史料の可信性を批判するについては、その史料の性質を考察するだけでは不十分である。
そしてそれを補うものが、日時と場所および作者の関係である。

 日時と場所については、原則的にはすこぶる簡単である。一言でいえば、証言が、
時間においても場所においても、その証言する内容に近いほど可信性があり、遠くなるに従ってそれが減少する。

即座()の証言が理想である。

実際においては、時間は近いが場所が遠くでなされる証言、
場所は遠いが時間が隔たってなされる証言等があり、

一つ一つについて、その可信性が吟味されなければならない。

 わが国の古代史において、魏志の倭人伝の記事は、時が近く、場所が隔たって作られた史料であり、
古事記・日本書紀は、場所が近く、時が隔たって作られた史料である。

こういう場合、時と場所との、隔たり方の程度によって、その可信性が批判されるのである。

 作者については、その証言の論理的真実性、および倫理的真実性を、作者によって判断するのである。

すなわち作者と事件との関係、その素質、性格、教養、年齢、性、職業、階級、党派、宗教等の関係によって、
その証言における錯誤ないし虚偽の可能性に、種々の等差があるはずである。

そしてこれらの等差の考察は、実際においてはすこぶる複雑である。

 たとえば事件の当事者の報告は、その事件を最もよく把握している人の証言である点において、
最も価値がある。

それは口頭での証言の際に述べたように、文字による証言においても、
直接の証言は間接の証言より、理論的に錯誤の可能性が少ないからである。

 しかし一方、当事者はその事にもっとも大きな関心があるために、
時として、利害関係、虚栄心等から、真実を隠匿する傾向がある。


この点においては、第三者の証言の方が、可信性が多くなる。
論理的真実性はあっても倫理的真実性が欠け、錯誤はなくとも虚偽が入るのである。

 実際においては、ある史料の作者について十分な材料が欠けている事が多く、
したがって種々の関係を知る事は困難である。

また多くの場合、必ずしも全部の関係を知る必要はないが、
一切の証言において、その作者の人間を顧慮することが、その可信性批判の重要な標準となるのである。

 なお、事件に関して、作者の主観が大いに入っている意見・批評等よりも、
その証言の要素をなす、素朴な各事実が重要である。


意見批評等は、むしろ遺物的な要素として見るべきである。

 作者に対し、ラングロアおよびセーニョボスは、

虚偽の有無について、
①作者の利害、
②事情の力(職務的報告かどうか等)、
③同情、反感、④虚栄心、⑤世論への服従、⑥文学的歪曲等
を考察すべきであるとした。

また錯誤の有無について、
①悪い観察者でないか(錯覚、幻覚、偏見等)、
②よく観察できる地位にいたか、
③怠慢および冷淡、
④直接に観察できない性質の事件でなかったか、
等を考察するべきである、としている。

 これらは直接の観察者の場合であるが、錯誤および虚偽の起こる事情から見て、
大体、適当な注意の条項であると言えるだろう。


(2)史料の価値の区別  (「ちくま学芸文庫版」p66)

 可信性の吟味によって、史料の価値を判断する標準が立つ。
史料の価値について、坪井博士は次のように六つの等級を付けられた(史学研究法)。

一等史料 史学事項の起こった当時、当地においてその当事者が自ら作った史料、
     たとえば主たる当事者の日記の類、参謀官のメモ等。

二等史料 史学事項の起こった当時、当地にもっとも近い時代・場所、
     あるいは当地ではあるが時代がやや隔たっている場合に、
     当事者が自ら作った史料すなわち追記の精密なもの。

     記憶により証明する場合、普通の覚書記録の類の上出来なものである。
     古文書も過ぎ去ったことを往々述べるが、その場合はこの部類である。

三等史料 一等と二等とをつなぎ合わせ、それに連絡をつけた種類のもの。
     まずもっとも上出来な家譜、伝記、または覚書等。

四等史料 大体から見て、年代・場所・人物が、まず差し支えないと思われるが、明白でないもの。
     またそれは明らかであるが、古いために転写され、混入、脱漏、変化がありそうだと考えられるもの。

     建築物、地理等はこの類である。書籍にもこの類が多い。

 以上を根本史料とする。

五等史料 編纂物の上出来なもの。すなわち根本史料により、科学的に審査し、公平に編纂したもの。

等外史料 その程度のさらに落ちた編纂物、伝説、美文、歴史画、その他。


 これに対し、大類博士は次のように記されている。(史学概論、昭和9年版)  (私註:大反論の開始です。)

*******
 以上は坪井博士の説かれた所で、その史料の等級別は、
当時、当地、当該人物を主とする当該主義(仮にこのように呼ぶ)に拠られたものである。

すなわち何でも事実と直接関係の多いほど、信用すべきものであるという方針に他ならない。

これはもとより至当の方針で、関係の深いだけ、それだけその事件の真相に通じている、という次第である。

しかし(中略)当該主義もまた絶対的な方針とは言われない。
結局は便宜上の方法に過ぎない。

このような方針によって等級を付けるのは、決して厳正な意味においての科学的態度ではない。
要はただ、大体において当該主義は妥当な方法である、と、心得てよろしいのである。

 元来、当該主義によって、上記のような明瞭な標準を立てて、史料に等差をつけるのは、問題であろう。
でき得れば、等級なるものは廃止するのがよろしい。

もとより史料は死物である。これを活かして使うは、一に研究者の技量に待つ次第で、
その技量いかんによって、利刀ともなり、鈍刀ともなるのである。

そうして史料の意義は、史学研究の材料となること、すなわち史学研究に役立つことにあるのであるから、
等級を付けるならば、それは研究に役立つ程度の区別であらねばならない。

しかるに研究に役立つことは、研究者の識見技量によっていかようにも変ずるから、
その場合場合に応じて、等級は常に変更するのである。

 要するに等級別は、史料そのものにあるのではなくて、研究者の頭脳にあらねばならない。
つまり、上記のような数等の段階は、史料の価値の区別ではなくて、ただ史料の性質の分類に過ぎないのであった。

すでに分類に過ぎない以上、一等とか二等とかいう名称を用いて、価値の等差と混同させるのは、よろしくない。
ことに等外史料を軽視して、この種の史料は、尋常一様の史学研究にはまず入用のない部分である、
と説かれたのは、首肯し難いところである。

 要するに、史料の価値は、当該主義によって定めることはできない。
ただ便宜上当該主義に当てはまるものほど、信用できる場合が多い、というに過ぎない。

われわれは、まさに史料そのものに等級を付けることをやめて、
研究問題の起こるたびに、その研究に最も有力な内容を提供し得るものを、一等と心得、
以下、程度に応じて便宜上それぞれの等差を仮定するべきである。

 そうしてその標準は、必ずしも当該主義による必要はなく、
自己の研究に役立つことを標準とするべきである。

もちろんその等差は、便宜上の一時的な仮定で、絶対的なものではない。

*******
 以上は大体当を得た主張である。
しかしその等級別反対の根拠とされるところについては、若干の異議がある。

それは
「史料は死物である。これを活かして使うは、一に研究者の技量に待つ」
「要するに等級別は、史料そのものにあるのではなくて、研究者の頭脳にあらねばならない。」
という点である。

 これはこれ自身としては確かに正当である。
しかしこのことを史料の価値批判にまじえるべきではない。

史料の価値は、研究者の素質から離れた理論的根拠から吟味されなければならない。

例えばある良書は、ある読者ににはなんら役立つところはない。
従ってその人にとっては、なんらの価値はない。

しかしなお、理論的にそれが良書である、価値が高いと、言えるのである。

 これについて、野々村戒三氏が、語弊がある、と言われているのは至当である(史学概論)。
そして理論的に見て史料の等級別なるものは、次の点から反対されるであろう。

一、  前述のように証言的史料は一面においてまた遺物として採用され得る。
   証言として価値がなくとも、遺物として役立つのである。

   従ってその価値は研究者の頭脳を離れても、史料としての採用され方によって変化する。
   それゆえに、一つの史料を単純に、一等とか二等とかすることはできない。

   ただ、ある事件の証言として価値に等差があるということにすぎない。
   だからそれによって、その史料そのものに、固定的な等級をつけることはできない。 

   社会を実写した「芝居、狂言、流行歌、川柳、小説の類」は、一時代の社会を研究する時、
  欠くことのできない証拠物となる。そのことは、坪井博士も認められているところである。

  この場合、欠くことのできない証拠物を等外に落とすという矛盾は、
  史料の一性質の持つ価値を、その史料の全体的価値としたところから来るのである。
            (私注:原文、その史料の全体的発展に価値させたところから)

  要するに明確な史料の等級別を立てることは、史料の価値の区別のある場合の標準を、
  その当然の範囲以上に拡大させ、不自然に固定化させるメカニズムである。

二、 史料の等級別は、十分に包括的かつ明確ではありえない。

  例えば坪井博士の等級別において、一、二等の史料では、人間として専ら当事者が着眼されているのみである。
  しかし当事者のほかに、多数の人がその事件の報告者であり得る。

  そしてその場合、直接の観察者の証言のようなものは、すこぶる価値が高いとしなければならないものである。
  しかしそれらは、いずれの等級に加えるべきだろうか。

  また事件の後、まもなく関係者から聴取して記述した証言のようなものは、いかなる等級だろうか。
   所詮、等級を立てる以上、必ずこのような疑問が起きるのを、免れることはできないであろう。

  史料をただ証言として見ても、実際においてその性質は多種多様であり、その価値の関係も又、非常に複雑であり、
  全体を包括し、明確に区別する等級別のようなものは、到底立て難いであろう。

三、 当時、当地において当事者の作成する文書にもまた等差があり得る。
  例えば当事者の、全く事務的なもの、または私的なものと、政略的または宣伝的な性質のものとは、異なるのである。

  もとより政略的宣伝的なものも遺物としては大いに価値があるが、それは証言としての価値ではない。
  さらに当事者の追記となれば、時として自己弁護等が加わり、錯誤のみならず虚偽の入り込む可能性がある。

   欧州大戦の多くの当局者の追記的証言に、すこぶる可信性の等差があると言われる。
   それは、これについての明らかな証拠である。

  当事者の証言を重んずるのは、その論理的真実性についてである。
  しかし倫理的真実性の要素をくわえれば、いわゆる当該主義は、破綻を来たさざるを得ないのである。

 史料の可信性の批判において、時間・場所・および人間の関係をよく考慮し、これを価値判断の標準とすることは、
研究法の書物がすべて一致するところであり、その点について疑問はあり得ない。

ただそれは、しゃくし定規的、機械的でなく、それぞれの史料について十分有機的になされることが肝要である。


   (私註:大反論だ。特に反論もできないが、坪井博士の発言がなかったら、この文章はないことになる。

    時間空間を経て、事件当時の情報が、現在どのような形で存在しているかについて
    一般の人は全く考えたこともない、ということが多い。

    ただ歴史家が語る歴史を、なぞるだけ、というのが一般的なパターンだと思う。

    ここで想像してみたらどうかと思う。

    誰もが歴史を読みながら、史料というのは、実際には、時間を追うごとにこのような状態になりうる、
    ということを知っていたらどうなるか。

    人は、書かれた歴史を鵜呑みにすることなく、史実の奥行きを、
    これまでよりもはるかに深く、感じることができるだろう。

    だから、坪井博士の例示は、一つの事件に関して、
    想定できるパターンとして、わかりやすい例となっていることは確かである。

    史料の等級の話ではなくて、別の大事な話のきっかけを作っていると、私は思う。
    今井が提示している史料批判実例「塩尻峠の合戦」も、結局そういうことなのだから。)



5、総合 (「ちくま学芸文庫版」p75)

 他の多くの科学においては、材料は同時にその学問の対象である。

しかし歴史学においては、ニーブールが「史料の調査」を坑夫の仕事になぞらえ、
「地下の仕事」()と言っているように、史料はただ、手段であるだけである。

その批判検討は、歴史学の基礎工事に過ぎない。

批判検討によって、その証拠力の程度が吟味された後、その史料を使う。
そしてその目的とする歴史認識に達する。
それが、すなわち総合である。

これは歴史研究においても、最も重要な職能である。

                                  

(1) 史料の解釈() (「ちくま学芸文庫版」p76)

 先に述べたように、史料の解釈は、すでに史料収集の時に始まる。
そして批判作業というものは、史料解釈を伴うことによって、初めて可能となる。

史料の性質が十分吟味されて後、さらに十分な解釈が与えられる。
史料は、正しい解釈によって、初めて研究に役立つのである。

 遺物は沈黙して、それ自身では直接に説明しない。それを生かすのは解釈によるのである。
遺物の史料的価値は絶対的であるが、解釈を誤れば、まったく誤った結論に到達する。

遺物が証拠となるのはただ解釈を通してであり、
遺物にとって解釈は、最初の、また最後の条件である。


  一例を挙げれば、有史以前の遺物に、へこみ石なるものがある。
  これが何に使用されたかが解釈されなければ、ほとんど史料としての価値がない。

  しかし多くの未開人の発火法を知ることによって、
  これが原始的な発火法に使われるものであることが明らかになれば、

  この石が各所に出ることによって、古代の人民が、
  未開人と同様の発火法をおこなったことが解釈されるのである。

 しかしこういう解釈において注意すべきことは、
「それが証明する範囲」を、よく考えることである。

たとえば条約、招待、会合、法律、威嚇等に関する文献を遺物として使用するとき、
これらのことがすべて実施を見た、と解釈されてはならない。

これらの史料は、その実施については、なんら肯定も否定もしていないのである。

ある禁止事項の文献があったとすれば、
このような種類のことがしばしば犯されたことを示している、
とは解釈できるのであるが、

この禁止が徹底して、その違反がなくなった、という解釈は、「立てられない」のである。


 文献的史料は言語文字によって表現されており、その言語文字を解釈することは、その出発点である。
解釈できない文献は、採掘されない鉱山に等しい。

多くの古代文字の解読が、古代史に新しい世界を開いたことは著名な事実である。

歴史研究は、その時代の文献を解釈することが深いほど、有利な武器を持つことになるのである。

歴史学と文献学()の概念の決定に関する論争が、かつて、大いに学界をにぎわした。
それは一面、言語文字の解釈が、歴史学にとっていかに密接な関係を持つか、を物語るものである。

 史料の解釈は、ただ言語の意味の把握、ということだけではない。
さらに、歴史的対象の説明者である、という意味で解釈されなければならないことは、言うまでもない。

そのためには、その史料の証明し得る事項に関する知識が、深くなければならない。

それは常に、その背景となる歴史的事実の知識であり、またしばしば各種の補助学科の知識である。


 例えば古書の内容は、時に極めて断片的である。

それを適切に解釈して十分な証拠力を発揮させるには、
その周囲の事情が明瞭であることが必要である。

それで、その古書の断片的内容が生きてくるのである。


 同様に、ある古典の記事のようなものは、
記事が簡単で、しかも今と事情を異にしている時代のことであるために、よく理解できないことがある。

その場合、これと他の多くの歴史的事例とを比較し、
また社会学、法律学、民俗学、経済学等を補助学科として、解説される例は少なくない。

すなわち類推的推理の材料として、歴史的事例の知識や補助学科が役に立つのである。


 ただしこのような比較研究法について注意すべき事は、
類推は推理の形式として不完全であって、推理の飛躍が多い、ということである。

異なった社会、もしくは時代の類似は、部分的であって、完全な一致ではない。

そのために、部分的な観察を普遍化させて、すべてをパラレリズム(類似)でもって説明することは危険である。

 
 この種の類推の実例として、ベルンハイムの記載している所を引いてみる。

 それは、モルガンがその名著「古代社会」()その他の書において、

 ある原始民族の夫婦関係の観察から出発して、

 すべての民族が、その文明の向上とともに、必ず夫婦関係の形式の同一な段階を通過し、
 その間に、ことに母権の支配する段階が顕著なものであり、
 最後に一夫一婦の形式に到達した、

 ということを推論した。
 この書の推論を基礎として、さらに多くの推論が成立した。

 しかし、ウェスターマークの人類婚姻史()の詳細な調査は、
 モルガンの研究法と、その普遍的推論の誤謬を証明した()、
 というのである。

 すべてこの形式の推論は、
若干の具体的実例に基づいて普遍的結論を立てるという行き方であるために、
それに反する具体的実例の指摘によって、くつがえされるものである。

史料の解釈において、類推的推理は大なる示唆を提供する。

しかしこの際、類推法そのものは、
学問上では、ただ仮説を立てるのに用いられる推理の形式

であることを、忘れてはならない。


(2) 史実の決定  (「ちくま学芸文庫版」p80)

 史料は、ある歴史的事象すなわち史実を証拠立てる。
時として、ある一つの史料は、それで十分に、ある史実を証拠立てることがある。

  例えば、ある形式の整った条約文の存在は、
  それで十分に、その条約が締結した決議事項、を証拠立てるのである。

しかし多くの場合、一史料のみでは一つの史実を決定することは不可能である。

多くの史料を必要とし、時として一つの史実に関する史料が甚だ不十分であって、
発見されているすべての史料を使わなければならないことがしばしばである。

そして多くの史料の証言は、あるいは一致し、あるいは矛盾する。

史料の証拠が一致する場合

(一) 遺物と遺物の一致。

   遺物は沈黙しており、それを生かして証拠に使用するのは解釈である。

   しかし解釈は主観的要素があり、誤謬におちいりやすい。
   そのために、遺物の一致にはその数が多いことが要求される。

   遺物の一致とは、すなわち解釈の一致であり、多くの遺物に対して同一の解釈が成立することを意味する。

   きわめて僅少な遺物の一致では、史実は十分に決定され得ない。

(二) 証言と証言との一致

   この一致は、それらがなんら親近関係をもたず、本源性を持っていることが条件である。

   親近関係のない証言が多く一致するほど、その力は強くなる。

   この際、些細な点の不一致は、決して重要事項の一致を否定することはできない。
   しかし可信性の一致は、その本源性について、疑いを入れる余地がある。

(三) 遺物と証言との一致。

   ある史料の価値が低く、その証言がそれのみでは疑わしい時、
   遺物がそれを確かめて、その史実の存在を肯定することがある。

   例えば古代の伝説が、遺物の発見によって信じることができるようになる、といった例である。

   またある遺物にいろいろの解釈が下されるが、なおそれらの解釈のどれが正しいか不明である時、
   新しく発見された文献的史料によって、その遺物の一つの解釈が確実になることがある。

   エジプト学アッシリア学等に多くこの例が見出される。


史料の証拠が矛盾する場合 (「ちくま学芸文庫版」p81)

 二つ以上の証拠が一致しないことは、実際の研究において、常に出会うところである。

その場合を原則的に扱うために、二つの史料で考えてみる。

  1、「一方が全く不可能である」か、または「可能性のほとんどないことである」時、
  2、あるいは史料の可信性において、「一方は十分」であり、「他方は疑わしい」時、

その決定は容易である。

 しかしいずれも可信性が十分でなく、ただその程度に相違がある時、
可信性・蓋然性を認める程度以上の決定は、なし得ない。

相互の可信性が、同様もしくはそれに近い時は、疑問を残しておくしかない。

 実際においては多くの史料があり、さらに事情をも考慮に入れるために、非常に複雑になるが、原則は上と同様である。

このように史実について多くの史料が矛盾している時、
それらの史料から立てられる史実の決定を、簡単な形式に表せば、

一、 肯定
二、 蓋然
三、 未決定
四、 否定

の諸種となるだろう。

 史料が相矛盾する場合については、なおいろいろ注意するべき事項がある。

 表面上矛盾するように見えて、実は相補足することがある。

たとえば甲は一つのことを証明し、乙は他のことを証明している時、
それは矛盾でなく、共に真実であり得るのである。

 史料の矛盾は実は真理が中間にあることを示す場合がある。

例えば戦争において、両方が共に勝利を報告しているが、それはその勝敗が決定的でないことを意味する、
というような場合である。

 事件そのものは本来同一であるが、ただ証言者の心理主観の相違によって、別個の形をとっていることがある。

 不必要の事項の矛盾は、多くの場合、問題にする必要がないことである。


沈黙の証拠  (「ちくま学芸文庫版」p83)

 史料の証拠の一致および矛盾に関係があるのは、いわゆる「沈黙の証拠」なるものである。

これはある史料に当然あるべき事柄がなく、したがってそのことの否定の根拠となるものである。

その点からこれはまた消極的証拠()と呼ばれる。

   たとえば北条時頼の廻国の物語がもし事実とすれば、それは当然『東鑑』に載るはずである。
  しかしその書物には、それに関するなんらの記載もない。

  したがってこれは一つの小説に過ぎない、という類である。

ただし、この「沈黙の証拠」については、次の点を吟味しなくてはならない。

一、 証言者がそれを知っていたか。
           古い交通不便の時代には、時として当然知るべきことに無知であったことがあり得る。

二、 証言者が報告するべきことと認めたか。
           時代の差異等のために価値批判の相違があることが考えられなければならない。

三、 証言者が報告し得ないことではなかったか。
           なんらかの利害関係により、また淳風美俗を害すと考えることにより、
           特に沈黙を守っていることがあり得るのである。

           先に述べたように、時として虚偽の一種である沈黙がある。

           ある国の外交文書の発表において、時としてことさらにある文書を加えない、
           というようなことも、またこの種の沈黙である。

 上のように、いろいろな場合をよく吟味して、初めて沈黙を証拠となし得るのである。

また時として、ある遺物の存在しないことが、沈黙の証拠となることがある。考古学的研究の場合、この例が多い。


(3) 歴史的関連の構成 (「ちくま学芸文庫版」p85)  

 史料の提供する史実は断片的であり、そのままではなお、何の連絡もない素材である。

これを因果関係において連結し、有機的な全体的経過発展の形に構成するのが、
ここにいう歴史的関連の構成であり、総合の作業の中心である。

それは史実の関連の把握によって、過去の史的発展を、思想の中に再現するのである。

 そして史実を連結させる手段は推理であるが、それは厳密に科学的推理でなければならない。
この推理は、本質的にはもとより、他の科学におけると同じ形式の論理である。


しかし、歴史的推理には、先験的な原理として、「人間の社会事象の要因」に関する意識が働く。

これはもちろん、すでに史料の批判やその解釈において、推理の要素であったものである。

しかし、特に史実の関係を把握する作業において、指導的なものとなる。

 そして、その「人間の社会事象の要因」としては、
①自然的要因、②心理的要因、③文化的要因、が考えられる。

  ① 自然的要因の意識とは、「人間に対する自然の制約を理解する」ことである。
  ② 心理的要因の意識とは、「人間の心理を歴史的生活に働く力として理解する」ことである。
  ③ 文化的要因の意識とは、「人間社会が生産した一切の文化を、歴史を規定する力として理解する」ことである。

 この場合、「文化」という言葉は、もちろん広義の意味であり、
精神的文化のみならず、物質的文化の一切を包含する。

唯物史観は、この物質的文化の要因に、もっと正確にいうならば生活物資の生産様式に、
特に支配的地位を与える考え方である。

 これらはもとより独立的でなく、相関的有機的に作用する。
しかしその社会事象に働きかける主要な特色に従って、着眼の便宜のために分類されるのである。

 どのような人でも、人間の生活関係に対する理解において、素朴ながら、これに関するある意識を持つ。
この意識を欠くとき、人間の社会事象は、全く不可解な現象とならざるを得ない。

これは歴史を認識する基礎であり、歴史的関連の構成には、これが先験的に働いて、
因果関係を立てる基礎をなすのである。

 史実の関連を正しく構成するためには、これらの要因に関する理解が、

 1、深くかつ妥当であって偏らないこと、
 2、実際の研究において、注意がそれらに十分かつ鋭く行き渡ること、
 3、因果関係の推理が厳密に論理の形式に適合して、欠陥を示さないこと、

が必要なのである。


 偉大なる歴史家と称された人物は、単に基礎的作業である批判における技量のみならず、
いずれもこの歴史的関連の構成における眼識が、広くかつ秀でていたのである。

これはもとより、もって生れた頭脳にも関係する。
しかしこれは、社会生活の豊かな体験と、歴史研究のたゆまぬ努力によって、鍛え得るものである。
また、優れた多くの研究をよく玩味して、その鋭い史眼を会得することも大切である。

 ランケは、「歴史は鑑が物を写すが如く、客観的に考究されなければならない」ということを主張した。
この「歴史は客観的に考究すべし」という態度は、歴史的関連の構成の問題に関係がある。

 きわめて厳密にいえば、人間の認識に純客観的なることはあり得ない。

いわんや歴史学のように、価値的意識をその認識の根底とする学問にあっては、
到底、主観的要素を除き得ないのである。

しかしランケの発言は、その内容に正当な主張をもつ。

それは、利害関係、好悪の感情等に支配されず、
すべてにまったく公平な態度を取るべきだ、ということの、素朴な表現
である。

歴史学の研究者の、常にもつべき反省をさすのである。

  
 歴史学の対象は人間的事象である。
したがって自然を対象とする自然科学の場合と異なり、
その取り扱う個人、団体、時代等に、好悪の感情を持つことを免れない。

さらにまた、歴史家は、現実の政治的経済的思想的生活において、実際的関心がある。
その実際的関心が、意識的に無意識的に、研究の中に入り込む危険があるのである。

 客観的とは、このような傾向を脱して、冷静に歴史的対象を取り扱うことである。


そしていわゆる主観的傾向の最も入り込む機会は、
歴史的関連の構成の際において
であり、

「客観的に」という標語は、この場合に最も意義をもつものである。

 いわゆる客観的であるためには、すべてに対して共感()をもつことが要求される。

共感とは、できる限り、個人、団体、時代等のすべての立場を理解し、
よくその中の人間性を認めること
である。


   (私註:以上が、ランケの「客観的に」という言明に対する、今井の解釈と釈明である。

       多くの人が、このランケの言葉を批判し、この言葉を引用している今井をも、批判した。
       「客観的」などということはあり得ない」と。

       しかし、強い意味を込めて素朴な表現をしてみたとか、
       そういう理由で、あり得ない表現を使う、ということはある。

       私は、今井の解釈は、ごく常識的で妥当だと思う。)



 現実的関心において、反対の立場にあるものに対しても、
歴史的関連の構成においては、実生活的関係の要素が入ることを、防がねばならない。

ドイツ人であり、新教徒であってローマ教会のドグマを信じなかったランケの、
ローマ法王史における態度のようなものが、その好例である。


 一つの歴史的関連の構成が、いままで誰にもなされなかった題目について行われる時、
それはその研究者の学的業績となる。

なんらかの新しい史料が発見されれば、それは当然新しい証拠を提供し、
ある問題について従来承認されていた考え方、すなわちある歴史的関連が覆され、
そこに新しい関連が構成されることとなる。

すなわち新史料の発見は、研究者に新しい仕事を提出する。

もしまた新しい史料の発見がなくとも、研究者にとっては、
従来の考え方を覆して独自の見解を立てる余地がある。

それは史料の使用の範囲において、従来のものが、必ずしも完全でないからである。


(4) 歴史的意義の把握 (「ちくま学芸文庫版」p89)

 それぞれの歴史的事象は、有機的な大なる発展の中の一部である。

その一部が、全体の発展に対していかなる地位を占めるか、
すなわち全体の因果的関係においていかなる要素であるか、を考察することが歴史的意義の把握である。

これについてエドアルト・マイヤーの論じている中の、最も適切な一節を引こう。

*****
   すべての歴史において、その影響を及ぼした範囲から見て、アウグスッスのような人格はない。

   カエサルは、非常に著しく、より優れた人物だった。
   しかし彼の歴史的影響は、彼の養子に比べてなお、ただ一時的なものだった。

   世界がアウグスッスに服従した時、数世紀を通じる古代世界のその後の発展は、
   ローマ帝国の将来の領域設定に関する彼の決意、に基づくことになった。

   そればかりでなく、その決意の直接の結果から、いまもなおドイツが存在したり、
   ローマ風民族とともにゲルマン風民族が存在したりするのである。

   なぜならば、この国家領域設定によって、
   ゲルマン族の永久的服従に必要であったほどの規模の征服戦争が、
   不可能になったからである。

   もとよりアウグスッスの決意は当時の形勢に影響されているが、
   しかしそれはその核心において、彼の人格の発露であった。

   カエサルなら同様の形勢においても、まったく異なった決意をしたであろう。

   アウグスッスは、カエサルが国家に与えようと欲した領域を、
   彼自身の自由意志から拒絶したのである()。

*****

 このようにマイヤーは、人物としてはカエサルの偉大さにとても及ばないアウグスッスが、
歴史的意義においては、無比の地位を占める理由を論じたのである。

それぞれの研究題目について、その歴史的意義を把握することは、
歴史の研究の最後の考察であるべきである。


 もっとも実際の研究においては、ある題目について研究の要求を起こす動機は、
意識的にもしくは無意識的にそれに関する歴史的意義の直感的把握であろう。

 歴史は過去に対する現代の関心である。

その関心が、いずれの分野、いずれの題目に向けられるかは、
各人において異なり、千差万別というべきである。

しかし各研究者にとって、ある題目に関心を向けるに至った基礎には、
それに関する、ある程度の歴史的意義の認識があるべきである。

それゆえに、歴史的意義の把握は、歴史研究の要求の出発点である。


 しかしある歴史的事象の歴史的意義を真によく把握することは、
もとよりその事象、その題目に関する精細な認識を得た後、
それを十分に歴史の全発展の中にはめ込んで考察して、ようやく可能である。

したがって、これを総合の最後の作業とすべきである。


 歴史という語を、抽象的にただ過去の経過と見て、まったく客観的な存在の意味と理解すれば、
それはもとより固定した不変なものである。


しかしそれは人間の意識する歴史そのものでなく、
永遠に忘却の中に没し去って、人間の思想と交渉のないものである。


 これとは逆に、歴史という語を、「人間の意識する過去」という意味と理解すれば、
それは決して固定的なものではない。


歴史はいわゆる現代性を持ち、現代の姿に従って、意識する歴史が異なるのである。

その意識する歴史が異なる所以は、
すなわち過去の歴史事象に対する歴史的意義の把握が、変化するからである。


 過去に対する歴史的意義は、人間の生活の発展の、現代の段階によって決定される。

蒸気機関が非常な発達をするにいたって、
ひるがえって、その発明に人類の運命を支配したもの、としての意義が付せられる。

また、ヨーロッパの宗教的分離が、社会万端のことに甚大な影響を持つに至って、
さかのぼってルターの95条のテーゼの歴史的意義に、重要さが付せられるのである。

 これに反し、その当時最も社会の耳目を恐れ動かした表面的な事件は、
その直接の社会においては、大きな歴史的意義が付せられるのであるが、

時代が進むに従って、その後世への影響が僅少である時、
その歴史的意義は僅少となる。

 一つの時代には、常にその時代の持つ歴史的意義の把握があり、
従って人間の意識する歴史は、時代の進みとともに変化する。

新しい時代の形態の展開が、過去を見る角度を変えていくのである。


 もとより、人間の社会の形態が本質的に変化することはないのであるが、
歴史の新しい展開が、過去に対する新しい意識をつくるであろう、
ということは動かせない。

すなわち歴史が歴史をつくるのである。

かくてエドアルト・マイヤーの、歴史研究は遡行し、歴史記述は下行す、という文句が生まれるのである。

そしてこの点から、歴史研究には現代の立場から、
常に新しい歴史的意義の把握が試みられ、新しい問題が提供されるのである。

 とにかく歴史の研究において、
新しい歴史の意識の形態を規定するものは歴史的意義の把握であり、

それは歴史研究の出発点であり、また到着点である。

すなわち歴史的意義の把握は、直感的に歴史研究に先行し、実証的にその帰結となるのである。

(総合、おわり)


     (私註:上記の文は、後に続く方法論の本を見ると、かなりの影響が見られる。

          しかし、これまでのところ、それらの本を元にして交わされた議論で強調されたのは
         「歴史意識の現代性」であり、「歴史認識の主観性」である。

         「客観的な存在は不変」という部分は、軽視されがちである。)


以上、今井登志喜『歴史学研究法』理論編を紹介してきた。

今井著には、この後に、実例・実践編として
「方法的作業の一例・・・天文年間塩尻峠の合戦」という部分がある。

大学の入門者には、これも興味深いものではある。

しかし、現代の一般社会生活、他学の人々に、より必要かどうか、という問いからすれば、
一般社会からは、いささか縁遠いと思われる。

そこで、この書からは、とりあえず省くことにする。



終わりに

2023年6月、今井登志喜『歴史学研究法』ちくま学芸文庫版が刊行になった。

この本は20年近く市場から消えていた。2000年ごろ消えたのだ。出版を要請しても断られる。
2009年、ついに私は全文をネットに掲載した。その私には、感慨深いものがある。

私がこの本に出合ったのは、50年近く前である。
大学の歴史学基礎演習で使われた、指定テキストだった。

私は小学4年生の時に、昭和40年記念出版の、読売新聞縮刷版や写真集に出会った。
私はこれらの本で、戦前と戦後の、社会や人々の激変を知った。

そして大人たちの右往左往ぶりを見て、振り回されることのない、確固とした世界を持とうと思った。
それが、私が、自然科学が描く世界、「宇宙の中の地球」を、自分の認識の中心に据えたきっかけである。

「宇宙の中の地球」という認識について、人の認識に違いが出るとは、思えなかったのだ。

私は小学6年の時に、母から、戦前は、天皇陛下は現人神(あらひとがみ)だと教えていた、と聞いた。
そして私は、どの学校でも、天皇陛下は神様の子孫であらせられる、と教えていた、と知った。

それを知りつつ考えると、人の認識に違いが出ない「宇宙の中の地球」というイメージは、
私にはとても大事なことのように思えた。

そして大学1年の時に、山住正己『教科書』岩波新書を見た。

この本で私は、「天皇陛下は神様の子孫であらせられる」という教育の始めは、
1903年の国定教科書であると知った。それ以来、40年、その教育は続いたのである。

それを知るとますます、動かない事実としての「宇宙の中の地球」というイメージは、
大事なもののように思えてくる。

その私にとって、今井登志喜の説く「歴史学研究法」は、ぴったり収まるものだったのだ。


今井登志喜が最初の岩波版『歴史学研究法』を書いたのは、1935年(昭和10)である。
この年は2月、美濃部達吉の天皇機関説問題が起きていた。

そして今井登志喜の本が出たのは、5月である。
 写真:岩波講座版冊子・今井登志喜『歴史学研究法』1935年
   http://tikyuudaigaku.web.fc2.com/180615syasin.imai.kennkyuuhou.html

今井登志喜は、天皇機関説問題を横目に見ながら、
最終的な文章を、煮詰めていたのではないかと思われる。

今井登志喜の文章が読みにくいのは、厳しい言論統制という、
時代の制約も非常に大きかったと思われる。

「本当とは何か」なんて、まっすぐに考えては、生きていけない時代だった。

それでも今井登志喜は、その制約の中で真摯に考え続け、
「本当とは何か」を問う方法を、人々に伝えようと、努力したのである。

今井が慎重に除いた言葉がいくつかある。つまり「真贋」「贋作」「作為」「起源・発生」等である。
私はそう考えるので、私の思うように復活?させてみた。

この方が理解しやすいと思うのだが、皆さんはいかがだろうか。



  宇宙から地球を眺める。

  そして地球創成に始まって古代から現代へと、早回しで観察する。

  あるいは逆に、現代から古代へと、時間を逆回転させる。

  世界は、人間の認識に関わりなく、「ものの存在の仕方それ自体」で存在する。

  私たちは、長い時間軸をとって、整合性のある歴史像を考えなければならない。



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