太平洋の波寄する (道徳の言葉と異性選択)     20231013改版


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当時を振り返って、私はこの男子の行動を「威力接近」と呼ぶことを提案する。
そして教育関係者の認知を要請する。

成長した女子が、後に殺害される事件が後を絶たない。
参考事例の一つに含めて欲しい、という願いを込めて書いた。


 1、教室で私を襲う男子
 2、二度目の叩き合い 
 3、3度目・4度目の暴力
 4、まだまだ続くビートの接近
 5、悪質教師・ワルタ(悪多)の登場 
 6、ハッピーの混成家族
 7、悪質教師・ワルタ(悪多)がやった心理調査
 8、悪質教師・ワルタ(悪多)の「ビートと私をくっつける」教育
 9、悪質教師・ワルタ(悪多)の立派な教壇道徳
 10、悪質教師・ワルタ(悪多)のスピーチ評価
 11、悪質教師・ワルタ(悪多)の、父に対する誹謗中傷疑惑
 12、悪質教師・ワルタ(悪多)の、状況に対する不整合発言、母親の裏切り
 13、メイン家の祖母と早婚の母親
 14、危険再来の阻止を
 15、歴史クラブと古墳の被葬者のシソン?
 16、被害者と加害者の取り違え
 17、中学での異常接近
 18、最初の出会い・保育園の学芸会
 19、悪質教師・ワルタ(悪多)の好きな本 壺井栄『二十四の瞳』・宮沢賢治
 21、教育界の決まり文句は本当か?

  付録:父たちの沖縄脱出・証言:徳永道男氏の手紙


2023年の今年、私は68歳である。生まれは、黒潮打ち寄せる南四国。
そこが話の舞台である。

空はあくまでも青く、強い光に満ち、
海もあくまでも青く、大きな白波が打ち寄せ、

山の緑はあくまでも濃く、
冬もどっしりとその存在を構えていた。

川が海に注ぎ込む平地には、漁村と農村と商店街があった。
僻地ではあったが、当時はこのあたりに、銀行が三つもあった。

郵便局、農協・漁協を合わせて、医療を含むと、
ほとんどの日用は足りるようになっている土地だった。


私の経験から、何らかの教訓を見出すことができる人がいるならば、
この話は、きっとその人の役に立つだろう。


時は57年ほどさかのぼる。小学5年の時である。

  私は教室の中で、一人本を読んでいた。そこへ一人の男子が近づいてきた。
  そして「おい、話をしよう」と、気張って声をかけた。
  
  その男子は、女の私よりも小さくて、痩せていた。

  私が嫌な顔をしたら、その男子はいきなり背中をどつく。

  たたき返したら、全力で暴力を振るってきた。
  小さいのに、腕力は私より上だった。
  
  そしてその男子は、4回も「同じ」ことをした。

  全力で暴力を振るう男子に、
  力では負けるとわかった私は、嫌いまくった。
                            
  「ワルタ(悪多)」は40代の男性教師だった。その男子の家の、隣に住んでいた。

  ワルタ(悪多)は、5年の頃から再々教室を覗いていた。
  そして私が6年になると、クラス担任になった。

  ワルタ(悪多)は「男子は悪くない。男子を言い負かす私が悪い。」
  そう考えたらしい。

  「私の性格が悪い。だから矯正するべきだ」と、私の親を脅迫した。

  そして私を、男子とくっつけようと、机を並べさせて監視し、
  さらには「張り付け」、と、男子をそそのかしたのである。


1、教室で私を襲う男子


 1966年。四国南部の僻地である。1学年1クラス40数人だった。
小学校から中学校まで、9年間この人数構成という、小さな町の話である。

 私は小学校5年だった。そして私は、学級委員になったばかりだった。
その休み時間、教室には、ほとんど人がいなかった。

私は教室で、自分の机に向かって本を読んでいた。
はるか向こうで、女子が数人、話をしているようだった。

そこへ同級男子のビートが、一人で近づいてきた。
そして「おい、話をしよう」と声をかけてきた。

「おい」とは失礼な。それに横柄な口ぶりで「話をしよう」とは、何事か。

ビートはその頃、私より背が低くて痩せていて、小さい男に見えた。
その男が偉そうに、構えて声をかけてきた。面白くない。

彼の家は保育園の頃に引っ越してきた新参者だった。
間口の狭い、小さな金物屋だった。
通りすがりに見ると、なべ、金だらい、金びしゃく、金バケツ など、
金物がびっしり置いてあるのが見えた。

私の実家は明治期から、先代の隠居所と隣り合わせで二軒分ある、
間口の広いよろず屋だった。
これだけでも、ビートが偉そうに声をかけてきたのが、面白くなかった。   

それに私の頭の中では、親類縁者の勉学傾向のイメージが強烈だった。
市内の進学校に進んだ優秀な兄、師範出の伯母、教育委員長、
東北大名誉教授。

東北大名誉教授というのは、全く遠い人なのだが、私の頭の中には、
しっかり入っているのだった。

ビートが私と、一体、何の関係があるのか。

  *よろず屋というのは、今なら、ホームセンターとドラッグストア
   を合わせたような品揃えの店である。

   炭・練炭、文具、箸や皿、鍋・釜・しゃもじ・お玉などの台所用具、
   縄やロープ、釘、針金、のこぎり・かんな、かなづち、山や材木用の定規、
   肌着、作業着、帽子、傘、調味料、食用油、種子、豆、
   裁縫道具、糸、生地、ゴム、弁当箱、水筒、クワや鎌、おけ、バケツ、
   タオル、石鹸、チリ紙、ほうき、ちり取り、洗濯板、など。

無視していると「おい、こっち向け」と言う。
何て不愉快な男だろう。ますます気分が悪い。

さらに無視していると「おい、こっち向け」と言いながら腕に手をかける。
振り払うと「こいつ」と言って私の背中を強打する。

それがきっかけで猛烈な叩き合いになった。

相手が小さいし、男に叩かれるなんて、経験したことがない。
だから叩き返せば、相手が引っ込むだろうと思った。

しかし私がたたき返すと、ビートはさらに力を強めて強打する。
負けるものかと叩き返すと、さらに力を強めて強打する。

これが繰り返された。私は、相手が全く引く気配がないのを察した。

そして、これは危険だと感じた。腕力は向こうが上なのだ。
危険を感じた私が、ギャーっと泣き出した。

はるか向こうの数人の女子が、振り返って見ているのが分かった。
彼女たちが人を呼んだらしい。

4年時担任だった女先生がやってきて、割って入った。
「何やってるの?」

私の学級委員としてのメンツは、丸つぶれであった。
なぜ自分がこんな恥をかかなければならないのか。


私はこの一件のいきさつを、誰にも話さなかった。
どう言えばいいのか、考えても表現できなかったのだ。

  ビートが寄ってきた。
  私がそれを嫌だと思っていたら、ビートが叩いた。
  それで私が叩き返したら、ビートがますます強烈に叩いてきた。
  それで私は泣き出した。

「ビートが寄ってきた」なんて、口に出せない恥ずかしさである。
ちっとも良くない男子が寄ってきた。屈辱的だった。

「私はそれを嫌だと思った。」
しかし、そう言っていいものだろうか。

「この子、嫌」なんて、人に対して、
説明のために、口にしていいのだろうか?

なぜ嫌なのかを、人に対して説明していいものだろうか?
嫌と思う理由に、正当な理由など、あるのだろうか?

学校では、人を差別してはいけないと言うし、
人を嫌がるなんてことは、してはいけないし、
「正しく親しんで」過ごさなければならない、のではあるまいか?

「それで私が叩き返した」なんて、またよろしくない感じがする。
「ビートがますます強烈に叩いてきた。」あり得ない。

「それで私は泣き出した。」なんというみっともなさか。
どう言えばいいのだろう。

と言う訳で、私は、誰にも何も、話せなかったのである。


  *この展開を何と表現したらいいのか?

   ここでこのような疑問が生じることは、寄って来られた子にとって、
   良くないことである。

   男子が、女子の感情を無視して、
   暴力や威圧などで、接近状態を固定化しようとする。

   これを「威力接近」と呼んだらどうだろうか。

    嫌な子が寄って来る、と言えば、大人は何と反応したのだろうか?
   「嫌な子」だなんて、言ってはいけない、と言うかもしれない。

   それが「男」だと知ったら、これはいけない、と、
   警戒範疇に入れたかもしれない。

   しかし小さくて弱々しく見えると知ったら、なあんだ、と、
   相手にしなければ、さして問題にもなるまい、と思ったかもしれない。 

   しかし私は今思う。
   あの時点でさえ、男の方が、確実に腕力は上だった、と。

   泣かずに腕力で競った?ならば、私は確実に怪我をさせられただろう。

   今思い出しても、あの展開はすごかったなあ、と思う。
   何の関係もない私を、際限なく!叩きのめす動力が、すごかった。

   感情もなく、周囲認識もない。そういう感じなのだ。


2、二度目の叩き合い

背中に食い込んだビートの細い手の感触、経験したことのない感触を、
気味悪く思い出しながら、私は考えた。

ビートとのかかわりは、最近は全くなかった。今回の件は、全く理解できない。

男と女が叩き合うなんて、全く聞いたことがない。
こんなおかしな事になったのだから、もう寄っては来ないのではないか。

学校生活の中では一瞬のことだ。
やり過ごせば、また何事もなくやっていけるのではないか。

私は心配する級友に、笑ってごまかすしかなかった。

しかし他から見たら、私がビートに、いじめや攻撃など、
何かしたのをごまかしている、そう見えたのかもしれない。


事は全く理解できないが、最初の叩き合いは、向こうが先に手を出した。それで、
こちらに分があると思っていた。少なくとも、最初はそういう認識だった。

ところが、同じことがまた起きた。人がほとんどいなくなった教室で、
またビートが「おい、話をしよう」と、声をかけてきたのだ。

肩をゆすり、本を取り上げて、私に相手をさせようとするビート。
「何するの」と、やめさせようと彼の腕をたたく私。

後は、展開はほとんど同じである。しかし二度目の叩き合いは、
結果的にだが、本を取り上げる、というしつこさに我慢しかねた私の方が、
先に手を出した。

とは言っても、彼にとっては、私が叩き払った、くらいのものだっただろう。

しかし今回も、叩き合いはエスカレートした。
ビートに、途中で手を引く、などという気配はなかった。
私がギャーっと泣き出した。

担任の男の先生が飛んできたが、泣く私を前に、ビートはこう言うのである。

「僕は何もしていない。」

私はあっけに取られた。じゃあ私が悪いのか?

そしてここで、私も困った。 ビートは私に何かした。

しかし、ビートが私の肩に手をかけ揺すった、本を取り上げようとした、
というのが、「何かした」という範囲に入るのかどうか迷ったわけである。

  頭の中で「やったのが女子なら、どうってことない範囲だ」
  という考えがチラリと浮かんだ。

  相手が女子なら、私も強い拒絶反応は、しないだろう。
  なぜ私は、ビートなら我慢ならないのか。我慢ならない私のほうが、悪いのか。

  相手が女子なら、叩き合いがエスカレートするようなことも、
  全く考えられない。

私は、ビートが「僕は何もしていない」と主張すると、「何かした」とは、

例えば「ビートが最初に暴力を振るった」 とか、「暴言を吐いた」とか、
「明確な攻撃」でなければ、

「何かした」ことにならない、と感じたのである。

「ビートは最初に暴力を振るった」か?「暴言を吐いた」か?
「明確な攻撃」をしたか?そうではない。

そうすると、私の頭の中で、「何かした」の意味が、
最初にどちらが暴力的?な行為をしたか、ということへ、
とスライドして しまった。

私は、ビートが、こちらの拒絶もかまわずしつこく接近しようとすることを、
「何かしたこと」として表現できなかった。

私の頭の中では、子供の世界でのそのような状況を、
表現した例が、見つからなかった。

そして学校では、そのような事例を、全く認めなかった。
みんな仲良くしましょう、という標語しかなかった。

みんな平等で、みんな仲良くしなければならない。

それなら、近寄って来る人を拒否するのは、差別であるとか、
悪い行為であるとか、そういう風にとられることになる。

この小学校教育の道徳観念に、男女の関係を考える機会はない。
学校を支配する表の理屈だけで考えると、そういうことしか、出てこない。

小学校5年では、男女関係を律する概念はなく、
普通はそれでも大きな問題は起きない、とされているみたいだ。

今の小学校では、当然、人の顔形を言ってはいけない、
門地のことを言ってはいけない、貧富を言ってはいけない、と言う。

変だと思ってもむやみと出してはいけないと言う。
仲良くしようと言っているのに、それを拒否するのは、いじめである、とも言う。

私は、ビートが男なのに、自分が男で、私が女である、と言うことに対する、
周囲への配慮が全くない、という気がした。
そしてそれを何と考えたらいいのか、戸惑った。

私の考えでは、男と女を意識したら、距離をとって様子を探っているような状態
が普通であるように思う。

嫌な顔をされたら、それ以上接近しないで気にしているだけ、というのが普通だと思う。

しかしビートは、私が嫌な顔をしたら、無理やりにでも、
とにかく自分の相手をさせようとする。
相手が必死で抵抗したら、死に物狂いで叩きのめす。

これは子供の関係だろうか?それとも男と女の関係だろうか?

ある意味では、男は女を暴力的に組み伏せるものだ、という考えの表れかもしれない。
しかしそれは、私が思う、常識的で温和な男女関係の観念とは、かけ離れている。

では、ビートの行為は、心と感情と思考のない、
子供が暴力を振るっている感じ、と言えばいいのだろうか?

男と意識しているようなら、男がしつこく寄ってくると言えるのだが、
私を女だと思っている感じがないというのは、どう拒否したらいいのだろう。

おまけにその頃の体格は、私の方が大きく、ビートは脆弱そうに見えた。
しかし腕力はビートの方が上だった。
 
こういうわけで、男だか女だかはっきりしない小学5年では、
ビートがしたことを、何と言ったらいいのか、いよいよわからなかった。


3、3度目・4度目の暴力

3度目は教室に全員がそろっていて、
思い思いに立ったり座ったりしている中でのことだった。

ビートはまたしても「おい、話をしよう」と言って寄ってきた。

経過は同じことの繰り返しだった。私が嫌な顔をする。
するとビートが私の背中を激しくたたく。

そして激しい叩きあいの末に、私がギャーっと泣き出す。
先生にはやっぱり「僕は何もしていない」と言っていた。

5年担任の男性教諭は、私には何も言わなかった。
多分、注意したのはビートの方なのだろう。

私が学級委員だから私を信用したとかいうことではなくて、
近づいたのはどちらかと聞けば、ビートである。

だから、私が原因を作ったとは思えなかった、ということなんだろうと思う。

4度目も、ほぼ全員がそろっている教室内でのことだった。
ビートがまたしても「おい、話をしよう」と言って寄ってきた。

私が嫌な顔をする。するとビートが私の背中を激しくたたく。

例によって叩き合いに発展した所、今度は他の男子が止めに入り、
数人の男子が、後ろからビートをかかえて連れ去った。

    ほっとしたのはいいが、後ろの席から、
    「あんた、何したの?」

    と、強い口調で問う女子がいたので、不審な感じがした。

    ビートの家の隣には、後に6年担任になるワルタ(悪多)教諭が住んでいた。
    その周辺には何人かクラスメートも住んでいた。

    「あんた、何したの?」と咎めるような強い口調で聞いたその女子も、
    ビートとワルタ(悪多)教諭の近所で、そして、学校の先生の子どもだった。

    後ろにいたなら、見て知っているだろう。

    ビートが「おい、話をしよう」と言ったので、私が嫌な顔をした。それだけだ。
    するとビートはとたんに、ドシッと、私の背中を強打したのだった。

    今思うに、この時すでに、私の方が、ビートにたたかれる原因を作っている、
    と、見なされていたように思う。

ともかく、かくして4度目は、先生には未達だったと思う。

いや、今考えると、男子たちの行動から見て、
先生が男子たちに見張らせていたのかもしれない。
そして、男子たちから報告が行ったのかもしれない。

ビートの父親が、私の父親に謝罪に来たらしかった。
そこで初めて、私の親たちは、学校で起きていた事を知ったようだ。

伯母も母親からそれを聞いて、
「それでハッピーちゃんは学校へ行けてるの?ええっ?」とびっくりしていた。

それからは、ビートの暴力は止んだ。

  *ここでビートの「暴力」は止まったのである。

ともあれ「途中で手を引くことがない」というのは、
男子が女子に手を出したトラブルでは、私の経験では全くの異例だった。

大抵、1回か2回で男子がやめた。手を出した男子は、まずい、という顔をしていた。

しかしビートの場合、やめるという気配がなかった。
しかも、連続で起きたのである。突然、前触れもなく。

その頃の私にとっては、全く歯牙にもかけないような相手だったので、
こうもしつこいなんて、予想もしないでいる間に、それは立て続けに発生したのだった。



4、まだまだ続くビートの接近


それにしても、「おい、話をしよう、こっち向け」と言ってるからには、
私に自分の相手をさせようとしているのは間違いない。

私にとっては屈辱的な話だった。

すてきな王子様が現れて、結婚して幸せになる。
女の子の世界入門編とも言うべきおとぎ話では、話はそうなのである。

それが、全然イメージに合わない男が割り込んできて、
引き下がることがない。

私が小5の時、兄は遠く離れた進学高校に進んでいて、
京大の理学部を目指していた。

母親から聞く身内も、勉強ができたので学校の先生になった、
という話が多かった。それで私も、学校系の知的作業に興味があった。

東北大・京大は戦前の旧帝大、伯父伯母の行った戦前の難関である師範学校、
校長に教育長に学校の先生、と母親の話が並ぶと、
その方面がかっこいいと思うのは当然である。

ビートは、小さな金物屋の次男だった。
私がかっこいいと思う方面と、全く関係ない。
私には、貧乏そうな金物屋なんか、ろくなこと、なさそうに思えた。

何を考えているのかわからない弱小と見えた存在が、実は自分より腕力が上で、
その思いがけない腕力で、全力で自分に向かって来る。

それ以後もしつこく寄ってくる。何とか話をしようと、話しかけてくるわけだ。
気持ちが悪いと言いたかったが、人のことを「気持ちが悪い」と言うのは、
私の受けた教育ではご法度だった。

私にとってはとんでもなくお呼びでない男だった。

私は勉強大好き、本大好き、高等なことが好き、正義が好き、というタイプだった。

ビートは、私の気持ちも察することなく手を出し、反撃という反応を呼び起こさせて、
優等生から引き摺り下ろそうとする、邪魔な人間に見えた。

顔かたちを言ってはいけない、門地を言ってはいけない、
貧富を言ってはいけない、気持ちが悪いと言ってもいけないなら、
知識や勉強の差はどうか。

知識や勉強の差なら、努力でどうにかなる部分もある。
私はこれなら言っても大丈夫だろうと判断した。

   *<知識や勉強の差なら、努力でどうにかなる部分もある。>

    これは相手に、「男女一対」としての可能性を残す考え方である。
    私が受けた平等教育では、相手を断ち切るのは悪いこと、だった。

    それでこのような考え方になったのだ。

    しかし今思うに、ビートには、お金持ちで優しくて、穏やかで上品で、
    賢い人がいい、と言っておけば良かったのではあるまいか。

    ここが私の失敗だった。実際、私は異性に、そんなものを求めていた
    わけではなかった。

    しかし、男子を切り離すためには、
    このような言葉も、知っておく必要がある。


私はとにかく徹底的に知識や勉強の差を言い立てた。
それでもビートは一向にやめない。

ビートは、ある時は友達に引っ張られながら、
「僕はあの子と話をしなければならないんだ」と言っていた。

攻撃しても攻撃しても、まるで棒を飲んだようにふらふら寄ってくる。

こうした状況が1年近く続き、私も半狂乱に近くなってきた。
どうしてこんな男と仲良くしなければならないのだ。

 私は大人の関係を考えた。大人の男女関係で、
女が嫌な男を振ってはいけないなんて、聞いたことがない。
徹底的に振るべきだと考えた。しかし、全く効果がないのだ。

 悪さをする子だという印象のある男子は他にいたのだが、
そういう男子だって、私にしつこく話しかけてはイライラさせるようなことはない。
彼ただ一人が、私の認識の中でくっきり際立っていた。

ある時ビートは、つかつかと寄ってきて、
真面目な冷静な顔つきで、さとすように言った。

  「人は仲良くしなければならないんだよ」

相手が真面目な顔をしてそう言うと、私は身震いするくらいにぞっとする。
<虫酸(むしず)が走る>とはこのことだ。

首を横に振る私を見て、ビートは
  「そうか、あんたはそう思うのか」
と、私を見下げたようなそぶりで立ち去った。

後ろで数人の男子が失笑しているのが見えた。

そしてそれから、ある男子セイギが近寄って来て、気色ばんだ複雑な顔をして言った。
  「あんたは、人は仲良くしなければならない、とは、思わないんだね。」

私は”そうよ”とばかりに、うなずいた。

しかし、この場面を思い出して改めて考えてみる。

最初の立て続けの一方的な暴力場面を抜いて、この私の言葉だけを取り上げたとしよう。

そうすれば私の態度は、<許しがたい学校生活「違反」>の明言、
のように聞こえたかもしれない。

(この”セイギ”というのは、後にわかるが、ワルタ(悪多)の覚え目出度き男だった。
 そういうことを、今、思い出す。)

私は、誰かがビートの後ろで、入れ知恵しているような感じがした。

しかし入れ知恵している大人は、
子供同士の他愛ない関係についてのアドバイスをしたつもり。

ところがそれをビートが私に言うと、男と女の関係の強要のような具合になる。
そのことには全く気がついていない、という気がした。

そしてまたビートも、大人たちが考えたような、子供同士の関係のふりをする。
そして私に、自分と仲良くするのが正しい行動だと、迫るような感じがするのだ。

それにしても、近寄って相手の女子を強打するという、
ぶん殴り行為を繰り返しておきながら、よくこのようなセリフが吐けるものだ。

「人は仲良くするものだ」、と、入れ知恵する者がいたとしても、

普通なら、自分の行動を振り返って、こういうセリフを、
わざわざ言いに来るようなことはない、ような気がする。

しかしビートの、「自分は何も悪くない」というのは、確信のようだった。
私はビートに、何かおかしいものを感じた。

女子と「仲良くしよう」と、男子が強接近することに、
何も悪いことはないと、相手は思っているわけである。

そもそも、そこが理解できない。他の男子はそんなこと言わない。

いくら何だって、ちょっと考えただけでも、もっと見目形のいい男性はいる。
お金持ちの男性はいる。頭の良さそうな男性、人柄の良さそうな男性はいる。

なぜ私が特に、ビートの相手をしなければならないのか。
私がビートと仲良くしていたら、もっといい男性が、私からは逃げてしまう。

私は焦りと不安で一杯だった。

ビートが話しかけただけで私は猛反撃した。凄まじい攻撃を、
度を超すくらいに繰り返した。

私は、激しく情緒不安定になった。おかげで周りに、とばっちりが飛んだ。

5年も最後の頃だと思う。そのとき私が何を言ったのか全く覚えていないが、
ビートが「おまえがそんなことを言うなら、僕はもう死ぬ、僕はもう死ぬ」
と言った。

私はそれを聞いて、さすがにひるんだ。

しかしその言葉に、何だか卑怯な感じを覚えた。
相手に死ぬと言われて、じゃあ仲良くしましょう、というのが大人の男女の関係だろうか?

 私は次の瞬間、意を決して「死ね。あんたなんか死んでしまえ」と叫んだ。

 ビートはよろよろっとして、側にいた友達にもたれかかった。

 こういうのは「売り言葉に買い言葉」の類だと思うのだ。
相手が「死ぬ」という表現を口にしなければ、こちらから「死ね」なんて言葉は、思いつかない。

(児童の自殺のニュースが耳に入る。
これでもしビートが自殺を図ったら、私が悪いことになるのだろうか?)




5、悪質教師・ワルタ(悪多)の登場


事件の顛末の第一段はこうだが、話はまだ続く。

 6年になって担任になったのは、ワルタ(悪多)だった。ビートの隣の家に住んでいた。
ワルタ(悪多)も、数年前にやってきた新参者だった。

ワルタは家庭訪問にやってきて、私の母にこう言った。

   「性格が悪いですね。」

  「性格の悪い者は、社会に出たら生きていけません。
   私は、明るくて素直で円満で可愛らしくて、誰にでも優しい子がいい。」

   「お気の毒ですが、娘さんは誰にも好かれていません。これは大変なことです。」

   「人に好かれる人間になる。これは大事なことです。 」

   「人間が社会で生きるのに大事なのは性格です。

   性格の悪い人間は、社会では生きていけない。
   大事なことは勉強より性格です。」

   「自己中心的でわがままに育っている。
   勉強のことばかり言ってるでしょう。」
          (しかし実際の所、私の親は、勉強なんて、全く言ったことがなかった)

   「女は勉強なんかしても、何の役にもたちません。」

   「偉そうな女のどこがいいんですか?
   女は大きくなったら、男の言うことを聞かなければならないのです。」

   「メインさん、私はあなたのような人が好きです。愛嬌があって可愛らしくて。
   メインさん、幸せにならなければいけませんよ。」

   「ハッピーには勉強よりも、家の中のことに気を配るようにさせ、
   厳しくして、わがままを増長させないようにしてください。」

   「出る杭は打たれると言うが本当です。
    鉄は熱い内に打てという。」

   「私は勉強よりも性格を重視します。」

 この地のこの頃の家庭訪問は、母親一人が対面することになっていた。

 初夏、南国の古い田舎家は、空間が閉じているということがない。
おかげで、話が全部聞こえた。あるいは、聞かせようという意図があったかもしれない。

 ワルタは、私の性格が悪いと断言したことについて、その具体的な理由を全く説明しなかった。

 また、学校教育の一環として行われる家庭訪問で、
男女平等に違反する内容のことを告げたことは、確信的な法律違反だと思う。反教育である。

 また、母親ひとりを相手に

  「私はあなたのような人が好きです。愛嬌があって可愛らしくて。
   幸せにならなければいけませんよ。」

 なんて、何て余計なことを言うのだろう。
親切そうでいて、女を迷わせる、心にもない無責任発言である。 

  しかし、その話の、どこに問題があるのか、母も私もわからなかった。
  また私が、ここがおかしいようだ、と思うようになるのに、何十年もかかった。

 そして、私がこの話を決して忘れないようになるまで、

 このワルタの家庭訪問の時の話は、私と両親の間の確執の種として、
繰り返し登場するのである。

だから、ワルタは、私だけではなく、家族の命運も、決した人物なのである。

家庭訪問でのワルタの話の背景について。

  1 上記ビートとの5年の時のからみ。
  2 ワルタはビートの隣に住んでいた。
  3  ワルタは「朋輩会」という、大人の男ばかりの集まりでの、
     近所同志の仲良しぶりを強調していた。

       (これによって、私は大人の男たちに脅迫されたような感じを持った。
        ワルタも、暗にその効果をねらったのではないかと思う)

  4 繰り返された6年担任の「心理調査」

これらを関連づけて、
私は「イジメの張本人」だと言われていたのだな、と、理解したのは、
20年以上も後の、私が30代も後半のことだ。

その頃、体が大きくて、学級委員で、知識をやたらと仕込んで成績がいい私が、
細くて小さく、体も気も弱そうな?ビートを、死に物狂いで口頭攻撃していた。

しかし私にとって、問答無用で、機械のように無表情で暴力をふるう男の記憶は、
小さくても、将来的に恐ろしかった。

徹底的に追い払う。その他に、どういう方法があったのだろう。

5年担任は、私が怒り狂ってビートを威嚇するのを、見ていたこともあった。
自分が怒られるのかとギクッとして様子を伺うと、先生は言った。
「ビート、やめなさい」

それから私を見やって、苦笑するように言った。
「雌猫がシャーシャー言ってるみたい。」と、こんな感じの言葉を口にした。

「雌猫」という言葉に、何かしらいかがわしい微妙な感じを嗅ぎ取って、
これは何かと、しばらく先生の顔を見て戸惑ったが、私にはわからなかった。

後で思った。わかっているのなら、ビートを遠ざけるために、
何かしてくれれば良かったのに。私が無様な様子をさらさずに済むような、何かを。

  *あの先生も、後にそれほどの大問題になるなんて、想像もしなかったのだろう。

その状況は、5年時の先生の学級運営としては、腕を疑われるものだったのかもしれない。

実際、クラスはとても荒れていた。ビートと私が再々衝突していた事の他に、
男子による女子のスカートめくりなどという、変な行動が流行していた。

私は狙われなかったが、特定の女子に対してのもので、先生が制止し、
私が学級委員として「やめなさいよ」なんて言ったって、全く相手にされなかった。

やがては先生の制止の効果が効いたのか、いつか止んだが、
かなりおかしな状況が続いたこともあった。

ざわざわと、今なら学級崩壊かと思われるような状況の中で、
私は「静かにしてください」なんて、どっちが騒いでいるのかわからないくらい、
教室の中で怒鳴っていなければならなかった。

この妙な状況は、5年担任の学級運営能力のせいにされていた可能性もある。
だからワルタは、5年時の担任には、何も聞かなかったのだろうか。

しかし、わざと担任の運営力のなさを際立たせるために、
誰かが仕組んだのかもしれないではないか。

なぜなら、この混乱クラスのことで、相互に連絡があった気配はない。
ワルタは再々、教室を覗きに来ていたにもかかわらず。

 (今考えると、この騒がしいクラスの様子もおかしい感じがする。
  生徒の間に、女子を馬鹿にする雰囲気が蔓延していた。

  ワルタは再々、5年の教室を覗いていた。しかし同僚として、
  教室の大荒れに対処するための相談など、した気配がない。

  その背後に、教員同士の対立も、ありはしなかったか、と思う。
  そう思うほど、ワルタは男子優遇に切り替えたのだった。

  そして女はダメだ、心が狭い、男を大事にしなくては、と言っているようでもあった。
  しかしこの場合、私だけが叩き潰されたと思う。)

ワルタは、しばしば、5年の教室に顔を出していた。以下は5年時のことである。

将来何になりたいか、という質問に対する、クラス全員の答えが張り出されたことがあった。

私は、博士か大臣か、くらいにとぼけた答えにしておけば良かったものを、

博士や大臣では偉すぎると思い、私立中学校の校長先生、と、
微妙に世間知の混じった答えを書いていた。

他の女の先生たちが見に来て、一体何になるんだろう、と言っているのを聞いた。

しかしワルタが来て、私の答えを見やりながら言ったのは、
   「フン。私よりも偉くなるつもりか」
という言葉だった。

教師より偉くなるような想像を表に出すと、
教師の不興を買って、目の敵にされる可能性がある。

私はこの時、それを初めて知った。余計なことを言ってはいけない。

しかしそれは、私の場合、頻繁に失敗した。
こうしてワルタは、5年の頃から、全面的に私を攻撃しようと、狙っていたのだ、と思う。



6、ハッピーの混成家族                        


私には3組の祖父母がいた。
父方の祖父母と、母方の祖父母と、実家の祖父母である。

よろず屋をやっていた私の実家を、仮にメイン家としておこう。
このメイン家の祖父母には子供がなかった。
それで、お互いの甥と姪を結婚させ、養子にしたのである。

私の父親は、メイン家の祖父にとっては、妹の子供である。
私の母親は、メイン家の祖母にとっては、弟の子供である。

メイン家の祖父の妹は、男女3人の子供をメイン家に預け、
北海道に生活の拠点を求めた。下の男二人は北海道で生まれた。

つまり私の実家の祖母ヒサは、
義理の妹の、上の3人の子どもたちを、育て世話した人なのである。

私の父親は、弟と共に北海道生まれである。
父親が生まれた所は、オホーツク海に面した極寒の地である。

50メートル向こうに、長女である姉が、夫と暮らす家があった。
数百メートル向こうに別の家が見える。
他は全く、人家のない所である。

学校は4キロ離れていた。どう考えても、極寒の地で通うには困難そうだった。
それで私は、どうやって勉強したのかと聞いた。

すると父親は答えた。

長女の姉が、南国の郷里の女学校を卒業してから北海道にやってきた。
そして姉に勉強を教えてもらった、と。

父親はこの家から、10代で海軍志願兵となって出征した。

駆逐艦「夕立」の乗組員から、海軍高等水雷学校を経て、
3人乗りの特殊潜航艇の乗組員となった。

最終地は沖縄だった。終戦間際、米軍が隙間なく停泊する港から、
本土決戦を唱えて、修理したボロ船で脱出を図った。

特殊潜航艇関係者7人と陸軍兵、合わせて20人ほどで、
台風の近づく波高い夜に漕ぎ出し、米軍の間を抜けるのに成功。

哨戒機に発見されて機銃掃射を受け、
漂流中に終戦を超えて、米潜水艦に収容された。



メイン家の祖母ヒサの弟は、港町に住んでいた。
終戦1年の1946年12月21日、昭和南海大地震が発生。

港のⅤ字形の湾は、津波の波高をいや増し、母方の祖父を飲み、
住んでいた家をも飲み込んだ。

母親が育った家は、9人も子供がいた家庭だった。
それなのに、この津波で大黒柱を失ったのだった。

子供がなかったメイン家の祖父母は、生還した私の父親と、
父を失った私の母親を結婚させ、養子とした。

悪い話は聞かせない。昔の見合い結婚はそんなもの。

父親には、北海道の富裕家との縁談もあったのだそうだ。
終戦直後は男がいなかったから、と言う。

しかし父親は、その縁談は遠慮して、この地にやってきた、のだそうだ。
異常な環境変化である。

父親の父母は、変化を求めて、この南国から、決死で北海道に移住した。
それなのに父親は、問題のその地に戻ってきたのだ。

何があったのかなんて、聞かされてはいなかった。今もわからない。


私の母親は、戦争・敗戦・津波という相次ぐ困難で、
勉強など、する余裕は全くなかった。

長引く日中戦争の中で物資不足が強まった。

昭和15年、母親10歳の時に配給制度が始まり、
昭和16年、母親11歳の時には、真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まった。

戦争中、物資の不足はますますひどくなり、全土空襲、原爆投下と続いた。
戦後は兵士の帰還や海外からの帰還者で人があふれ、飢餓の傾向が強まった。

そこへ、1946年の南海大地震が発生し、父親を失ったのだ。

勉強どころではない。女学校は途中で辞めざるを得なかった。そして結婚は若すぎた。

父親は、女学校へ行った、という触れ込みで母親をもらったらしい。
それなのに、と、その中身にがっかりしたらしかった。

父親にとって女学校は、勉強を教えてくれた、
上の姉のイメージだったろう。

上等な経歴で、頼りになると思っていただろう。
しかしそうではなかったのである。


そして母親は私によく言った。

父親の下のお姉さんは、メイン家で勉強して女子師範に入った。

こちらで結婚して先生をしていたが、
楚々とした上品な先生で、安心だと思った。

しかし、私の父親は粗暴な男だった。がっかりした、と。


両親がこんな具合だから、ハッピーの家の中は、波が立ち易かった。

そこへ、悪質教師・ワルタが、ハッピーは性格が悪い、
社会に出たら生きていけない、私はセツコ(母親)が好き、
と吹き込んだのである。

何の知識も仕入れることが出来ていなかった母親、
凄惨な津波の光景を目に焼き付けた母親、
そして波高い生活の中にいた母親には、

ワルタの好意?は、砂漠で水を見つけたようなもの
だったのではないだろうか。

その言葉も、天の声に聞こえたのではあるまいか。
何十年も後でも、ワルタを、いい先生、と言っていた。


7、悪質教師・ワルタがやった心理調査


6年になった時、私はビートを追い払って、ホッとしていた。
安堵が顔に出ていたと思う。

それを見て、ワルタは悪だくみを図った。
あれこれとアンケートや心理調査を実施した。
その目的は、私の「性格の悪さ」をあぶりだすことだった。

 (本当はどうなのか、それはわからない。ただ、経過を振り返れば、
 そんなところではなかったか、という話である。)

今はハッピーは、表面的には平穏な顔をしている。
しかし自分は、ハッピーが5年時に激しい形相でビートを攻撃していたのを知っている。

調査を駆使すれば、必ずハッピーの心の中の「悪の性質」は、
あぶり出すことができるはずだ。(あくまでも私の想像である)

いろいろやったけれど、私が覚えているものに、以下のようなものがある。

  1最近のクラスの出来事で反省するべきことがあったら書け。
   2尊敬する人物は誰か。
   3 好きな人、嫌いな人を書け。

1、最近のクラスの出来事で反省するべきこと?
私は、ないわね、と思った。それで「なし」と書いた。

ワルタは私の答えを見て、わなわなと震えたのではないだろうか?
 (もちろん、想像である。)

  人に「死ね」なんて言っておいて、
  反省しない、なんてことがあるだろうか?

  ビートは「生きる力がなくなってしまう」と言って苦しんでいた。
  そのビートを思い出すと、ワルタは、弱い男だ、と、
  可哀想でたまらなかった。

        *私はこの「生きる力」という言葉を、ワルタの口から、初めて明確に、
         世間通用の言葉として、聞いたような気がするのだ。

         だからワルタの言葉の最初は何かと考えて、このように、
         ビートが発した言葉ではないか、と、想像して書くのである。

         その言葉が地の果ての田舎から上昇して来て、今や教育目標として、
         教育関係者がいじりまわすようになっている、と感じる。

         誰が最初にこの言葉を教育目標にしたのだろうか。

         他のところで子供自身が、「生きる力」がない、という言葉を使ったのだろうか。
         それとも教育関係者が子どもたちに聞いて浮かんできたのだろうか。

         その「生きる力」という言葉は、誰とでも仲良くする人間性の涵養と、
         くっついているようなのだ。 
       

  ハッピーは子供の顔をしているけれど、
  悪魔のような性格をしているではないか。

  ここでワルタがハッピーの性格について確認したのは、
  「人の心の痛みがわからない、自省力がない、思いやりも何もない」、
  という点だった。

  学校では、表はいい子のふりをしているので、誰もわからないみたいだ。
  家でも何もわからないらしい。

  しかし私は知っている。裏ではビートを激しくいじめるような、
  悪事を働く、裏表のある人間、影で何をしているかわからない、
  危険な子供。

  これは見過ごせない欠陥人間だ。もっと徹底的に調べてやろう。
  
次は、「2、尊敬する人物は誰か」という質問をしてみた。

私は「いない」と書いた。なぜか。

私は小学4年の時に、父親が買った昭和40年記念『読売新聞縮刷版』と、
『読売新聞報道写真集』という大型の本を見た。

装丁の立派な分厚い大きな本で、シャラシャラと鳴る薄紙で覆われた
その本は、とても謎めいていた。

今考えると、4年生の女の子が見てもいい本か、と思われるほど、
生(なま)の戦争の写真が踊っていた。

誰も何も言わないので、私はその不思議な本を、しげしげと見ていた。

そして、戦争を止められる人がいなかったのは、痛恨の極みだと思っていた。

戦地の兵士の餓死の写真、万歳と叫びながら崖から飛び降りる人の写真、
大空襲、原爆投下と、焼けただれた人々の写真。

私はこれで、戦争って、本当だったんだ、とつくづく実感した。

そして、いろいろな偉人の話を読むけれど、戦争で大勢の人が殺されるのを、
止めることができた人って、いないよね、と思っていた。

何の偉業を成し遂げても、人類が死に絶えたら、何の意味もない。
長い人間の歴史で、戦争を止めることができた人って、聞いたことがない。

だから直近の大戦争で、地球破壊も可能な兵器が、出来てきたのだろう。

戦争を止められた人がいない。こんな残虐なことが起きたのに、
それを止める方法を、確実に作り上げた人はいない。

私はだから、尊敬する人物はいない、と答えたのだった。

   「人類が死に絶えたら、何の意味もない。」というのは、
   ひょっとしたら、かなり変わった設定だったかもしれない。

   今考えると、これには特に理由がある。
   私はこの頃、そういう仮定のSF小説を読んでいたのだ。

   小5の終わりに兄が一冊の本を置いて行った。新品の文庫本だった。

   小さな本は大人向けに見えた。本を開くと、ぎっしりと文字ばかりで
   絵がなかった。目いっぱい背伸びする感じだった。

   それで読んでみたら、始めの方で核戦争が始まる話だった。
   地下シェルターに逃げた少数の人々だけが、生き延びたのである。

   それは核戦争勃発を描くことによって、
   現代に警鐘を鳴らしているようだった。

   私は無意識の内に、この本の警鐘を、自分の中に取り込んでしまっていた
   らしい。後に兄に聞いたら、兄はその本について、全く覚えがありません、
   と言っていた。

   その答えには拍子抜けしたが、確かにピカピカで、
   広げた気配もなかったようだった。


それに小6とは言え、人間とは多面的なもので、一筋縄ではいかない、
という認識は、すでにあったと思う。

  (これは多分、偉人・野口英世が、郷里の人からの借金を踏み倒したような形
  で死んでしまったことについて、暴露話が伝わってきたせいである。)

誰か人物を挙げると、その人の、偉人にふさわしくない側面まで拾ってしまう。
だから私は、人物を問われるのには、戸惑った。

キュリー夫人が思い浮かんだが、第一次世界大戦でレントゲンを抱えて働いた、
という話を知っていた。それは、キュリー夫人の活躍、という紹介だった。

しかし私は、なんだ、それだけか、他に何かできることはないのか、と、
戦争そのものの否定意識から捉えた。それで即、却下したのだった。

私には、ラジウムの発見の方がよっぽど偉大だった。
レントゲンの話には引っかかった。私の特異な視点による、主観ではある。

  (私は、レントゲンの操作は技術者の仕事だと思っていた。それで、学者が直接
  現場に出かけて操作することが学者の活躍になるとは、思えなかったのだ。

  はて、当時は、技術者もいなくて、学者が操作するしかなかったのだろうか?)

 しかしワルタは、尊敬する人物がいない、という私の答えに対し、
 全く違う判断をしたらしかった。

 人は自分の目標として、身近な、あるいは優れた人物の模倣をして、
 育つものだ。

 尊敬する人物。お父さん、お母さん。この回答は実に素晴らしい。

 しかしハッピーは、自分のことを世界で一番すばらしいと思っているような、
 傲慢な人間だ。それは優れた人物を知らない、視野が狭い、ということだ。
 つまり井の中の蛙である。

 将来的に何になろうというのかわからない、目標を持つ考えのない、
 不気味な人間である。実に恐ろしい。

私は、ワルタが何か騒いでいると感じた。
しかし、言っているらしきことの内容に、納得しかねた。

勝手に適当に、ワルタの頭から怪しげなデタラメが出てくるのを、見ているしかなかった。


それから20年以上たって、私はたまたまテレビで、この調査方法
「尊敬する人物」の質問について話がされているのを、聞いたことがある。

「尊敬する人物」という問いを考えた偉い先生がいるそうだ。

その先生は、人間は誰しも、この人がいいなあとか、あの人がいいなあ、とか、
自分の理想を既知の人物の中に探そうとするから、

尊敬する人物を聞けば、その人がどういう人間になろうとしているのか、
どういう傾向を持つ人物なのか、判断する材料になる、と考えたそうだ。

しかしながら、「尊敬する人物がいない」という答えをする人が、
何を考えているのか、長い間わからなかった。

しかしそういう人は、
他人が考えたこともないような全く新しいテーマについて、
まだ応えた人がいないと考えている、

ということだとわかった、と言っていた。

私は、自分も該当すると思った。

しかしこの解説は、教育現場で了解事項となっただろうか?

とにかく、当時のワルタがその時に聞かなければ、
全く役に立たない話だった。

そして私や親たちも、その時に聞かなければ、全く役に立たない話だった。

この質問は、ハッピーの性格の善悪の判断に使われたのだ。
だからその判断の結果は、重大な影響をもたらした。

ワルタは、「尊敬する人物がいない、と答える子供は、性格が悪い」
という考え方を、私と親たちを含む、地域で拡散した。

「性格が悪い」という概念の定義を、「尊敬する人物がいない、と答える」
という意味で、拡散していたのだ。

重大問題である。



私が覚えているワルタの調査の三つめは、「好きな人、嫌いな人を書け」、
というものだった。

この調査についての、ワルタの解説らしきものを覚えている。

 「矢印でクラスの人間関係を表すと、誰にも好かれない人間がいる。
  それを孤立児と言う。」

この調査の時、好きな人、という事前説明の声に、
ビートがパッと、こちらを振り向いたようだった。

私の斜め前方向にいたので、振り向くのが見えたのだ。

しかしすぐそばの友達から、「好きな人って、男を言うんだ」と言われて、
やめたようだった。

私はその頃、ビートに好かれているような気は、全くしなかった。
しかしその時、ビートのそぶりは、そうだったのである。

ワルタの解説は、何だか、いつもねっとりしているように感じられた。

そして「誰にも好かれない孤立児」と説明した時、
それは私であるように感じられた。

結局それは、家庭訪問の時の「娘さんは誰にも好かれていません」、
に現れたような気がする。

思い出せば、これらで、私が性格問題児であることの、
立派な証拠がそろったらしかった。

しかし調査は、人間の心の中を、適切に反映するものだろうか?

そして、人間の心の中を探り当てた、として、
個人の性質を断定して、善悪の評価をして、それは妥当なものだろうか?

 一体全体、その調査で実際は、どのような結果が表れたのだろうか。

 ワルタが家庭訪問で「娘さんは誰にも好かれていません」と言ったのは、
 調査の結果をそのまま言ったものか?

 それとも、調査結果を、実際とは違うように、意図的に歪曲して、
 私を叩き潰すためにそう言ったのか。

 調査抜きに自分でクラスを観察して、
 私が誰にも好かれていないように、見えたのか?

 57年後の私は、教師が自分の目でクラスを見て、
 私が誰にも好かれていないように見えた、なんて、
 そんな馬鹿なことがあるだろうか、と、思っているのだ。
 

8、悪質教師・ワルタの「ビートと私をくっつける」教育


ワルタが私をひどく嫌っているのを知ったのは、遠くから私を直視しながら、
「義憤を感じる」と言っていた時があったからである。

掃除時間中だった。校庭でごみ拾いをしていた。拾う物がなさそうなので、
少し手が空いていた。他の女子も所在なさげにぼんやりしていた。

それを学校の廊下の窓から、数人の女先生と共にワルタが見ていた。

そして私をじっと強い視線で見つめながら、吐き捨てるように、
「義憤を感じる」、と言ったのだ。

隣にいた、私の家の近所に住む、4年時担任の女先生が、
「かわいいじゃありませんか」と言っていた。

ワルタは、ふん、といったそぶりで、なおも不愉快そうに私を見つめていた。


私の近所の4年時担任の女先生は、どうもワルタと仲が悪かったようだ。

何の店だったか忘れたが、その夫は私の家の近所で店をやっていた。

いつのことだったか、私より二つ下の、女先生の娘が、
作文に書いたことがあった。

「お父さんとお母さんが喧嘩をすると、いつもお母さんが勝ちます」

それが一つだけ大廊下に貼りだされて、みんなが読んだ。私も見に行った。
それをやったのが、ワルタだと言うのだ。

女先生が血相を変えてやってきて、大廊下の作文をはがした。
抗議する女先生に、ワルタが、やってやった、という顔をしていた。

何かの腹いせだったのではないか、という気がする。

こういういきさつがあった女先生の抗議なんか、
ワルタが受け入れるわけがない。

 5年時の担任は、まだ20代の、初めてこの学校にやってきた先生だった。

 その先生が、事情も分からずに私を学級委員にするわけがないから、
 私を推薦したのは、4年時担任のこの女先生ではなかっただろうか。

 つまり、私を推薦した女先生と、ワルタは、学校内で対立していたようだ。 

ワルタは、教室の教員机の周りに、よく女の子たちを集めていた。
そして賑やかに話をしていた。私は相変わらず教室の端で本を読んでいた。

するとワルタはしばしば、取り囲んだ彼女たちの隙間から、
冷たい目線で、私に気付かせようとばかりに、じっと鋭く私を凝視していた。

何かが起きる前兆だった。

クラスでは、定期的に席替えをすることになっていた。
一か月交代が普通だったので、この時も一か月間だったのだろうか。

その時、席替えでワルタは、ビートと私を隣り同士に指定した。

教壇から2・3列目の、中央付近に二人を並べて、
一か月間?観察したのだ。


私にはすでに相当の圧力がかかっていた。
性格が悪い、性格が悪い、と、言い立てる人々に囲まれていた。

ワルタの近所集団、教師集団、そして女子集団とその親集団、である。
ワルタはその中に、私の親たちも、引き入れようとしていた。

ワルタの指示に、抵抗など、できるはずもなかった。

ビートは嬉々として寄ってきた。
それは教壇からも私からも、はっきり見えた。

その頃ビートは、私と並ぶくらいの身長になっていた。

男子たちが皆、顔色を変えて引いた。私はビートを無視することにした。

この場合、彼との関わりに、一切表情を変えない、ということにした、
という意味である。

1メートルの座席距離を保っている限り、
ビートの存在を無視することにした。そしてその距離は、保たれた。

男子たちも顔色を変えたが、彼らも、何もできるはずがなかった。

異常接近の男子を、対象の女子が抵抗できないようにしておいて、
くっつける。

女子の性格を矯正するためか、心をくじいてつぶすためか。
男子に襲わせれば、「女子の叩き潰し」が完成すると思っているのか。

これは教室の中の、女子に対する精神的な強姦である。

教師とビートが一緒になって、精神的な強姦を、
皆が見守る中でやっているのと同じである。

教室は教師が権力を一任された空間である。
教師は何でもでき、誰にも文句を言わせない。

ワルタは、教室の中の権力者だった。

      *この席の時、誰かが教室を見に来て、私を見て、いまいましそうに取って返した。
        男性だった。校長先生だったのだろうか。

        ひょっとするとこの状況は、割と短時間で終わったのかもしれない。


 9、悪質教師・ワルタの立派な教壇道徳


ワルタは、教壇から立派な道徳を垂れた。
イエス・キリストの山上の垂訓ならぬ、教壇の垂訓である。

***
人はみな平等である。福沢諭吉は言った。
天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず。

人は皆すばらしい。みんな仲良く、明るく楽しく。
男も女も仲良く。

誰一人、その人格を否定されるようなことがあってはならない。
一人ひとりの個性を大事にし、お互いを思いやり、尊重し合おう。

今はみな平等だ。結婚でも、門地や貧富による差別があってはならない
 (どういうわけか結婚差別の話だった。)

自分が人にされて嫌だと思うことは、人にしてはいけない。
人の気持ちを思いやる事は大事だ。

正しい者は、弱きを助け、強きを挫く。

勉強なんか、社会に出たら何の役にも立たない。
私は、成績でみなに差を付けるのは、心が痛む。

底辺で社会を支える人々は素晴らしい。

生きる力は勉強ではない。

人生では金や地位が大事だという人もいるが、
友人というのも、とても大事なものだ。

私の近所には「朋輩会」という集まりがある。
私も入っているが、この集まりは実に素晴らしい。

仲間がいるというのは、実にいいものだ。
ここは人情あふれる、実にいい所だ。

人間は「人の間」と書く。人は人と付き合って成長する。
人を知らないのは良くない。誰とでも仲良くしよう。

社会性というのは、人との交流によって培われる。
誰でも人を受け入れる、心の広い、包容力のある人間になろう。

***


私も、「人間みな平等」には賛成だった。
何しろ、宇宙から地球を見たら、
生物としては人間は、似たものに見えるだろうから。

現実には厳しい格差があっても、
宇宙からの視点は、その格差を縮めるものだった。
そして古代からの文明の興亡は、現実の格差を相対化した。

今こうであっても、時間軸を変えれば、別の社会がある。

過去の社会が変動を受け入れてきたように、
未来も変動するだろう。

様々な人がいるからこそ、社会は成り立つ。
社会は柔軟に、難局に立ち向かう力を、保っていなければならない。
そのためには、構成員は平等である方が良い。


しかしである。

人と付き合わないと、人間として成長しない、とか、
人と交流しないと、社会性は培われない、とか、

こういう話になると、ちょと待って欲しい、と思うのだ。

私は本の世界にとても興味があった。

誰それが誰それと、どうこうした、どうなった、というような、
人のうわさ話、芸能人がどうこうした、だれが素敵、とか、
こういう話に、いちいち付き合う気になれない。

それを人に混じって聞いて、そして人を知る、というのは、
私には、非常に時間を無駄に使う要素に思われた。

しかしワルタは言う。

 勉強なんか、社会に出たら役に立たない。

 だから周りの子と同じようにふるまい、
 周りの子をよく知り、それに時間を使わねばならない。

 本を読んだり、勉強したりは、時間つぶしの無駄である。

そう言っているように聞こえるのだ。
私はこれには、自分の指向と真逆のプレッシャーを感じた。

そしてワルタは、学校では言わなかったが、家庭訪問でははっきり言った。

 女は勉強しても、何の役にも立ちません。

 勉強より家の中に気を配る。

 何より大事なのは、性格です。
 性格の悪い人間は、社会では生きていけない。

 女は大きくなったら、
 男の言うことを聞かなければならないのです。

超悪質な性差別だった。

この教師は、好き好きと言っている?ビートと、嫌っている私を、
「特別扱い」で教室内で、貼り付けておく人間である。

その教師の触れ込みは、性格重視ということだった。

その評価の高い性格とは、周りの人とよく付き合う、
ということのようなのだ。

   (私の場合、それはまるで、ビートに対する拒絶を、
    チクリチクリと非難されているようだった。

    そして、そばにいるビートと、よく付き合え、
    と言われているようだった。)

政治家気質の、政治家目標の人なら、それでいいかも知れない。

大いに他人に混じって、他人の考えを吸収し、
意見を吸い上げてもらいたい。

しかし、誰でも素人政治家に向くわけではないし、
誰でも、人好き合いの良しあしで、評価できるものでもないだろう。

こういうのを個性の違いと言うのだと、私は思うのだが。

個性の違いではなくて、それを良しあしの基準にするのは、
間違っているのではないだろうか。


教室では以前から、何となく、「差別だ」という声が聞こえてきていた。
それは回りくどいが、私のことを言っているようだった。

「差別」というのは、この頃田舎では、「部落差別」という言葉でしか、使っていなかった。
しかしこの場合、私がビートを激しく攻撃することを指しているようだった。

そうすると、私は「社会悪」を実行していることになるようだった。
そしてワルタの平等教育は、私の「社会悪」を非難しているようだった。

また、ワルタが「成績でみんなに差を付けるのは心が痛む」
という言葉で実行することは、

成績というものを無くす方向を目指していた。
私は成績で自分をガードしていた。

ワルタが目指した「成績(相対評価)を無くす」ということ、
その意図するところは結局、私から防衛手段を奪うことだった。

私は無防備状態の丸裸になったような気がした。

私は、ワルタが目指した成績をなくすということが、
今日の小学校の、絶対評価につながっているような気がしている。

女子の防衛手段は、確保されているのだろうかと、気になる所である。


10、悪質教師・ワルタのスピーチ評価


それは国語の授業のことだった。
教壇で一人で立って、短いスピーチをする、というのが課題だった。

内容は何でもいい。本でも新聞でも何でもいい。
何か話のネタを見つけてきて、一人一人、
話をしてもらいたい、と言うのだ。

普段あまり目立たない人が、
非常に印象に残るスピーチをしたこともあった。

しかしあのネタはどこから見つけてきたのだろう、と、
今の私はヤッカミ半分で疑問符を付けている。(申し訳ない)

そんな適切なネタ本があるなら、私だってそれを使うさ。
(なんちゃって)

私は新聞記事を使ったのだった。
  「アフリカの小国が独立した。
  この機会に国名を変えるかもしれない。」
そういう小さな記事だった。

私は、短い記事を探していた。そして、独立して国名が変わるかも、
という所に、感じるところがあったのだ。

これは、そこにいる人達にとっては、大変なことだ。
そして私たちにとっても、国名が変わる、という事象は、
大変なことだ。

そう感じて、これを話してみようと思ったのだった。

暗記した新聞記事をそのまま喋った。自分が感じたことなど、
全く付け加えなかった。みんなポカンとしていた。

しっかり話はしたけれど、これがまた、
ワルタの大不興を買った。

  「こんな遠い所の、こんな小さな国のことが、
   こんな田舎にいるみんなに、一体何の関係があるんだ?」

  「どうしてそんな話をするんだ。」と、強く詰め寄られた。
  「木で鼻くくったみたいな話だ。」と、非常に不愉快そうだった。

まあしかし、この先生、おかしなことに、
アフリカの独立ラッシュの説明をしてくれた。

私は、本来なら、こんな話にワルタごときが、
説明なんか、できるわけないと思うのだ。

ともあれ、説明があったおかげで、
私も知識を得ることができたわけだが・・・。

そしてそれから、学期末になって通知表が渡された。
すると、国語の各項目の欄に、話し方×、と書いてある。

これまで見たことのない評価だったので、母親が、ワルタに聞いたらしい。

すると、かくかくしかじかで、「全く周りの子供たちのことを考えない、
自己中心的なスピーチだったからだ」、と、返事があったらしい。

祖母と伯母が「それ、いいんじゃないの?」と、顔を見合わせた。

前に、親たちが、「尊敬する人がいないのは、性格が悪い、ということだ」
との説明を受けて、首をかしげて、二人して考え込んでしまったことがあった。

今度も、またしても、二人して考え込んでしまった。

私の親たちは、学校の先生の言うことに意見を持つほどの力を、
持っていなかった。

とにかく、「娘は性格が悪い、と先生が言う」という事実。
それを受け止めるしか、なかったらしい。

あの時、全くスピーチできなかった人たちもいた。

私はできません、と宣言したり、モグモグするだけで、
一言も話せなかった人たちも、いたのである。

しかし、ワルタが、彼らに×なんか、付けたような気がしない。




11、悪質教師・ワルタの、父に対する誹謗中傷疑惑


ワルタは、沖縄戦の話をしていたこともあった。
どういう訳か、二回も聞いたような気がする。

 帰還できる特殊潜航艇などなかった。
 米軍の囲みを破るなんてことは、絶対にできなかった。

そういう話である。

  戦争末期の日本では、体当たり攻撃が盛んに行われた。
  操縦士が、飛行機に乗ったまま米軍の戦艦に体当たりして、
  多くの若い人が死んだ。

  海では「回天」という特攻艇が有名だった。体当たりする潜水艦だ。
  特攻艇に乗ったら、帰って来る人はいなかった。

  帰って来る特殊潜航艇など、日本にはなかったのだ。
  戦前の日本では、このように、人の命を、とても粗末にした。

  沖縄では、民間人を巻き込んで陸上戦が行われ、
  多くの人が死んで、悲惨な状況だった。

  戦争末期には米軍が隙間なく沖縄を取り囲んで、
  沖縄から出ることなどできなかった。

  そもそも、沖縄と本土との距離はこれだけある。
  沖縄を出て本土に帰るなんてことは、不可能だった。

  沖縄を脱出したなんて、絶対にありえない。信じるな。

しかし私が父親を信じない理由などなかった。
それで私は、ワルタの話を無視した。


実はこれには前哨戦があった。
読売新聞の昭和40年記念の本が小4の時だから、おそらく小5くらいの時の事
ではあるまいか。

祖母のよろず屋の商売を嫌って、私の父親は、地元の大きな生産物である、
木材を製材する工場を立ち上げた。

知り合いの大工さんに、酒の席で戦争中のことを聞かれ、
「もう『20年もたった』んだから大丈夫だろう」と言って話しはじめた
ように、思うからだ。
   (兄はそのころ、下宿して進学校だった。つまり兄は知らないのだ。)

私が聞いたと言っても、この父の特殊潜航艇がらみの話は、
酒の席のことが耳に入ったような気がする、
という聞き方でしかない。で、はっきりとはしないのだが。

秘密兵器の3人乗りの特殊潜航艇に乗っていたこと。
沖縄から脱出してきたこと。自分が脱出を指揮したこと。

大工さんは大層感心して「お前は英雄だ、すごい」としきりにほめあげていた。

ところがしばらくすると、

「お前の話は嘘だと言ってる。沖縄から脱出した人間なんかいない。
3人乗りの特殊潜航艇なんてものは存在しない。

軍隊は極めて厳しい上下関係があって、
小学校しか出ていない者が指揮をとる、なんてことはあり得ない、
とんでもない、真っ赤なウソである。そう言ってるぞ。」

という話が入ってきた。祖母も母も困惑した。

「マサオさんが嘘をつくだって? 分からん。嘘をついたりするような人じゃない。
だけど、他の人が嘘をつくとも思えない。」

父親は「海軍水雷学校は学歴に入らない」と言って、学歴を、尋常高等小学校?、
としたようだった。

変に謙虚な姿勢を取るのが、かっこいい、とでも思っているかのようだった。
これでは実際がわからない。

    (この水雷学校云々は、兄に聞くとまた違うのだ。
     兄は、父親は最初に水雷学校へ行って、駆逐艦「夕立」に乗って、
     その後、海軍高等水雷学校に行って、それから特殊潜航艇に乗った、
     と言う。)

父は戦友の誰かに電話して相談したみたいだった。
(私もどうしたのか、その場にいたような気がするのだ。)

相手の人は、どうやら「秘密兵器のことだから、言ってはいけない」
と、答えたようだった。

「もう20年もたってるじゃないか」と
ぶつぶつ言いつつ、父は周囲の困惑をおさめるために説明する、
ということを、止めてしまったらしかった。

しばらくの間、大工さん仲間にひろがった、沖縄特殊潜航艇の話と、
それが嘘だ、という話は、混乱を招いていた。

結局、父という人間は信じるけれども、この話はもうやめだ、
と、言って来た人がいた。私はそれを聞いた。
そこで話が収拾されたみたいだった。

全く面白くないが、大工さんたちはまあ、これで良かったのだ?
これで納まった?のだろうか。

しかし問題は、父の話は全部嘘だ、と言った、この話の出所である。

6年の時、ワルタが、
  「沖縄はアリの隙間もないほどに米軍に取り囲まれていて、
   沖縄を脱出するなんてことはできなかった。わかったね」
と、執拗に説明していたではないか。

私の実家に、大工さん経由で入ってきた話では、

大嘘だと断言した相手は、本で戦史を調べて、

3人乗りの特殊潜航艇の話や沖縄脱出の話は、
戦史に載ってない、だから私の父は全くのまるごとの嘘を付いた、

と判断したようなのだ。

体当たり攻撃の「回天」なら話が載っている。

しかし3人乗りの秘密兵器なんてものが、あるものか。
20年もたって、本に載ってないじゃないか。

結局、
  何も知らない馬鹿な男だ。
  わからないと思って、威張りたくて嘘を付いたんだな。
  調べればそんなことは、みんな分かるんだぞ。

ということらしかった。

  (そういう話が、道行く会話として「聞こえた」ような気がするわけである。
  じゃあ一体、父は戦時中どこにいて、何をしていたと言うのか。

  言えないところで、いい加減なことでもしてたんだろう。

  だいたい、お国のために死んだのならともかく、
  逃げて生きて帰って来た話なんか、いいことであるわけがない。
  わかったか。

  そんな流れだったようだ。
  
  人によっては、逃げたんだ、怪しい、という話に転換していたようだった。)

しかし父の沖縄脱出の話は事実であり、日本兵の勇猛果敢な話なのだ。

かつて特殊潜航艇の基地があった?広島の呉で、
自衛隊の楽隊によって、その活動を讃えてもらっている。

複数の本にも父の名前は出てくる。確実な事実である。

この父に対する中傷誹謗は、戦前の軍の活動にからんで複雑怪奇で、
簡単なものではない。海軍は長く、特殊潜航艇の話を、
積極的に宣伝するようなことは、しなかったらしい。

確かに、昔私が見た、岩波新書の太平洋戦争海戦史には、何の掲載もなかった。
と思う。少なくとも、沖縄戦の項目からは、消えていた。

この本はしかし、今見ると書かれた時期は1948年で、
終戦からまだ、時間が経っていない頃に書かれたらしい。

私が高校・大学くらいまで、一般の人が郷里で目にすることが出来た戦史というのは、
この本くらいしかなかった。

そしてそれは、戦争の詳しいことまでは、とても手が届かないものだった。

とにかく特殊潜航艇は、真珠湾攻撃の時から存在していた。
今ではそのことは、かなり有名になっている。
しかし田舎では、簡単な本では、見ることができなかった。

そして、父親たちの話は、今まで、全く表に出たことがない。
それはつまり、田舎での父への誹謗中傷を、そのまま温存した、
ということである。

祖母や母を含む私たち家族も、すっきりしないものを抱えたまま、
長い時を過ごした。

この父への誹謗中傷が、私という人間への理解にどれだけ影響したか、
これは、計り知れないものがあるだろう。

         *** 昔、父親のことを少し調べていた時に、
             共に脱出した方と連絡が取れて、
             手紙を頂いた事がある。

             ネット検索で、朝日新聞広島支局発信のニュースに、
             徳永道男氏の講演会?の記事があって、

             記者の方に連絡したら、徳永氏の住所を送って下さった、
             というような経緯だったと思う。

             共に沖縄を脱出した方の手紙を、付録として最後に書いた。
                                                   
             父親と私は、いろいろと軋轢が激しかった。

             調べても中断し、忘れ去り、今また思い出して、惜しいことした、
             と思っている私である。
               
         *** 付録:佐野大和・『特殊潜航艇』より、<父の沖縄脱出>
             「生還(真実を追う)」は、最後に書いてある。                          



12、悪質教師・ワルタの、状況に対する不整合発言、母親の裏切り


結局、ワルタは、
「人が考えたこともないような、全く新しいテーマを考え付いている、
かもしれない」子供を、

「性格が悪い、自分を世界で一番すばらしいと思っている傲慢人間、
優れた人物を知らない、視野が狭い、井の中の蛙」、

と判定したのだ。

また、「世界情勢への関心につながるようなテーマに言及した」
子供のことを、

「性格が悪い。周りの子供たちのことを全く考えない自己中心」、

と判定したのだ。

これは、おそらく、自分が考えている「子供らしい子供」でない子供は、
「性格が悪い」と判断した、ということである。

そして続ける「性格が悪い者は、社会に出たら生きていけない」
という言い方は、「こいつには死んでもらおう」

と、言葉で脅迫しているようなものだった。
生死を賭けた言葉のやり取りが、教師の口からも、出てきた。

教室の中で、女子には将来、生死につながる男の暴力が発生し、

教師によってさらに、女子に対する暴力受け入れ強制が発生し、
その上、人には生死につながる、全面的な人格否定が発生していた。

このワルタの、状況に対して付与した言葉は、
状況に適切に符合しているか?

ワルタの、教師としての子供判断の、適正度を判定する基準、
というものは、現在、あるのだろうか?

こんなにデタラメな判断を、子供や家庭に、まき散らして
押し付ける権限が、教師にあるのだろうか?

私は教育には詳しくない。だから教員養成の過程で、
こんな子供の性格判定がテーマの、
事例判断の課程があるのかどうかも、知らない。

しかし、ここまでデタラメを言われたら、教育による犯罪である。

私の親たちは、あいにく、教師の権威を疑うほどの、
知識も見識も、持ち合わせなかった。

言葉による説明とか、人や子供との対応とか、
そういうことに関しては、頭の中に内容を持ち合わせなかった。

そこで、家で、私の性格が悪いかどうか、
試してみることにしたらしい。

父親が、タイミングも構わず、些末な用事にかこつけて、
怒鳴りつけてみる、ということをやり出した。

それは普通ではなかった。10年の軍隊仕込みの人間の、
これでもかという、力んだ仕業だった。

前例のない不愉快な言動にぶつかって、私は猛反発した。

すると、父親の頭の中では、素直ではない、
ということを確認することにしか、ならないようだった。
そして残念無念らしいのだ。

そこへ母親が出てきて、

  「言うことを聞き。(聞きなさい)。

  私が子供の頃は、親の言うことは何でも、はーい、と言って、
  即、言うことを聞いたものよ。

  私は本当にいい子だったのよ。」

と、これまた私が絶句するようなことを言う。

先日は、父親の怒鳴る姿勢を愚痴っていたのだ。

今日は、私が父親に怒鳴り付けられたのを見て、
しゃしゃり出てきて、シレっとした顔で、怒鳴りつけは正しいと言う。

私はその母親の裏切りにギョッとした。
しかしその中身が疑わしい。

「自分が子供の頃に、親に言いつけられたこと」と、
「こんにち、父親が私を怒鳴りつけること」と、

同じものとして、私に「はい」と言え、と、
しゃあしゃあとした顔で言う。目の端に、面白そうな感じが滲む。

その様子に、母親の冷たい心に触れた感じがして、
私はゾッとした。

 「私は本当にいい子だったのよ。」という母親のその言葉に、
私の頭の中で、家庭訪問の時のワルタの、

 「私はあなたのような人が好きですよ。愛嬌があって可愛らしくて」
という言葉がチラチラした。

その甘い言葉は、これまでの母親の評価を、逆転させる内容だった。
そして私を、全否定する内容だった。

「あんた悪い子。私はいい子。」
母親の中で、私に対する母親の位置決めが、決定したようだった



13、メイン家の祖母と早婚の母親


私が小さい頃は、母親の影は薄かった。
私は、メイン家の祖母であるヒサに、ついて歩いていたらしい。

私の記憶は祖母と共にあり、
母親はどこにいたのだろう、という感じなのだ。

メイン家の私の祖母ヒサは、私の母親セツコには伯母である。
セツコの父は津波に飲まれたが、それが私の祖母ヒサの、弟である。

祖母ヒサを、母親セツコが「おかあさん」と呼んでいた。
田舎では「おかあさん」は、改まった言い方である。

他の場面では、どこでも一般的に身内では「おかあちゃん」なのに、
祖母ヒサだけ「おかあさん」は変だ。

私には祖母ヒサは「おばあちゃん」で、
母親セツコが自分の母親を呼ぶと「おかあちゃん」で、
セツコがヒサを呼ぶと「おかあさん」だった。

首を傾げたら、ヒサも「おばあちゃん」にしようか、
ということになった。

兄は七つ上だが、私が不思議がるまで、
それを続けていたことになる。兄が帰って来て、

「ええっ!おばあちゃん?」と絶句していた。
それから祖母ヒサは「おばあちゃん」になった。

メイン家の祖父は、私が生まれる直前に亡くなっていた。

メイン家の祖父は学校へ行かなかった?と聞いた。
しかし、草書変体仮名を書く人だった。

高等教育を受けた、というのが「かっこいい」と思っていた私は、
残念に思って「どうして」と祖母に聞いた。

すると祖母は、こう答えた。「家で勉強することがあり過ぎて」
そう答えたように記憶しているのだ。

祖母曰く「学校へは行かなかったけれど、何でもよく知っている人だった」
そして極めつけは、「おじいさんは南十字星を見たことがあるのよ」???

こんな具合に時々、私の祖母ヒサの記憶には、とてつもない話が、
ひょいと混じってくるのだ。

私が何十年も後に、色々思い出したことと関係するなら、
それもあり得るか、という気がする。しかし何せ全く証拠がない。

従って、今も意味がよくわからない。

手紙のいくつかや、10冊位はあるかと思われる、読めない文字で一杯の
ノートが、長く残っていたのを知っている。

あれも、今思い出すと奇妙な遺品だった。
よろず屋の主人が、一体何を書いていたのだろう。

延々と草書変体仮名ばかりで、誰も読めない、日記と思えるような遺品だった。
残された文字は、インテリの文字に見える。

祖母もその文字について、私に何の手ほどきもしなかった。
とにかく私の幼少時は、身内では、昔のことは言うな、が合言葉のようだった。

かくして私は、自分の実家でも草書変体仮名を常用する人がいた、
と言うことについて、全く関心を持たなかった。

祖母ヒサは質実剛健を誇りにしているような人だった。

大阪の、数十人から百人もいるような大きな商店に長く勤め、
商売の機微を学び、裁縫料理を身に着け、押絵を作る特技を持っていた。

ひな祭りの頃になると、型紙やヘラや、金銀の紙や、
絹地の繻子(しゅす)・ちりめん・錦を出してきて、
押絵人形を作って売っていた。

 *押絵((厚紙を土台にして、それにわたを伸ばして、絹地でくるんだ部材をつくる。
      それを貼り合わせて人形絵にする。お正月の羽子板によく見られる)

ミシンがあって、祖父が、作業着や、今で言うナップサックを縫った?のだと聞いた。
(聞いたけれども、見たわけではないので信じられない。)

祖母も多少はミシンを使った。不要になった小さな生地見本を、
ミシンで大量にはぎ合わせて、ちゃんちゃんこを作った。

それを着て、得意そうに人に見せていたこともあった。

八幡さんの祭りや運動会では、祖母が腕を振るった寿司を詰めた重箱を、
広げて食べた。

海苔巻き、卵巻き、押しずし、きつね寿司、
飾り切りの茹で卵・リンゴ・みかん、寒天。

そして重箱は、隅に控えめに螺鈿細工が入っていた。

  *かつては豊かであったという痕跡は、祖母が亡くなるまでに、
   すべて、消えてしまった。気付かれてはマズイという配慮で、
   祖母がすべて消したのではないかと、私は思っている。

   2・3十年も後に、ひょっこり、祖母の奇妙な話を思い出してから、
   思い出す限りのものを、随分探した。しかし、あれほどしげしげと見た
   螺鈿の重箱まで消えているのには、絶句した。

   私の精神状態の方を疑えと、言われているかのようだった。

   祖母が亡くなった跡に残っていたのは、索漠とした荒廃だった。
   誰も祖母が作り出したものは作れなかった。

   母親は、螺鈿の重箱がわからない人だった。

   祖母にどちらがいい物かと聞かれて、
   頂き物の、派手な装飾のプラスチックの重箱の方が、良いものだと答える。

   私はどうしたわけか、その頃、教えられないのに、
   どこかで螺鈿だと知っていた。

   私も自分の判断で、随分たくさん廃棄した。大学を出てからだろうか。
   大福帳とか。

   回収していない、貸したお金でもあったのだろうか。
   私が処分するのを見て、母親が焦っていた。
   
   祖母が亡くなってから10年もたつのに、回収なんか、できるものでもあるまい。
   そう思って焼却したのだが、大量の書き込みを処分したのは、
   まずかったかな、と思う。   

    (それに祖母は、病床に見まいに来た人に、あんたにあげる、と言っていた。
     二度と来るな、と。そういう人を、私は、男女二人は見た。

     父親が極端な貸金業嫌いだったのだ。お金を貸した、という話を聞いて、
     赤の他人の家に、怒鳴りこんだことがあるのを知っている。

     ちょっとお金を融通してあげたくらい、それが何がいけないのか。

     しかし父親には、貸し金という行為は、
     悪行の高利貸しか、浮かんでこないかのようだった。

     そして父親は、鉄のように恐ろしい男だった。)   

祖母はたくあんや梅干しや干し柿を作り、布団を作ったりもしていた。
家族の半纏は祖母の手作りだった。畑で野菜を作ったりもしていた。
  
祖母が文章を書いていたのは記憶にないが、算盤を使い、文字を書いた。
算盤は、二つ玉・区切り・五つ玉という、私が使えない旧式のものだった。

近所でまだ小さな子が亡くなった時、
お葬式に間に合うように経帷子を縫い上げるよう、頼まれたのは祖母だった。

祖母ヒサには、ハゼの木はかぶれるから触ったらいけない、
と教えてもらった。

また、メイン家式の特別かしわ餅に使う、つた植物の葉や、
草餅につかうヨモギを、取りに行ったりした。

あっちの畑、こっちの畑、お墓参り、
そしてあっちの親戚、こっちの親戚とついて歩き、
汽車で2時間以上離れた市内の問屋に行った時も、
ついて行ったことがある。

みんな祖母には敬意を表した。そしてその記憶の中に、母親はいない。

母親が結婚したのは昭和22年、17歳の時である。

ヒサの弟には、9人もの子供がいた。母親は5番目の真ん中だった。
上に兄二人と姉二人の4人、下に弟二人と妹二人の4人。

この早婚は、戦中戦後の国全体の窮迫と、
津波被災による困難が背景にあった。

母親は、苛烈な父親と、
しっかりした幅広い付き合いのある店主である祖母という、
二人の強い人間に挟まれていた。

それは私に、おどおどした母親、という記憶を残した。

その頼りない母親に、ワルタは、
 「私はあなたのような人が好きですよ。愛嬌があって可愛らしくて」
と、ささやいたのだ。

私には、ワルタのこの家庭訪問の時の一連の言葉が、
母親の認識を決定したのではないか、という気がする訳である。

母親を唯一、強烈に「言葉」で肯定した人物。それがワルタだった。

その後、ワルタは、彼を支持する地域集団の中で、
一定の勢力を保ち続けた。

その地域集団を拠り所とするならば、母親も自信を持ってふるまえる。
それはつまり、私を悪の性格として、否定するものだった。

ワルタと地域集団が、全く同じ感覚だったとは思えないが、
母親は私の中に、「悪の性格」を見出し続けることになった。

つまり、出る、目立つ、周りの人にわからない、調子を合わせない、
勉強しようとする、本を読む、

明るくも楽しくもない、素直でもない、
円満とも言えない。誰にでも優しい、なんて、とんでもない。

ワルタから見れば、楽しい仲良し集団を作るためには、
邪魔な存在は子供の内に叩き潰して、

「いなくなるように」策謀する、という、
信念に近いものだったのではないか。そんな気がする。

そしてある時、母親は私の顔を見ながら、言った。

  「何でもこの子にせいにしておけば、みんなうまく行く。」

こういう言葉に即、「なんてこと言うの」とか何とか、反応できればいいのだが、
私は半信半疑、あきれて黙っているだけの人間だった。

自分には考えられないことをする人間がいると、対応できないのだ。

世の中、舌が回る人間の方が勝つ。
舌が回らない人は、反撃のために何を用意すればいいか、考えて準備しなければならない。

こういう時は 「いい加減なことを言いふらすと、結局は自分に返ってきて、
ひどい目に遭うのよ」
くらいのことは言って、釘を指しておくべきだっただろう。

母親は私に悪を見出して人に言う。「ハッピーはこんな悪い子」
私に悪をなすりつけて人に言う。「ハッピーがやった」

母親の私に対する中傷は、結局、私だけでなく、母親をも地獄に陥れたと思う。
私が真っすぐに成長したのなら、経済力を担える人間になれたかもしれない。

母親は頭の中が可愛い人だったと思う。一生懸命やっている、優しい人でもあったと思う。
しかしワルタが、私たちを地獄に陥れた。

結局、母親は自分を、誰もが公認する悪の娘を持った、悲劇の主人公に仕立てたのだった。
そしてそれは、完璧に私を敵に回すものだった。

それのどこが、ワルタの言う、幸せになる、ことだったのだろう。


14、危険再来の阻止を

私はそれからずっと後の2006年、山口県の徳山高専・女子殺害事件を見た。
私は51歳だった。
事件をテレビでチラチラ見ていて、私は自分の小学校の時の教育を思い出した。

   人はみな素晴らしい。近づく男子を嫌がってはいけない。
   それは性格が悪いということである。
   男子の人権否定であり、社会性に欠けた行為である。
   誰でも受け入れることが出来る、心の広い人間になろう。

同じような教育を受けたのではないだろうか。
それで、引き離すことが出来なかったのではないだろうか。

被害者は、大学へ進学して、男とはこれから別れることができる。
そうなった時に、密室が用意されていたので、殺されてしまった。
その事件は自分と重なった。

そして、自分の成長過程を重ねて、男女共学の是非の問題、
学校の生徒評価の問題、学力別クラス分け問題、
公立・私立の学校の違い、等を、漠然と考えてきた。

私の経験を、何かの参考にしてもらいたいと願う。

今、教室問題として取り上げているのは、
特異な男子、ビートのような男がいる、と言うことを、

世間はもっと知っておく必要があるのではないか、という理由による。

あの小5の、ビートとからんだ出だしは、なかなか書けるものではない。
ビートだって、そう簡単にあのような行動になる、ことはないと思う。

しかし、通常では理解し難い、他の原因があるから、ああなるのだろう。

それを考えると、その特異な行動が発生するための条件が揃えば、
また起きる可能性もある、ということである。

危険なのに、それが周囲に知られることがない、というのは、
即ち、危険の再来である。だから私は、書かねばならないと思う。

状況を理解できない人は、ビートを攻撃する私を悪いと見なして、
仲良くするべきだ、という判断をしただろう。

そしてビートと私を、公式に長期にくっつけて置いておく、
というワルタの措置を、
懲罰であり、正しい行為だと見なしただろう。

ワルタのくっつけ措置を肯定する一団がある、ということは、
危険を再来させるということである。

一時期の文科省「いじめ防止基本方針」には、いじめられる子供を徹底的に守れ、
と書いてあった。しかし、状況がまるで違うこともある。
それを周知しておく必要があるのではないかと思う。

この文科省の方針では、57年前のワルタを再現するだけのことになる。
表面的な判断基準しかない。欠けている視点、連携・調査の欠落があるのだ。

「ひろすけ童話」か何かに、一輪の花が、
集団から離れて咲く内容の話がある。

ワルタはこれを、目立ちたがりはいけないんだ、という意味で引用していた。
童話の核心は、さすがに、そうではなかったような気がするが。

ワルタは私を、自分で自分が何をしているかわからない、
心が未熟で、幼稚な子ども、と見なしていたようだった。

それが間違いだ、ということを、はっきりさせないといけない。
ワルタは、大量の見落とし、未確認、誤認をやった。

それが教育世界で、何ら問題にされないなら、これからもいくらでも、
大量の見落とし、未確認、誤認が発生するだろう。

ワルタが教える小学校の勉強内容では、
生徒はその程度にしか、思えないのだろうか。


ワルタの頭の中には、目立ちたがる、という「性格」
があるらしかった。しかし何でも「性格」で考えるのは間違いである。

私は図書委員をやっていた。貸し出しをやります、というのを、
図書委員が校内放送で流す。先輩はやっていた。

しかしワルタが、私が放送するのを、
「目立ちたいのか」、と吐き捨てるように言って、阻止した。

その年は、それ以降、貸し出し放送はしないことになった。
そんなこともあった。

「手」の話をしに来た、外部からの講演者がいた。
私は正直言って、退屈だった。

私は、社会と情報の解説でも聞けるのかと思った。
何か、それを期待させる紹介だったような気がするのだ。

 宇宙空間から社会を見たら、
 人は宇宙的には、極めて共通した生物である。

 宇宙的には、似たような大きさ、似たような体の人間。
 その人間が、球面の地表上に、たくさん生きている。

 人間はそのような世界で、音声言葉や、文字や信号などで、
 情報を共有しつつ、活動している。

 そこまでは、すでに自分の頭の中でイメージがあった。

   (「情報」という言葉を使って考えた訳ではない。
    その頃抱いていたイメージを、後に言葉で表せば、
    「情報」だった、ということである。)

 そこで、「社会の根本をなすものについての大事な話」
 というような、講演の事前説明を聞いて、
 期待したのだった。しかし話は、大きく外れる話だった。

「手」の話が始まったので、私はあっという間に興味を失った。

ところがそれを、講演者が目ざとく見つけたらしい。

そして成績のいい子は、勉強ばかり気にするから、
こんな話は聞かないのです。みたいな結論を出して行ったようだった。

ワルタは、苦笑いで同意していたようだった。

  *この講演の時、講演者に、代表で感想を述べていたのはセイギだった。
   セイギがワルタと言葉を交わして、困惑した表情で私を見ていた。

   半眠り状態で全く聞いていない私は、とても目立ったのだろうか。
    聞いていない子なんて、他にもいただろうに。

   私は目立つのか。私は、誰にも好かれない子と言われながら、
   こんな所では注意を引くのか。わからない。

この講演で私が興味を持たなかったのは、
勉強意外のことに関心を持たないから、ではない。

私にはとても、社会の根本として「手」が重要だ、とは、思えなかった、
ということである。

そんな判断を、子供がするのは不当だっただろうか。

ワルタは、こう言っていたこともあった。

  「戦後、強くなったものは、女と靴下と言われる。

   しかし縄文時代には、女なんか、
   髪をつかんで引きずり倒してモノにしたものだ。」

こんなことを言う人って、滅多にいないと思う。
縄文時代を素材にする、というのが、あまりないはず。

戦前の教育を受けただけの人は、縄文時代なんて、知らないはずだった。

なぜなら、戦前の小学校の歴史教育は、「天皇陛下は神様の子孫である」
という内容で始まっていたからである。

小学校で公式に流布しているものを、誰が否定する内容を流せるだろうか。

これに疑問を持たせないことが教育だった。1903年から1945年まで、
神がかり的な歴史教育が続いた。(*国定日本史教科書)

「戦後、強くなったものは、女と靴下」というのは、
何かのキャッチコピーのように言われた言説である。

しかし、「縄文時代には、女なんか、髪をつかんで引きずり倒してモノにしたものだ。」
なんて、メディアで流れた話だとは思えない。

「縄文時代」という言葉は、戦後になって、神話教育を否定してから出てきた言葉である。

この「引きずり倒してモノにした」という妙な言い回しは、新奇な言葉が出回り始めた頃に、
酒の席ででも交わされた言葉を、教壇で口にしたものだろうか?

その後盛んになった「縄文時代論」の論者が聞いたら、「そんな乱暴な時代じゃない」と、
目をむいて怒りそうな話である。


  *国定日本史教科書:山住正己『教科書』岩波新書1971年(P58)、
                立花隆『天皇と東大・上』文芸春秋2005年(P224)

     (立花氏の書き方では、天皇神格化は天皇自身の権力によるものだった、となる。

     しかし、そもそもの成り立ちを強化する必要に迫られたのは、
     天皇政権の樹立を推進した勢力全体、でもあるのである。

     天皇神格化教育の準備が、明治の始め(明治14・1881年)に始まっているのは、
     注目に値する。)


15、歴史クラブと古墳の被葬者のシソン


小学5年の時、クラブ活動と言うのが始まって、
私は歴史クラブに入ったのだった。

担当したのは、普段は家庭科や保健を教えている、女の先生だった。
どうしてその先生が歴史を教えるのか、不思議だった。

そしてそれは、郷土の歴史だった。
郷土の歴史、なんて説明もなかった?ので、キョトンとした。

生徒用のテキストもなかった。先生は、厚みが5センチくらいもある、
活字本の古いのをめくりながら、いろいろ教えてくれた。

あの本は一体何だったのだろう。
町史などと言うものは、なかった時代のことである。

学校で正規に歴史を勉強するのは6年なので、
聞く方は、時代がチンプンカンプンだった。
しかし、覚えていることがある。

  大里古墳を見に行って、中に入った。

  江戸時代初期の、益田豊後守事件の話を聞いて、
  その墓も見に行った。

  鞆浦にある津波の碑の話も聞いた。

  蜂須賀氏が来てからやってきた、阿波の森水軍と判形人の話も聞いた。

  海部城の話も聞いた。

  判形人の子孫である、小学校の校長先生の家を訪ねたこともある。

  鉄砲隊の話も聞いた。

  鞆のお寺を回ったこともある。

  那佐湾で戦闘があって、島弥九郎が殺された話も聞いた。

  しかし海部刀の話はなかったと思う。

私が祖母から奇妙な話を聞いたのは、この活動で、古墳の話をしたからだろう。

  「マサオさんは、古墳に眠っている人のシソン。
   あなたはマサオさんの子供だから、シソン。」

そして祖母は私を連れて、西の古墳と大里古墳に行って、
お線香をあげて、お参りしたのだった。

しかしいくら考えても、古墳の被葬者と、ただのよろず屋のメイン家との間に、
関係があるとは思えない。

そのために私には、シソンが音にしか聞こえない。
それで母親に聞いた。「『シソン』ってなあに?」

母親は言った。「シソンと言ったら子孫じゃないの。そんなこと言ってるの。
マサオさんが子孫なら、マサオさんは王子様ということになる。
あんな王子様がいるもんですか。何を馬鹿なことを言ってるのよ」

母親は、憎悪に満ちた口調で祖母をののしった。

そしてそれは、父親にも伝わった。
父親も、そんな大層なことを口に出す祖母を、激しくののしった。

私の親たちは、自分たちの結婚を進めた祖母を、
不幸の元凶として憎んでいた所だった。

そこへ、祖母の方で、彼らに奇妙な攻撃材料を与えたのだ。

  (もっともこれも、今の私の判断であって、当時の私には、
  ぼんやりとしたものだった。わからなかったのである。

  そして母親に聞いたのは私である。家の中の人間関係は、
  私にはなかなかわからなかった。)

祖母は、歴史的な話にまつわることで、公式の歴史とは全く違う、
奇妙なことをいろいろ言った。それを私は覚えている。

その頃、親たちの祖母の憎み方は、半端ではなくなってきていた。
若くて力のある親たちが、猛烈な勢いで祖母ヒサを罵倒する。

これには私もたじろいだ。そして私も祖母が変に思え、
祖母に対する見方を、大きく変えて行った。

それが、この頃のことである。
私は今、そのことを残念に思っている。

ああいう人間関係でなかったら、もっとまともに話が聞けていたのに、
と、残念なのだ。

私の親たちが別の人たちなら、祖母のこんな話を聞いても、
このような罵倒シーンにはなるまい。

祖母は、親たちとは逆に、人生の終わりを感じて、
最後の最後に口にし始めた、のかもしれない・・・。

しかし私はそれから、祖母関係の物や事を、消そう消そうとしてきた。
実際、消したし、忘れてしまっていたのだ。

こうして、家の中の祖母の力は、急速に凋落していった。

私の性格がどうのこうの、という問題でも、
祖母は完全に、圏外になってしまっていた。


16、被害者と加害者の取り違え


今思えば、ワルタは、
弱いビートを助け、強い私をくじく、という考えでやっていたと思う。

性格を直せと私の家に告げ、学校でも、
どうやらその方向で1年が過ぎようとした時だった。

ビートが力ずくで私を体育館に引っ張って行った。
そして男子ばかりが大勢囲んでいる中へ突き飛ばした。

男子は一体、何をしてたんだ。積み重ねたマットや跳び箱に座って、
男子全員?で取り巻いて、見おろしていた。

おっそろしい。思わず涙が出てきた。誰かが気が付いたらしくて、
すぐにワルタがやってきた。「何をしてるんだ」

男子たちは、蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。

その直後、教室に誰もいない瞬間だった。

この一件を知ったワルタが、事態を逆の意味に取ったらしい。

   つまり、

   私がまたビートに何か悪いことをした。
   それに腹を立てたビートが、
   私に対して暴力的に腹いせをやった、
   ビートの正当防衛だ、

   と受け取ったみたいだと、思う。
 
私は、もちろん何も知らない。
ビートが突然、私を引っ張って行って、突き倒したのだ。

ここでワルタは、ビートの背中に手を回して、私をジッと見やりながら、
ビートに、意味深長な様子で言い聞かせた。

 「いいかビート、ハッピーの言うことなんか気にするな。頑張れよ」

ここで、ワルタが、事態を逆の意味に取ったらしい、
つまり、私がビートに酷いことをして、ビートがその仕返しをしようとした、
と受け取ったようだ、というのは、

20年くらい後になってからの、私の判断である。

子供の私には、

なぜか知らないけれども、ビートの言うことを聞かないと、
ビートの隣家のワルタが、私をはり倒しにやってくるのだな、

という印象にしかならなかった。

ビートにとっては、堂々と私に張りつけ、とワルタが言ったようなものだったと思う。


一体全体、ワルタは、小6の私をどう考えていたのか?

小6は子供だ。
男女の区別なく交流する、お互いに知り合う、
というのは、この教師にとって、素晴らしい理想だった、のだろうか。

男子が接近して、女子がハイと応える。(文科省の「心のノート」みたいに)
それが経験上、普通だったのだろうか。

仲良くしたい、と思ったとしても、状況の設定はいろいろあるだろう。
しかしそういうことは、ワルタは全部、無視している。

それとも、私が理由なくビートをいじめる子供なので、
それを矯正するべく、
「ビートよ、いじめに負けるな」と思ったのだろうか?

私は20年も後に、ワルタは、私がいじめの張本人だと考えていたのだ、と思った。

しかし、それでいいかどうかは、断定できるわけではない。

とにかくワルタの、私に対する陰湿な「いじめ」は、
このようにしつこくて、波状的に長くて、強力に続いた。

図工の時間に、自画像を描いたことがあった。

私は何の気なしに、顔色を描くのに黄色を混ぜた。
すると、何だか尖った鋭い顔つきになった。

それを見てワルタはその絵を取って掲げ、
 「これは本当によくできている。心の中が、よく描かれてるね。」
とみんなの前で見せた。

私は非常に不愉快だった。しかしその時そばにいた、
普段あまり付き合いのない女子が、
「もっと可愛いのに」と言ってくれた。

これはわずかななぐさめになった。
ワルタの私に対する嫌がらせは、尋常ではなかった。

延々と続いて、止むことがなかった。



17、中学での異常接近

 中学で近づいてきた時、ビートはこう言っていた。
この時は、ビートは私よりも、かなり大きくなっていた。

 「お前を理解したい。
  人は違いがあっても、話し合い、お互いに理解しあい、仲良くするものだ。
  お前と仲良くしたい。」

 「男とか女とかそういうことではなくて、お前と仲良くしたいのだ」
 「友達になろう」

これが、普通に言う、道徳の文句に似ているのだ。

文科省が配布している「心のノート」も、
異性選択をどうするかという問題には全く触れずに、

思いやり、話し合い、理解を深め、違いを乗り越えて仲良くしよう、
と言っている点で、内容は当時と変わらない。

ビートは迷惑な男だった。私はもっと素敵な男と仲良くしたかった。

この男を近づけては、誰も私のことを見向きもしてくれない。
私にはこんな男しか当たらないのかと、非常に不安だった。
                    
自分がみじめで情けなかった。しかし攻撃することも振ることも、できない。

ビートが、私の感覚には甚だしく違和感のある、
正当で反撃しがたい、妙な理屈を、もっともらしく口にする。

そこが嫌で、相手の判断力や認知力など、いろいろ勘案して我慢ならないのに、
絶対に離れないという調子なのだ。

ワルタに散々いじくりまわされ、私の中で認識する集団圧力が強化されたあとでは、
抵抗する気力も沸いてこなかった。


中学校に入ると、50センチという近距離でくっつかれていた。
この光景は、中学の先生たちには、相当、目ざわりだったようだ。

引き離そうとした先生たちもいた。しかし私は、
ビートの背後にいる、ワルタを含む、朋輩会の大人の男たちから、
身を守らねばならない、ような気がした。

ビートが、朋輩会の大人の男たちからの攻撃に対する、
防衛上の盾のような気がしたのだ。

ビートが男だというのは、私にはわからなくなっていた。
人はみな素晴らしい。それを実践しなければならなかった。
そしてとにかく、防衛上の盾を離してはマズイ、という感じだった。

手をなでさすられても、何も言えなくなった。

他の女子は激しく払いのけても、
私は、手を取られてさすられっぱなしで、声も出せなくなった。

ビートは他の女子にやってみて払いのけられ、次に私にためしてみたのだ。

「あの二人、どうなってるの?」「あんたはビートが好きなんやろ」
いろいろ言う声が聞こえた。

私とビートがくっついている方が、状況良し、と思う一団もあるのである。
他の男子は空いている、ということになるのだから。

私は朋輩会の大人たちによって、
すでに5年時から、複数の男性から強圧感を感じていた。

ビートに反撃すれば、また強い弾圧を受けそうだったので、
どうにも動けなかった。


一度、父親が私に聞いたことがある。「お前、ビートの事をどう思ってるんだ?」

これが多分、ビートのくっつき行動を耳にした時の事ではないかと思う。

私は叫んだ。「大嫌い。大嫌い。」
父親はいぶかしげな顔をして私を見ていた。

ビートのことが話題になったのは、それっきりだった。
そして私は、ビートを突き放すことが出来ないままだった。


ここで思い出すのは、ビートと私は、学校で勉強の話しかしなかった、ということである。

ビートが「お前は何に興味があるのか」と聞いてきたので、私は「勉強」と答え、
それからずっと、話題にしたのは勉強だけだったのである。

個人的な話は全くしなかった。私は、ビートの個人的なことは全く聞かなかった。
そして私も、ビートに個人的な話は、全くしなかった。
そのために、お互いに全く、相手の事については、知ることがないままだった。

ひょっとしたら、京大理学部の兄、師範出の伯父伯母、教育委員長、東北大名誉教授、
こういう、自分が良いと思う縁者の話をすれば良かったのだろうか?

しかしあのワルタにいじりまわされた後では、そういう話をする気にはなれなかった。

みんな平等であって、それ以外ではいけないのである。
悪い子供などいない。みんな素敵でなければならない。

ビートとは違う、などと口にするのは、差別であって悪である。
誰でも平等で同じであると言わなければいけない。そう思わされているのだ。

そして何よりも具合が悪かったのは、私の親たちが、
中身がさっぱりで、力がなかったことである。

母親が「娘の性格を直せと言われたが」と、人に相談したらしい。
多分、先生と名の付く人だろう。

するとその人は、「性格というものは、直すものでもないし、直せるものでもありません」
と返事したらしい。

返事をした人は、一定の常識を喋っただけなのだろう。

そもそも「性格」という言葉の使い方が、ワルタの用法なのか、
地域の特殊用法なのかわからないが、そちらの方が、常識とズレているのである。

ワルタが家庭訪問の宣言の中で使った「性格」という言葉と、
別の回答者の、直せない「性格」という言葉とでは、意味が違う。

そのことについて、母親には理解できない。
また私も、漠然と感じていたことを、はっきりと言語化することはできなかった。

  (そもそも、ワルタは「性格」を、直せるものだ、とは、私が聞いた限りでは、
   言わなかった。「悪い性格」というものがある、とは言っていた。

  しかし公共的・常識的な理解では、「性格」とは、善悪の区別をつけるものではない。
  日常語として「性格の良しあし」という用法が出てきたのは、時代的には、比較的新しい。
  
  そしてワルタが当時やっていたことは、ただただ、私を叩き潰していただけだった。

  調査であぶり出した私の性格を「悪」と認定したことも、家庭訪問で「悪」と宣言したことも、
  ビートと私をくっつけておくことも、スピーチ評価も、図書貸し出し放送の中止命令も、
  自画像評価も、ビートに「頑張れよ」と言った時も、

  すべて私を、「悪」と認定して叩き潰す、という目的が表明されただけだった。

  だから「性格を直せ」というのは、ワルタの言葉ではなくて、どちらかと言えば、
  「性格というものは、直せるし直すものだ」という、母親の希望的な解釈かもしれない。  

  母親に返事をした人も、セツコとハッピーの間で何が起きているのか、
  全く理解できなかっただろう。)


この別の回答者の返事を聞いて、母親は、さらに真っ青になってしまった。
直せない、悪い性格を持った娘を持ってしまった。絶望的だ、と。

「三つ子の魂百まで」と言う。一生「悪」が付いて回る、というご託宣だった。

当時、どういう訳か地元の新聞では、中学生の不良化を問題にし、
中学時代の理解というものについて、家庭欄でよく話題にしていた。

その中で、こういうのがあった。
「中学生にもなれば、親の言うことをすんなり聞くものではない。
それは自我の発達によるもので、自然なことである。」

私はこれを読んで、やれやれ、これは私の味方になる文章だと思った。
しかし母親はこれを読んで、「我」という文字に反応した。

「我」が強くなる。これはとんでもない。絶対に許すな。
このように母親の反応は、文章の意味をまるで反対に捉えるものだった。

「自我」があってはいけない。徹底的にそれをつぶせ、という方向に、
親たちの考えは進む。

私の方は、「自我」をなくせと言われたら、気が狂いそうになるしかないのだった。
自分があってはいけない、自分の考えがあってはいけない、のだそうだ。

無学な親は、このように言葉が通じない。そのために、非常に恐ろしいのである。

確かに、親たちは「滅私奉公」と教わったのだろうし、上官の命令は天皇陛下の命令と同じ、
として、絶対服従を求められたのだろう。だから、自分の考えを持つ、などということは、
「悪」だったに違いない。

しかし戦後は変わった。それでも、親たちは変わらない。

子供時代を通して、組織のルールの根幹として叩き込まれた考え方は、
敗戦後に社会に出て働き始めても、変化の動機が薄ければ、変える事もなく過ぎてしまう。

そして親たちにとって先生様であるワルタが親たちに教えたことは、
私についてのすべての事を、悪に結びつけよ、ということだった。

良い子供は、明るくて素直で円満で、誰にでも優しくて可愛らしくなければならない。

尊敬する人物がいない子供、スピーチのテーマを国際政治記事に求めるような子供、
本を読む、勉強する、こういう子供は悪である。

つまり、自分というものを持っている、これは悪である、と言っているようなものだった。
そしてそれは、私という存在そのものの否定であった。

父親が怒鳴りつけて従わせようとする程、私は精神の自己防衛のために反発する。

私を動かすのに「怒鳴りつける」という手法しか持ち合わせない父親は、
心の動きを描写する文学を、多少なりとも読みこなす私には、到底受け入れられない人間だった。

母親は、その父親の攻撃を、大いに擁護した。

自分に対する攻撃が、私にそれたのだ。それは母親には歓迎するべきことだった。
このように、この人は、父親に「やめろ」とは、決して言わない人だった。

私が父親に攻撃されることは、母親には都合が良かったのである。
そして、父親の怒鳴りつけに反発する娘というのは、母親の目にも「悪」としか思えなかっただろう。

そして当時の論者は、親はブレることなく、夫婦一致して子供の悪に立ち向かえ、
と推奨していたと思う。

また、「子供の悪がわからない親は、親失格」とも、脅していたと思う。

自分の子供が「悪」だなんて、まさかと思う親が多い。子供の悪が見抜けない親が多い。
それが子供を悪に向かわせるのだ、と。

すでに娘には、ワルタから、「性格悪」「自己中心」というご託宣も下っているからには、
それ以上、何を考える必要があっただろう。

親たちとの軋轢で私は崩壊した。神経がきしむような感じがした。

自分が異常の一歩手前にいることを感じた。
精神の完全崩壊を防ぐために、私は精神を使うことをやめねばならなかった。

  「性格が良い」とは、明るくて素直で円満で、誰にでも優しくて可愛らしい、ことである。
  人がこうだと言えば、周りに合わせてそれについていくのが「良い」ことである。

  しかし一方では、社会について考えよ、世に流されるのは危険である、という考え方もある。
  
  女は馬鹿が良い。女は黙れ。そういう考え方もある一方で、 
  女も考えて意見を言わなければ、また戦争が起きる、という考え方もある。

  勉強せよ、という考え方もある。しかし近くには、女には勉強させるな、
  性格の悪い者には勉強させるな、という強制もある。

  自分の考えを持て、という考え方もある。
  しかし近くには、自分がある、などというのは「悪」である、という考え方もある。

  人の気持ちを理解せよと言われる。しかし、人の気持ちが理解できないのは、他人の方だ。

  思いやりを持てと言われる。しかし、思いやりがないのは他人の方だ。

  人を傷つけるな、と言われる。しかし、人を傷つけるのは他人の方だ。

  人は皆すばらしいと言わなければならない。
  しかし現実は、自分が困難に陥るほど、受け入れがたい人間がいる。

  自分を磨け、という掛け声もある。それは、「学べ」という意味である事が多い

  それが田舎では、性格を、明るくて素直で円満で、優しくて可愛らしい人間にする、
  ということだったりする。

  しかしそれは、世に流されるのは危険である、という思いとは両立しない。

  「すべて人は素晴らしい」という言葉もある。しかし、「人を選べ」という言葉もある。

  誰とでも仲良くしなければ性格が悪いと言われる。
  しかしそれは自分の認識・本心とは真逆になる。  

  自我というものが確立してきたら、親に反発するのは自然の流れ、という人もいる。
  しかし自分の親は、自分の子供に自我がある、ということを「悪」と見なす。

  親に孝行せよという徳目がある。しかし、怒鳴りつける親に反発する自分がいる。
  それゆえに自分は、性格が悪くて、生きていてはいけない人間である。 

私には、自分の問題が、親も含めて、世の中に存在する論理自体の、「矛盾」として感じられた。
全く反対の論理が、両方を実行せよと、強烈に自分を叩きまくる。

そして私に対する「社会に出たら生きていけない」「性格が悪い」というレッテルは、
親たちとの摩擦の中で私の神経に深く侵入して、自分を否定する強い動機を形成した。

しかし死ぬことはできなかった。考えることをやめることが、唯一、自分を生かす方法だった。 

考えることをやめる、なんてことが、はたしてできるのか?
そう思ったけれど、そうしようと思ったら、それはできたのである。

こうして私は崩壊した。

勉強をやめると、ビートは私を「軽蔑して」去って行った。このあたりのビートの行動は、
実に功利的でドライである。

他の男子たちの顔が、パッと明るくなるのを感じた。先生たちも、変だと思いつつ、ホッとしたようだった。
変だと感じた理由は、ビートが離れた理由が、私が「勉強しなくなったから」だったからである。

ビートも、離れるのがそう簡単なら、5年時にも、接近をやめれば良かったのではあるまいか。
私に攻撃されてもなおしつこいというのは、功利的ではない。


ビートとは、高校は別になった。そのためにビートからは解放された。

しかし、性格矯正云々で、私と親たちとの間に生じた激しい軋轢は、私の精神を殺してしまった。
私は自分が、呼吸しているだけの生き物、のような気がした。

私は勉強をしなくなった。確かな言葉だとされる、本や文字は信じられなくなった。
ただ学校へ通って、流れてくる授業を受け止めているだけだった。

そのような私は、高校の教師たちには、
疑問符だらけの存在に映ったようだ。

そこへ、ワルタが「性格が悪いから勉強しない」と、
高校まで言いに来たような気が、私にはするのである。

ある時、複数の教師が、私を険しい目つきで見るのを感じた。
そしてそれ以降、彼らの警戒の目線が、付きまとうようになった気がする。

ビートからは解放されても、私は、
ワルタ共鳴集団からは、解放されなかった。


そして後に、ビートは親を介して結婚を申し込んできた。
それを聞いて私は、皮肉を込めて「結構なお話ね」と言った。

すると母親は、私の顔をじっと見つめていたかと思うと、
電話を取って、私が思ってもいないことを口にする。

  「こんなうれしいことはない。
  子供の時から好きだと言ってくれていたのだもの。
  うれしくてうれしくて。娘も大変喜んでおります。」

私は母親が先様に、電話でそう話しているのを聞いて、
バッサリ本人に断ることにした。

しかし本人が電話に出た瞬間の、その口上がまた何とも言えない。

   「あんたなら真面目だ。 しっかりよく働く。」

どうして私が、ビートのためにしっかり働かなければならないのだ。

これが、例えば、「お前と一緒にやっていけるなら、うれしいよ」
とでも言ったのなら、随分違う。

この結婚申込みの時の口上にも表れているように、
ビートは、男である自分が上だ、お前は下だ、女は男の言うことを聞くもんだ、
という姿勢で一貫していた。

男だと言う、ただそれだけで、こんな恐ろしい上から目線というのも、あるのである。

もっとも、不気味、と思う私も、それなりの社会感覚で判断しているのであって、
それが普通だと思う人も、あるいはいるのかもしれないが。

女子は男子を拒否する権利がないのか。
異性選択の自由と行動ルールについて、共通の合意がなく、言及もない。

誰とでも仲良く。
交友範囲・人間関係が狭い子どもは、教室の中では危険因子である。

こんな話ばかりが優先する。これは、公教育の欠点ではないのか?

  *私の兄は、最後は、関東の国立大学で、数学助教授で退官した。
  この頃は、京大大学院博士過程を終えて、大学講師だったのだろうか?

  そして私は、専門分野の根本的な疑問を抱え、
  突破口があり得ない、という中で、行き詰っていた。

  兄がどうであろうと、私のことなど母親には、
  無能の得体のしれない、悪の塊りに見えていたのかもしれない。

  だれでも構わないから、くっつけて追い払いたい一念が、
  伺えるような気がする。

そういう中で出会ったビートの言葉は、私に対して、労働力としての期待を、
前面に出してきたものだった。

働く労働力で連想するのは、経済的な稼ぎ手ということだが、
別の記憶にもつながる。

戦前の旧制女学校を新制高校に衣替えした地元の高校では、
女子教育に関して、家庭を守る女性、というイメージを、まだ漂わせていた。

伝わる言葉に、以下のようなものがあった。

  女の仕事は「裁縫・始末(倹約)・炊事・洗濯・掃除(さしすせそ)」、
  年寄・子ども・病人の世話。

もっともこの言葉、多分、昔の世間の常識を言ったものだろう。

女学校としては本当は、
  「私たち女性は、それだけの存在であってはならない」
という、逆のメッセージを込めて使われたものだと思う。

そういう流れの中で、これは、手ごわい世間の常識、という意味で、伝わってきていた。

そして、この時のビートの私への期待は、私の労働だった。
極めて直接的で、身も蓋もない、情感のかけらもない世界が、そこに横たわっていた。

そもそものぶん殴り男が、偉そうにそう言えば、
私の具合が悪ければ殴り倒すだろう、というイメージしか、浮かんでこない。

かくして私は、かつて「死ね」とまで言った男に、結婚を迫られることになったのだった。


18、最初の出会い・保育園の学芸会

そもそもビートとの出会いは保育園だった。

保育園の学芸会で、催し物のメンバーの発表があった。

その中で、私とビートが、二人で8の字を描く踊りのプログラムで、一緒にされたのだった。

私は、いつもいい子だとほめられていたので、
ビートと二人きりで組になって踊る、などというのは、
屈辱的で嫌だと思った。

しかし先生は言うのだ。
先生も、みんなを学芸会で喜ばせるのは、とても大変です。

先生が一生懸命考えたプログラムですから、
やり直すとういうのは、もうとてもできそうにないくらいに大変なんです。

だから、ちょっとどうかなあ、いやだなあ、と、思うようなことがあっても、
先生のことを考えて、みんなでやっていくことを、考えてほしいの。

そう言われて、私は嫌です、とは、言えない。

学芸会の組み合わせがわかって、祖母や伯母は、大丈夫?と、心配した。
私は「ウン」と、言うしかなかった。

それで、長い学芸会の練習中、全員の前で、
私とビートは、二人で踊り続けたのだ。

そういうことが、二人の関係の、始まりと言えば始まりである。
しかしそもそもこの場面も、何だか、誰かに嵌められたような気がしている。

練習にしつこく呼び出され、時間が長かった。相手が覚えが悪かったからか、
と思っていたのだが、ひょっとしたら、わざとやらされたのかも、と、思ったりもしている。

ビートのお母さんが家にやって来て、まあ本当に良かった、これからもよろしくお願いします、
と、喜色満面であいさつして行ったことがあった。

祖母も母親も複雑な表情だった。私も嫌あな感じがした。
しかしこんなことは、これでおしまいになる、と思っていた。

私の父親は製材業だった。ビートの父親は、後に金物屋ではなく、
金属加工業として作業場を立ち上げた。

後にこうして、建設関係というつながりで浮かんで来たが、
かなり昔からの顔見知り、ではあったらしい。
それがわかったのは大学時代くらいだろうか。

先生達にご注意申し上げる。

真面目な子なら、仲間はずれになりがちな子の相手をさせて、責任を持たせても大丈夫だ、
などとは考えてはならない。

あなたの判断が、その子の一生の問題になるかも知れないのだから、と。

*****

私は、私のような性格では世の中を生きていけない、と、
田舎ではさんざん言い続けられた人間だった。

言ったのは親であり、その元は、ワルタが、
私の母親の耳元で吹き込んだ価値観だと、私は思うのだ。

自分の意見や考えを持つのは、悪いことだった。
勉強して難しいことを言うのは、悪いことだった。

母親は、死ぬまで私を、悪い悪いと言い続けた。
父親も、超の付く単細胞で、岩のようだった。

私が大学へ行ったのは、仕事に就くためではなかった。
生きる意味を探しに行ったのだ。

自分の生存理由を探しに行ったのであって、
将来の仕事など、考える余裕はなかった。

生死がかかっていたので、何が何でも行こうということになったから、
やっと勉強に拍車がかかったのである。

私の生存を脅かす人たちが一杯いた。

性格が悪いから勉強しない。性格の悪い奴は伸びない。
性格の悪い奴は育てる甲斐がない。女はダメだ、心が狭い。

能力が有りながら勉強しないなんて、全く宝の持ち腐れ。
人間のくず、役立たず、うどの大木、なんて言う。

私は高校では完全にダウンしていた。般若心経を片手に、
一人で、無の世界とは、なんて考えるのは、元気な話ではない。
虚無はすぐそばにあった。

兄が持ち帰ったSF小説や時代小説、テレビ映画等に完全逃避していて、
勉強する気になれなかった。

無目的の中から、わずかに方向性のある思索をしたことが、
大学の専攻を決めた。そして、大学で仰天の事態にぶつかった。

それが私の生涯のテーマになった。



19 悪質教師・ワルタの好きな本 壺井栄『二十四の瞳』・宮沢賢治
   

悪質教師・ワルタが好きな本として取り上げた作品に、
壺井栄『二十四の瞳』がある。


『二十四の瞳』の紹介には大抵、心温まる人間愛のお話、
というような言葉がある。

しかしそのつもりで大石先生の心情をなぞって行くと、
私には、どうしても引っかかる部分がある。

それは原作の小説の方である。映画は話が変わっている。

 (この本は無料の「青空文庫」にもある。パソコンなら、
 「Ctrf」キー+「F」キーの同時押しで、本の中の検索ができる
  ので、確認してみて欲しい。)

気になるのは、親に売られた富士子の話の部分である。
以下は、講談社・少年少女日本文学館13『二十四の瞳』で説明する。

売られた富士子を、買いに行った、あるいは見物に行った?
らしい「仁太」が出てくるのがp219。

富士子についてのいやな噂、
親に売られたという話が出てくるのがP227。

経済的に余裕のある「仁太」が、得意そうに「会った」と言うなら、
その状況について、特に親しく会話した、くらいは、想像の許容範囲だろう。

しかしそれが「遊郭?」という場所であるならば、
「見た」「親しく会話」した、だけで「得意そうに」言うかどうか、
微妙なところである。

「遊郭」に上がって、それだけで、人と一緒にその姿を見かけた事が、
得意なのかもしれない。噂を確認したことが「得意」なのかもしれない。

しかし「仁太」は、富士子を可哀そうだ、などとは全く思っていない。
「得意」なのである。

果たしてそこは「遊郭」なのか「女郎屋」なのか。


P227では以下のような文章が出てくる。

 「家具や衣類と同じように、今日の一家のいのちをつなぐために、
  富士子は売りはらわれたのだ。

  はたらくということを知らずに育った彼女が、
  たとえいやしい商売女にしろ、

  売られてそこではじめて人生というものを知ったとしたら、
  それは富士子のためによろこばねばなるまい。

  しかし人は富士子をさげすみ、おもしろおかしく噂をした。」

この部分が、どうしても、「心温まる人間愛」と思えない。

「売られてそこではじめて人生というものを知」るって、何のことだろうか?
「はたらく」こと以外は、「人生」ではないのだろうか。

富士子はこれまで、人生を知らなかった、というのだろうか。

何年も前から、家運の傾くのをその身で受け止めつつ、
この子を売れば皆が助かる、という視線にさらされつつ、

多少の働きではどうにもならないほどの借財の話を見聞きしつつ、
それでも、それまでは人生を知らなかった、と言う。

何と言う、人間の尊厳を冒涜した話だろうか。

「人がさげすみ、おもしろおかしく噂をする」場所に売り飛ばされた、
のである。「女郎屋」っぽいと思う。

そこで「商売女」にされたことは「富士子のためによろこばねばなるまい。」
これでは全く理解できない。

何と言っても『二十四の瞳』は、学校の先生になる人が、
「一度は読むべき良書」ということになっているのである。

こんな承服できない一文があることは、許しがたい。


富士子は親に売り飛ばされて、体を売る、いやしい女に堕ちた。

しかし「心温まる人間愛」のはずの大石先生は、
それを「喜ばねばなるまい」と、平然と言ってのけている。

ここで私が気になるのは、ワルタのような男なら、

 「大石先生でさえこう言うのだから、

 変に気鬱で気位の高い子供らしくない可愛くない女子なら、
 売り飛ばされて男に強姦されるのも、いいことである。

 皆がいい本だと言っているのだから、この場面も見習え。」、

と思うのではないか、ということである。

以下は別の話、宮沢賢治の「雨にも負けず」の話である。
しかしこれが、いつの、どの先生の話だったのか、はっきりしない。

超悪質教師・ワルタだったら、ピタリと符合しそうな話ではある。

しかしどの先生だったのか、はっきりしない、ということは、
ことわっておかねばならないだろう。

昔、先生が、宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩の全文を黒板に書いて、
意味を解説した。

「雨にも負けず」 宮沢賢治     (原文はカタカナ)

  雨にも負けず
  風にも負けず
  雪にも夏の暑さにも負けぬ
  丈夫なからだを持ち
  欲は無く
  決して瞋(いか)らず
  何時も静かに笑っている

  一日に玄米四合と
  味噌と少しの野菜を食べ
  あらゆる事を自分を勘定に入れずに
  良く見聞きし判り
  そして忘れず

  野原の松の林の影の
  小さな萱葺きの小屋に居て
  東に病気の子供あれば 行って看病してやり
  西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を背負い
  南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくても良いと言い
  北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い

  日照りのときは涙を流し
  寒さの夏はオロオロ歩き
  皆にデクノボーと呼ばれ
  誉められもせず苦にもされず
  そういう者に
  私はなりたい

  南無無辺行菩薩
  南無上行菩薩
  南無多宝如来
  南無妙法蓮華経
  南無釈迦牟尼仏
  南無浄行菩薩
  南無安立行菩薩

そして言った。「宮沢賢治は本当に素晴らしい。

先生もこういう人になりたい
 (とまで言ったかどうかは、実は忘れたのだが、
  言ったような気がするので書いてみる)

「君たちはどうか。 こういう人になりたい、と、思う人?」

とクラスで質問した。

その時、クラスでは、手を上げる人、上げない人、マチマチ状態だった。
私は手を上げなかった。

先生が、生徒に、宮沢賢治の詩のような人になりたい、と、
言わせたいのは明らかだった。

誰かが「見ろよ。ハッピーは手を上げてない」と言っていた。

私が「雨にも負けず」に同調できなかったのは、私なりに理由がある。

オロオロしているだけではいけない。
手助けもできないのに、同情しているだけではいけない。
解決策を見つけるために、手段を探してくる人が私は好きだ。

そういう考え方による。オロオロしているだけでは、いかんでしょ。

子供の時でも、私は漠然とそう思ったが、今なら、
それらの困難克服のために取られた解決法の内容がわかる。

病気の子供には、医療が必要だ。
医療技術の進歩に貢献するか、予防措置の社会的機能を考案し、実行するか、
自分で医療を施せるようになるか。

疲れた母には、社会保障制度の考案と、施策を実行する行動が必要だ。
安全な金融も必要だ。

喧嘩や訴訟は、適切で合理的で社会的な判断制度に拠るべきだし、
それが納得の行く結果をもたらす仕組みになるように、
常に検討し続けるべきものだろう。

気象観測の技術の進歩に貢献した人は素晴らしい。
農作物の生産技術に貢献した人も素晴らしい。

宮沢賢治の時代から遠く隔たった今では、多くの人々の努力によって、
困難克服のために様々な対策が取られてきたのがわかる。
それを見逃すことはできない。

私が宮沢賢治の「雨にも負けず」に共感しないことを理由に、
それで生徒の性質の善悪なんか、判定されては、たまらない。


この「雨にも負けず」を提示した先生は、あたかも、このように言うようだった。

弱い者に深く心を寄せる心情が、あるか、ないか。

「ハイなりたい」と手を上げた者は、心優しい深い情の持ち主だけれども、
手を上げなかった者は、宮沢賢治の詩とは逆である。

自分のことを勘定に入れて、
他人より優越したいとか、金持ちになりたいとか、社会的上位に立ちたいとか、
そういう自己中心の考えを持っている。

そう言っていたように思うのだ。

時が悪ければ、確かに、持てる体力・精神力のみを頼りに、
オロオロするしかない状況に、耐え続けなければならないこともあるだろう。

しかし、問題の解決のため、前進のための努力を、ささやかでも続けたい。

そう思って、直接の問題から一歩引いている姿勢でいることを、
「勘定高い自己中心」と判断するのは、間違っている、と私は思う。

  *「雨にも負けず」の最後の念仏は、普通、あまり書かないものなので、
   先生がそこまで書いたかどうか、はっきりしない。

    しかし私は、元々は、詩の全体が念仏だと思う。


20:警察がやったこと?


私の親たちは、私が勉強しているところを、
見たことがなかったはずである。

父親は家で酒を飲みながら商談するし、夫婦喧嘩はするし、
テレビはガンガン鳴るし、

年が離れて生まれた妹も幼児だったので、ガタガタしていた。
そんな中で祖母も逝った。

激しく怒鳴りつけたら、それに反発する私。それは、親たちの目の敵にされた。

現実問題として、家の中は、親たちの干渉と攻撃と、物理的騒音に満ちていた。

そういう中で、フッといなくなり、自分の部屋に籠って何かしている私。

「いない私」というのは、不良化傾向の目安ポイントである、
親と対話しない、閉じこもろうとしている、親の言葉に反発する、
などという項目に、当てはまる、ように見えたらしい。

私が勉強していたり、静かに本を読もうとしていたりすることは、
不良化傾向にある、ように見えたらしい。

しかし親たちの怒鳴りつけ行動の方が、私には余程、
私の精神不安の原因のように思われた。

普段は騒音の中でも平気で暮らしていたが、
定期テストの直前ともなると、勉強しなくては、というプレッシャーがかかる。

それで定期テスト前は、さすがにかろうじて、籠って勉強した。
やっとの思いで勉強時間を取って、何とかトップクラスを維持していた。

その成績優秀は親たちも知っていた。
しかし私が姿を消して籠って何かしているのが、

不良化、不良化と煽る世間や新聞記事のせいか、
不安でならなかったらしい。

何をしているのかと、引きずり出して目の前に据えて問いただしても、
あきれるばかりで答えない娘というのは、不良化しているように見えるらしい。

実際、親と対面していると、頭がおかしくなりそうだった。

自分があるということは、悪の性質であり、ワルタが言ったように、
悪に突っ走る、直らない性格だと、親は言っているようだった。

私の方は、親の顔など見ると、精神不安が増してくる。

私としては、トップクラスの成績を維持するのに四苦八苦しているのだ。
それなのに、親は血相を変えて、何をしているのかと問いただす。

こんな質問は、狂っているようにしか思えない。

私が勉強してる所を見たことがないのに、
どういうわけでこのような狂った質問が出てくるのか。

いくら問いただしても、私が鬱陶しがって返事をしないので、
親はますます不安を募らせた、らしい。

そこへ警察が、不良化を警戒せよ、というパンフレットを投げ込んだ。
ご丁寧に2回も投げ込んだ。

二回目になって父親は、今度こそ、腹をくくって対応せねば、
とでも思ったらしいのだ。

大仰に娘を引き据えてにらみ据え、「一体お前は部屋で何をしているのか」
と、問う。

  (とにかくこの頃は、こういう時はいつでも、
  酔っぱらっていないと、こういうことはしなかった。)

私としては、「何だ、これは」である。
相手が大仰で真剣である程、言葉が出てこない。

すると父親は、さらなるクレイジーな言葉を繰り出した。

  「何をしているのか、言え。白状してみろ。
   人に言えないことをしているのだろう。いいか、立ち直れ。

   白状できないなら、このワシが鑑別所に連れて行ってやる。
   誰が連れて行かなくても、このワシが鑑別所に叩き込んでやる。

   言え。何をしているんだ。」

ずりッとずっこけた私は、さすがにここでやっと答えた。「勉強」
  
すると父親はまた大げさにのけぞって、
「お前が勉強などするものか。勉強だなんて、よくもそんなことが言えるものだ。」

そしてまた「ワシの子供だ。ワシの子供が勉強などするものか。」

そこへ母親が口を挟んだ。

 「勉強なんか、やめてしまい(やめてしまえ)。
  兄ちゃんは勉強なんてことは、一言も言わなかった。

  兄ちゃんはいつも呑気にニコニコしていて、いい子だった。
  あんたみたいなことはなかった。

  女は勉強など、やっても何の役にも立たない。
  人の迷惑になる勉強なんか、しなくていい。」


校長をしていた時期があった伯父が、私のことを親に相談されて、
家に来て、言っていたことがあった。この事件の、前のことだ。

 「今時、中学で勉強しないでトップだなんてことが、あるわけない。
  勉強してるんだろう。そうだよね。」

と言ったことがあった。私は、もちろんよ、と思ったが黙っていた。
親たちは、とんでもない、という顔をしていた。

父親の姉である師範出の伯母はこの時、
 「親がおかしいと言うのに、そんなことはないだろう、親が間違う訳がない」、
と、この人は親たちの味方で、私の批判者なのだった。

それからしばらくして、このような事態に陥ったのであった。

  (この時の伯母の言葉も、しまっておいただけで、50年以上、意味不明だった。

   しかし今考えると、伯母は勉強しないでトップクラスで、
   師範学校も勉強しないで行った、ということのように思われる。

   そして自分の弟の怒号なんか、全く聞いたこともなかったはずだ。
   父親とは、戦後、メイン家に養子に来て、そこで初めて会った、のではないかと思う。

   そしてまた、父親といがみ合う娘なんて、知りもしなかったのだろう。

   だから、家の中で不穏、という事を聞いただけで、気に入らなかったのだろう。
   この人は、父親とうまくいかない母親をも、好きではなかった。

   そしてこういう状況の背後に、母親を介して伝わったワルタの、
   私に対して「厳しくしろ」という要求があったのではないかと思う。

   「厳しくしろ」とは、父親にとっては「怒鳴りつける」ことにしか、
   ならなかったのではないか。)

今思い出しても、あの時はすごかったなあと思う。

私にとって、勉強しないでトップを維持するというのは、
絶望的に不可能なことだった。

それが、私にはできる、と、父親が信じている。
そこで神経が麻痺した。

そこへすかさず母親が、
 「女は勉強なんかしても何の役にも立たない。
  やめてしまえ。」

と言ったので、私は壊れてしまったのだった。

自分の過去を書き並べ、親の経歴を書き出し、
戦中戦後の事情を解釈に含めて考え直してみて、

何でああなったのか、ということが、何となく、収まりよくなった。


ここで気になるのが、警察のパンフレット投げ込みである。
ワルタ共鳴者集団の中には、警察官もいた。

いじめや不良化や学校のことでは、警察も大いに協力します、
と、うたっているが、
私のケースでは、警察もろくなことをしなかった。

ただし私の記憶の中では、パンフレットは、前後で色が違うものだった。
だから、名前が警察とあっても、やったのが両方とも警察だとは、言えないかもしれない。


子供を動かすために怒鳴りつけるというのは最悪である。
それだけで家族に不穏をもたらす。

手伝いをさせるなら、家族の全体の状況を理解するように促し、
「今いろいろと手伝っておけば、いつかきっと、本人にも役に立つ」、
そう言えば良い。

   「家族の全体の状況を理解するように促す。」なんて、
    やっていられない事が多い。
    そして家族関係が関係が良ければ、別に考えなくてもいいことだ。

親は生活上、ごく普通に知っていることでも、
学校の勉強では、教わらないことがたくさんある。

それを教えれば、感謝され、家庭も円満に回るようになるだろう。
性格を矯正するために怒鳴りつける、などというのは、とんでもない話である。

私の場合は、前後とりとめもなく思い付きで絶対服従を強いられただけ、のようだった。

これは、私が男だったらと考えたら、かなり危険だと思う。
理屈も何もない。怒号しかないのだった。自我を叩き潰すために。

子供が親に「うるさい」と言う、というのが、
不良化の兆しの一つとして挙げられていたような気がする。

私は、自分が言ったかどうか、は覚えていない。
しかし、そう言いたい気持ちは、私にはよくわかる。

伯父は一生懸命やってくれた。父親に言った。

  「マサオさん。北風と太陽という話を知らんのですか。

  旅人の服を脱がせようと、北風がふきまくったけれども、
  旅人に上着を脱がせることはできなかった。

  けれども、太陽が照らしてぽかぽかと暖かくなると、
  旅人は自分で上着を脱いだ、という話です。

  ガミガミ言えば、人は反対に、しっかり上着を来てしまいますよ。」

父親は、あの経歴では、イソップ童話なんか、知っていたかどうか怪しいものだ。
この伯父の話に対しても、承服できない、という様子でしかなかった。

さらには父親には、怒鳴りつけるように勧める言葉が、
頭の中に大量に入っていたはずだ。

 「対話せよ」「籠らせてはならない」
 「素直で良い子にしなければならない」「性格を直せ」
 「このままでは、社会に出たら生きていけない」
 「子供の悪がわからない親は、親失格」

こういう社会的な脅迫の中である。

突然「太陽」などと持ち出されても、どう方向転換するのか、
わからなかったのではないかと思う。

私は、田舎へ行くほど、窮乏するほど、情報弱者になって、
イソップを知らない人が出てくるのではないか、という気がする。


不愉快な子供だからと、ちょっとしたことでも教えない。
やらせておいて、失敗するのを待つ。
そして、お前は他人から見て、不愉快で馬鹿な子供だ、と言う。

こういうのも、子供の成長を止めているだけのことである。

教師は子供を叩き潰しても、当面、何ら被害はないだろう。
しかし親が子供を叩き潰すと、自分に跳ね返ってくるだけである。

そして教師も、やがては子供の恨みを買うだろう。
57年後であろうとも、私は忘れることはない。

家庭訪問の時のワルタの言葉、
 「厳しくして、わがままを増長させないように」
とは、非常にいい加減に使われる表現である。

「厳しく」とは、「怒鳴りつけろ」と言っているようなものだ。
しかし実際は、何の益ももたらさない。

むしろ害悪をもたらすことを言いまくったのが、ワルタである。

私と関わる際に一番大事なことは、いかにして「悪」と見なすかだ、
と言ったようなものだ。

ワルタはそれを、学校教育の中で、実例をもって示したのである。

ワルタの話は教育ではない。
人つぶしであり、他人の家族の破壊であり、犯罪である。



21、教育界の決まり文句は本当か?


〇「教師は、子供の学校での姿を一番よく知っている。
  それは、家庭では知ることが出来ないものである。

  だから、教師の判断は、家庭のそれに勝る。
  教師の判断に間違いはない。」

・・・ワルタもそう思っていただろう。しかし、ビートと私の場合、
  それは完全に間違った判断だった。


〇「学校は常に、生徒全員のことを考えている。
  生徒全員のために、良かれと考えて判断している。
 
  子供一人のことを考えている訳ではない。
  これが教師の公正な判断ということである。」

・・・ワルタもそう思っていただろう。しかし、それは著しく歪んでいた。

  私のケースは、こじつけであろうともとにかく私を叩き潰すのが、
  集団のために最善と判断された、ということである。

  「生徒全員のためだ」 と、ある集団を持ち上げ、少数者をつぶす。
  そしてそれが「生徒全員」を考えていることだと言う。

  しかしこれは、少数者つぶしの正当化のために使われる論理なのである。
  「生徒全員」のことを考えている、というのは、「真っ赤な嘘」なのである。

  潰される側から見た、「これは嘘である」という論理を拡散し、
  潰される者を、少しでも救済しなければならない。  

  学校は正しいと、教師は言い続けるだろう。
  しかし犠牲者は、人生のすべてを賭けて、闘い続けなければならない。

  それは犠牲者の宿命であり、それが生きる理由にもなるだろう。   


  学校で、成績に単純作業をプラスし、
  全体の成績を上げる操作をしていたりすることがある。

  それは全員の成績のかさ上げのためだと言うのだ。

  地域の、勉強など何の役にも立たない、
  という多くの人々の思いに、同調した結果のように見える。

  そんなもので評価などされてはたまらない、
  という地域の人々の思いに応えはするだろう。

  教師は、成績になるから、必ずやって提出せよと言う。
  
  しかしそれは、教師が本来目的とする学力の向上ではない。
  単純作業命令への服従を、成績に加味すると言っているかのようである。

  生徒のロボット化を要求しているような、居心地の悪さを感じる。

  学校の本質がそうだと聞いていたある生徒は、
  そんな馬鹿なことはないだろうと、提出をしなかった。
  そして、学力テストでは好成績を上げた。

  すると、5段階評価で数ランク低い評価が出て、生徒はあわてふためいた、
  というようなこともあった。

  内申書に反映する成績は、そのような操作でできているのである。

  この場合も、生徒全員のことを考えてやっていることだ、
  言うことを聞かない生徒が悪い、と、たたっ切るのが学校である。

  授業態度が悪いわけでもなく、真面目一方の生徒でも、
  機械的な操作で成績を下げる。

  成績とは、学力テストの点数だけではない、と言う。しかしである。

  単純作業をこなして、学力テストの成績が「良くなかった」子供たちは、
  「救済して」全体的な評価を上げる。

  「単純作業を成績に加味する」という教師を疑問視してその作業に参加せず、
  しかしながら学力テストの成績が「良かった」子供は、全体評価を引き下げる。

  それは、学業の成績と言えるだろうか。単なる「いかさま」である。

  それは、全体の本当の学力を上げる、という目的には逆行する。
  しかし絶対服従を要求することには成功するだろう。

  地域の、勉強など何の役にも立たない、という要請にも応える。
  学校の、広域レベルでの、見せかけの評価向上のためにも、
  教師評価の向上にも役立つ。  
  
  こうして学校は、疑問を持つ生徒の精神をつぶす。

  ここにも、出る奴はつぶせ、
  という学校心理を感じることが出来るのではないだろうか。

  つぶされた側の人間は、決して忘れない。忘れるものか。
  
  しかしこれは、人間評価の日常である。私はそのことをも思う。

  戦前の天皇神様論に何も言えなかった社会を考えると、
  理不尽が常態であるのが社会である。

  しかし人間は、理不尽に闘いを挑み続けなければならない。
  私は決して忘れない。  

  
人が生きるのに、日々こなす必要がある「周辺課題」というものがある。

身辺を整え、食事を作り、洗濯し、
食物・衣類、家や家具、道具を生産し、流通させ配布する。

そして物の交換のために必要な、お金を手に入れる。
家計を管理する。


人はしかし、周辺課題をこなすだけで、生活できるわけではない。
人には、「広域課題」というものもあるのだ。

社会に流通する情報を理解するために、言葉や表現を学び、
海外知識の一端としての外国語を学ぶ。

広域社会全体の仕組みを学び、制度の利用方法を知る。
その歴史的経緯と背景を学び、課題解決の方法を探る。

人類が築きあげた科学の基礎を学び、眼前の利器の、
技術の初歩と背景を知る。

これらは、「周辺課題」からは離れた、「広域課題」と呼べる。
そして、学校の勉強の主たるものは、「広域課題」に対応するものだ。

地域密着の生活だと、「広域課題」は、重要性が理解されにくい場合がある。

しかしだからと言って、「広域課題」獲得を軽視して良い、
ということにはなるまい。

「広域課題」は、地域を超える、社会的・国家的・国際的な、
広域活動のために、必須のものである。

「周辺課題」中心で生活している人々の、
「広域課題」を疎んじる声に迎合する。

それは結果的には、社会全体の課題解決力を、減殺するだろう。

学校の先生が努力するべきことは、学力の向上である。
学力が不足している生徒の成績を、かさ上げすることではない。

ましてや、学力のある生徒の評価を引き下げ、
生徒の向学心を、たたきつぶすことではない。

成績はもちろん、子供の全体を評価するものではない。

子供の全体とは、人間関係を築く能力や、人の感情についての推察力や、
思いやりや優しさまで含んだものだと思う。

しかしそれは、客観的に評価できる対象ではない。
(ここでの「客観的」と言う言葉も、比較的に、という意味であるが)

それは、ある特異な場面での特異な表出でしかない、ことが多いだろう。
他の多数の例と、客観的に比較して評価できる、というものではない。

それは、「広域課題」に対応しようと努力した、知的努力の結果とは、
別のものである。

「広域課題」対応の知的努力は、それはそれで、独立で評価するべきである。

「広域課題」対応の知的努力の中に、全く別の基準を「対等」に並べる、
ことには反対だ。別の留意点として取り上げるのは、問題ないと思うが。



<成績は子供の序列化>と言うが、それは一面的で、しかも変動するものだ、
くらいの認識は、説明すれば、子供だって持つだろう。

学校で必要なのは、「広域課題」について、誰もが挑戦を許されている、
という公平性である。

それは、地域と広域を結ぶことになるだろう。


この私の事件が、仮に名家のお嬢さんと、格下の貧乏人の男の話なら、
両家とともに周囲の人々が反発しただろう。

例えば、同級生には、医者や特段のお金持ち系譜の娘もいた。
しかしこの人たちには、寄ってはいかない。

    (真子さまの場合は、都会の人間関係の希薄さを突いた、
     小室圭氏の単独犯のように見える。しかし疑問が多い。

     なぜ、良く調べもしない内に、婚約記者会見まで行ってしまったのか。
     メディアがスクープする以前、関係者にいい話しかしなかったのは、誰なのか。
 
     真子さまを記者会見に引っ張り出した推進者、は誰なのか。
     経済的に困っている小室氏に、他国のひもが付いている可能性はないか。

     他国の人質にされる可能性はないか。気になるところである。)

しかし私の場合には、親同士、家庭同士、外から見たらそれほど大きな差は見えず、
他には、外見と評判、くらいの差でしかなかった。

だから成績差というのは、私にとっては、
ビートとの差異化のために、比重が大きかったのである。


  

〇「弱い者が暴力を振るうのは、相手のことばの攻撃に、
  太刀打ちできないからである。

  従って、暴力の原因は、暴力を振るわれる方にある。
  暴力は、弱い者の正当防衛である。」

・・・ワルタもそう思っていただろう。
   しかしビートと私の場合は、これも完全に間違っていた。


〇「人は皆、素晴らしい。誰とでも仲良くしよう。」

・・・ワルタもそう思っていただろう。
   しかしこれは、本当により良い人間関係を築くのか?


〇「人物を評価する教師の推薦は、学力評価の入試よりも適正である。」

・・・最近の入試傾向はそうなっているらしい。

   そしてワルタも言っていた。
   ハーバード大学は、人物評価を重視する。人物こそが大事なんだと。
   (ハーバード大学って、私はワルタによって知ったのだ。)

   しかし人物評価って、何をもって適正と言うのだろう。


私は、自分の個人的な経験から言うならば、これらは全く間違っている、
と思うのだ。

これらの大義名分を盾に、でたらめとインチキと害悪をまき散らした教師
を知っているのだから。

そしてこの教師は、確信的にその悪事を実行する人間だった。

ワルタは、5年担任や私には、何も聞かなかった。
そして、アンケート調査や心理調査まがいの調査を、全部、間違って解釈した。

誰が子供の目の前で「私よりも偉くなるつもりか」なんて言葉にするだろうか。

誰が、人妻が一人で待っている家に入って、
「私はあなたのような人が好きですよ」なんて、言うだろうか。

一人の子供を、「性格が悪い」なんて決めつけるだろうか。

諸々のことを、あの男は確信的に実行していた。
そしてそれは、実行できることだったのである。


そして私は思う。ビートを切り離すのに、
「勉強」なんてことを言ったのが間違っていた、と。

「これなら誰にでも可能性がある」なんて考えていた自分が、
間違っていた、と。(私は一体何を考えていたのだろう)


お金持ちでないとダメ。ハンサムでないとダメ。博士でないとダメ。
人格の優れた立派な人でないとダメ。優しい穏やかな人でないとダメ。

そう言っておけば良かったのではあるまいか。


成績だの勉強だのと言ったから、差別主義者まがいの評判を呼んだ。

私は、田舎で成績が良かっただけ、という、客観的にはお粗末な存在だった。

それなのに田舎では、それも認識しない、自分を優秀な特別人間だと見なす、
差別主義者と言われたのである。

ものすごく大変な世界だった。


太平洋の波寄する、小さな田舎町の話である。


 追記:ワルタのような男を「ゲス」と言う。
     品性下劣な、いやらしい男という意味である。

     ほとんど死語だが、認識用語として、頭の隅に置いておくべきである。

    「下賤の輩」という言葉も死語だ。しかし品位を保つための、
     意識的否定用語として、頭の隅に置いておくべきである。

       (私も、下賤の輩という言葉も知らない世界にひたって生きてきて、
        自分では忘れたではないか、とは思うが。)


    

付録:父の沖縄脱出「沖縄特殊潜航艇部隊」        

   佐野大和著 『特殊潜航艇』図書出版社 1975年  より            

                                  
私の父は、10代半ば?で海軍志願兵となり、駆逐艦「夕立」の乗組員から、海軍水雷学校を経て、
3人乗りの特殊潜航艇の乗組員となった。と聞いている。

戦後も20年経った昭和40年ごろ、もう20年も経ったのだから解禁だろうという訳で、
終戦間際の生還の話を、した。

  最終地は沖縄。終戦間際、米軍が隙間なく停泊する港から、
  本土決戦を唱えて、修理したボロ船で脱出を図った。

  特殊潜航艇関係者7人と陸軍兵、合わせて20人ほどで、
  台風の近づく波高い夜に漕ぎ出し、米軍の間を抜けるのに成功。

  哨戒機に発見されて機銃掃射を受け、
  漂流中に終戦を超えて、米潜水艦に収容された。

  脱出の指揮を取ったのは自分だ。

そういう話だったが、これを「全部、大嘘だ」という真逆の話を流され、
現在も、父の話は大嘘、そんな事実は全くなかった、と信じている人が大勢いるはずなので、
ここに一つの証言例を書いておく。

脱出の指揮については、私の父が、25歳で最年長、
10年近い軍歴で最古参、だったからではないかと思う。

陸軍に一人、父より年上の人がいたかも、という年齢構成だったらしい。

25歳が最年長だなんて、その父親の年ごろになった頃、私もいろいろ想像してみた。
しかしどうしても、想像力が及ばないのだった。


駆逐艦「夕立」では、或る時の海戦で、マストの見張り台にいて、
敵兵の顔が見えた、というくらいの接近戦に参加していたこともあるそうだ。

「夕立」は、戦史でも幸運の船だった。らしい。



                  
1、沖縄特殊潜航艇基地設営
                                      

1甲標的隊 運天基地の設営

(昭和19年10月10日の爆撃、被害甚大、標的の半分を失う)
                            佐野大和著 『特殊潜航艇』P207
                  
大河艇(甲標的丁型「甲竜」209号)、唐司艇(同210号)、酒井艇(同208号)
が運天港に到着したのは、敵の来攻を目の前にひかえた、昭和20年3月のことである。

しかしわが甲標的隊は、それより約6カ月以前から、
すでに沖縄に進出して、配備を終わっていた。

すなわち、昭和19年8月下旬、鶴田伝大尉(5期艇長)の率いる甲標的(丙型)8隻は、
輸送船に曳航されて、途中、米潜水艦の襲撃を受けることもなく、

じりじりと焼けつくような真夏の太陽の下を、
まず緑したたる珊瑚礁の島、那覇の港に入った。

当時、那覇港は、沖縄本島から内地に引き上げる民間人や、
本島配置となった陸軍部隊でごったがえしていた。

甲標的隊は、港の一隅に停泊した輸送船に横付け繋留したまま、一時の休養をとった。

約1、2週間の後、9月はじめになって、沖縄方面根拠地隊・司令部の指示により
甲標的隊基地は、本島北部の本部地区にある運天港と決定され、全艇、運天に回航した。

名護半島と古宇利島の間に発達した珊瑚礁の間を縫って、せまい水路を入り、
対岸に屋我地島をのぞむ、小さな砂浜のある入江が、甲標的隊基地と定められ、

おりから海軍山根部隊(山根技術大尉指揮)が、設営をはじめたばかりであった。

入江の西側は岸壁で、周辺の石山には蘇鉄が生いしげり、ハブ(毒蛇)が棲息するといわれた。

中央の砂浜からは農道が一本通って、数キロはなれた奥の小さな村落に通ずる、
という辺鄙な場所であった。

従って人家はもちろんなく、対岸の屋我地島という平坦な島に、
癩患者を収容する病院があるのみだった。

この入江からさらに数キロはなれた奥の入江には、魚雷艇隊(司令、白石伸治大尉)があり、
同じく基地の設営がはじめられていた。

毎日、数百名の設営隊(山根部隊)、および、地方から動員された勤労報国隊によって、
甲標的の横付け桟橋、および引き揚げ船台、発電機室、防空濠、宿舎等の建設工事が進められた。

搭乗員、整備員、および基地員、あわせて約150名の隊員は、宿舎ができるまで、

約1キロはなれた高台にある、天底国民学校(内地の分教場にも劣る粗末な木造校舎)に、

前記白石大尉の率いる、第27魚雷艇隊員と同居の形で仮泊し、
朝晩、海岸の基地まで通って、建設工事にあたった。

そして鶴田隊長みずから指揮、指導。
隊員も汗とほこりにまみれて、焼けつくような炎天下の作業に努力した。

かくて10月の初旬にいたり、珊瑚礁の間を縫って泳ぐ魚群が手に取るように見える、
コバルトブルーに澄んだ水の綺麗な海岸に、

緑の蘇鉄にかこまれた美しい基地が、八分通りできあがってきた。その折りも折り、
10月10日の早朝に、突如として、思いもかけぬ、敵機動部隊の空襲を受けたのである。

その日は朝からよく晴れ上がって、10月とはいえ未だ残暑の感ぜられる暑さであった。

一同、国民学校の艇隊本部で朝食をすませて出発し、まさに基地に到着せんとする午前7時半頃、

突如として羽地上空にあらわれたTBFグラマン型艦爆約20機が、襲撃隊形をとって
高度100メートルほどの低空で、在港船舶、陸上施設に銃撃を浴びせてきた。

米機動部隊の近接などは予想もせず、もちろん何の警報も出ていなかったこととて、
全く不意をつかれた形となったのは致し方ない。

その日、運天港には第51北進丸、住吉丸、瑞博丸などの機帆船、
港外には陸軍の輸送艇も何隻か仮泊しており、
敵は主としてこれらの船艇をねらったものらしく、

はじめのうちは、接岸して擬装網をかぶせてあった魚雷艇や甲標的には、
まったく気づかぬ様子であったが、

そのうち入江の奥の方にあった魚雷艇が運悪く敵の一機に発見されて銃爆撃をうけ、
わが方もすかさずこれに応戦したため、かえって敵の攻撃を誘う結果となった。

宿舎からトラックに飛び乗って基地に急行した搭乗員が、
繋留中の甲標的に乗り移ろうと浜辺に出た時、

相次ぐ敵機の爆撃と機銃掃射により、わずか10数メートルの目の前で4隻
(当時の主計長住田充男大尉の記憶では2隻という)の標的が、みるまに撃沈されてしまった。

午前8時過ぎ、敵機はいったん南方に引きあげていったが、
思いがけぬ獲物を発見したからであろうか、

同8時45分頃には、ふたたびTBFグラマン型艦爆約40機をもって第2波の攻撃をかけ、
わが上空において解列しては、一機また一機と、港内在泊艇に銃爆撃を加えてきた。

基地周辺の上空を乱舞しつつ、執拗な攻撃は、午前10時過ぎまでつづき、
魚雷調整場も桟橋も惨憺たる情景を呈し、港内船舶の被害も甚大なものとなった。

正午頃には、さらに第3波の空襲が同型機5、60機をもって行われ、
銃爆撃もいよいよ熾烈をきわめた。

残りの甲標的はすべて嘉手納湾に出て海底に沈座、この攻撃はのがれたが、
魚雷艇はつぎつぎに銃撃をうけて炎上し、陸上施設もほとんど破壊されてしまった。

上空をわがもの顔に乱舞する敵は、ちょっとでも動くものを見つければ、
土砂降り雨を叩きつけるように容赦なく撃ってくる。
そのために、地上での動きがとれず、わが対空砲火は次第に劣勢となった。

そこへ、さらに執拗に約70機からなる第4波の来襲である。

午後1時過ぎの強い日光の直射を背にして来襲する敵機に対し、
わが方の機銃照準が困難であるのとは逆に、

敵の銃撃精度は倍加し、しかも高く上った陽光の下にさらされて擬装効果も半減したため、
被害も極めて大きく、数隻の魚雷艇がまた相次いで沈没した。

午後2時半頃にいたり、ようやく敵機は北東に去ったが、
延べ200機に達するその日の空襲で、基地は徹底的に叩かれ、

爆弾の落ちぬ場所はなかったほど、惨憺たる結果に終わり、
周囲山林の火災も夕方まで燃えつづけた。

せっかく今まで苦労に苦労を重ねて建設してきた基地が、
完成を目前にしてみごとに破壊され、

また一戦をも交えずして標的の半分を失うという結果に、
隊員一同、歯がみをして悔しがったが、如何ともなしえず、

ただ、わが甲標的隊に13ミリ機銃3基があって、よくこれと応戦し、敵一機を撃墜したこと、
隊長以下全員無事で、一名の戦死者もなかったことを、唯一の幸運とするほかなかった。

隣の27魚雷隊基地においても敵の一機を撃墜したが、
ここでは戦死2名、重軽傷10数名を出し、魚雷艇18隻中の13隻を失ってしまった。

もちろん港外にいた陸軍の輸送船は全艇沈没、住吉丸も沈没、
瑞博丸は座洲して、かろうじて沈没をまぬがれた。

また、すぐ近くの瀬底島錨地においては、潜水母艦迅鯨が被爆沈没し、
航海長以下約100名が戦死したほか、

南部地区の海軍の小禄飛行場、陸軍の南、北飛行場等も、相当の被害をうけている。

極秘のうちに建設をすすめていた、いわば秘密兵器に属する甲標的の基地が、
突如としてまず叩かれたことについては、敵の諜報機関の活躍によるものに相違ないとして、
当時種々の噂が流れた。

「夜になると敵潜水艦の乗員がひそかに上陸して島民から清水を求めて帰っていく」
等というのも、その一つであったが、もちろん確証はない。

空襲後、被害の後始末とともに、ふたたび基地建設作業に再起したが、
重要施設はなるべく地下に移すこととし、

発電機室、指令室等はすべて防空壕内に設けることとした。

翌和20年3月、敵の上陸直前の、一週間にわたる大爆撃、艦砲射撃等、
猛烈をきわめた上陸準備攻撃にも、よく耐え抜くことができたのは、そのためであった。

空襲以後は、搭乗員も日の出とともに標的に移乗して湾内に沈座し、
水中信号によって基地と連絡をとり、空襲のないのを確認して訓練をつづけた。

訓練は出撃に備えて、基地から外洋に出る航路の研究、ツリムの調整、
夜間操縦等でいつでも出動できるよう、整備員、搭乗員一体となって、
残る4隻の甲標的は完備されていた。

B29が毎日一回位、雲の上はるかな上空を飛んで偵察しているくらいで、
昭和19年末から20年はじめにかけての運天は敵機動部隊進攻の予想さえなければ、
実にのんびりと訓練のできる平和な基地であった。

「数百人の勤労報国隊員が、島民の常食とする、さつま芋の弁当をひろげる時、
我々軍人だけが米の飯を食っているのが、申し訳ないような気がしてならなかった」

と当時の隊員は述懐している。

基地の周辺には熱帯植物が生い茂り、気候もよく、
農家は砂糖きび、パイナップル、さつま芋などを作っており、
海の水はあくまでも碧く澄んでいたが、

その間にも敵機動部隊は次第に攻撃の目標の輪をせばめ、
沖縄本島にひしひしと迫っていたのであった。



2、出撃命令
                                                    
2攻撃命令発動 佐野大和著『特殊潜航艇』P210

昭和20年3月23日、

やや涼気を覚える早朝から、
はたしてふたたび敵機動部隊の空襲(延約200機)がはじめられた。

百雷の一時におちるような艦爆機の大空襲が、終日沖縄の空を圧したのである。

だが、この日は大河内艇以下、新たに内地から増強された新鋭の丁型(蛟竜)3隻を含めて、
7隻の特殊潜航艇、すべて勘定納湾海底に沈座して、被害をまぬかれた。

湾内の水深は最高12メートルほどである。
しかし、その夕刻、桟橋に横づけして充電中の、渡辺義幸大尉(7期艇長)の艇は、
ふたたび来襲した敵艦載機の爆撃をうけて、ついに沈没した。

艇長・艇付・整備員ともに防空濠に退避したため、幸いに無事だったが、
沖縄の甲標的はついに、会敵前に計5隻をうしなったことになる。

たのむところは、蛟竜をも加えた残りの6隻のみであるが、兵舎も倉庫も消失し、
地上の施設は、今や一物もなくなってしまった。

不気味な緊張のうちにも、翌3月24日の朝が静かに明ける。

早朝からド、ド、ドロドローン、ド、ドロドローンという、
不吉な遠雷を聞くような敵の艦砲射撃の響きが伝わってくる。

沖縄本島南部、あるいは、その周辺諸島に対する砲撃であることは間違いない。

翌25日にかけて、砲声は次第に近く迫ってくるようであり、
その合間にはまたまた、艦載機の銃爆撃がくりかえされる、

という状況下では、敵の沖縄本島上陸はもはや確実、
しかも、今日明日中にせまっている、と考えなければならない。

しかるに、味方航空部隊はほとんど全滅しており、
制空権をうしなった戦闘のみじめさに、隊員一同切歯扼腕するも、

沖根司令部は、満を持して、なかなか攻撃命令を出さない。

上陸作戦にうつる前に、徹底的に地上戦闘兵力を殲滅しておこうとするのが
敵の作戦であれば、

その敵が水際に近寄ってくるまで、あくまでも隠忍自重し、
無駄な対空戦闘によってわが兵力の暴露するのを避け、

劣勢ながらも戦力の温存をはかり、水際で一挙に敵に大出血を強いる以外に、
わが方策はないのであった。

全艇勘定納湾に沈座して砲爆撃にたえるが、
湾内狭しとばかり、いたるところに炸裂する爆発音を前後左右に聞きながら、

水中でおたがいに、僚艇や基地の、無事ならんことを祈るのみであった。

3月25日夕刻に至って、ようやく沖根司令部から、

「甲標的の半数(3隻)は日没後慶伊瀬島南方に散開待機せよ」
との攻撃命令が下った。

指揮下の海上兵力が、敵の砲爆撃で、
破壊されつくさぬうちに、その威力を発揮させるためである。

いよいよ攻撃の時がきた。大浦崎以来心身をすりへらしての激しい訓練にたえて、
はるか南島に進出し、敵の猛爆撃下に身を挺して標的の整備にあけくれてきたのは、
思えばこの日のため、この時のためであったのだ。

待ちに待った攻撃命令である。青白くすみきった桟橋の上で静かに水杯をかわし、
隊員一同の祝福を受けて無言の別れを告げつつも、
勇躍する搭乗員の前で、隊長鶴田大尉は、一語一語かみしめるように訓示した。

 「いよいよ日頃の成果を発揮する時がきた。攻撃は血気にはやってはならぬ。
  じっくり落ちついて敵艦をねらえ。決して命を粗末にしてはならぬ。

  わが方には6隻の標的しかないが、敵艦は無数にいる。
  必ず生きて帰ってきて、 今日までに不幸撃沈された5隻の艇の分も含めて、
  3回でも4回でも、基地の魚雷を撃ちつくすまで、攻撃は繰り返さねばならないのだ。
  諸君の成功を祈る---」

甲標的が外洋に出るためには、湾口にある、水深わずか6メートルの珊瑚礁の、
狭い水路を通り抜けねばならなかった。その潜航は困難であり、
たとえ潜航しても上空の敵機からは丸見えとなるため、発進は夜間と決定した。

蛟竜隊の編成は次の通りである。

第1小隊(3月25日夜出撃)
   1番艇(蛟竜209号)、2200発進  
              艇長 大河内信義大尉、   艇付 青柳吉郎上等兵曹
              藤井正雄上等兵曹  小坂直行上等機関兵曹  松下実男上等機関兵曹

2番艇(蛟竜210号)、2300発進
              艇長 唐司定尚中尉、   艇付 柿沼熊雄上等兵曹
               永瀬政一一等機関兵曹 中野守二二等飛行兵曹 相馬明二等兵曹

3番艇(丙型67号) 2400発進
              艇長 河本孟七郎少尉   艇付 日浦正夫上等兵曹  金近他一二等機関兵曹

第2小隊(3月26日出撃)
   1番艇(丙型60号)、2200発進
              艇長 川島巌大尉、  艇付 鎌形強上等兵曹  高久満一等機関兵曹

   2番艇(蛟竜208号)、2300発進
               艇長 酒井和夫中尉、      艇付 遠藤敬一二等兵曹
              福原勇治上等機関兵曹  和田孝之二等飛行兵曹  松本績二飛行兵曹

  3番艇(丙型64号)、2400発進
              艇長 佐藤隆秋兵曹長  艇付 長野重義一等兵曹  松井成昌上等機関兵曹

第一次小隊の3艇は予定通り、3月25日夜、全隊員の見送りの中を、
一時間間隔で出撃していった。
しかし、大河内大尉の一番艇、唐司中尉の二番艇は、ついに還ってこなかった。

両艇とも、丙型とくらべれば、ずっと足の長い丁型蛟竜である。

どこかの島影にでも無事でいてくれれば、と祈るほかなかったが、
あるいは日頃の訓練状況やその人柄から推して、勇敢に慶伊瀬島付近の敵艦艇群に突入、
攻撃を敢行して戦死したものと推測された。

河本少尉の3番艇は、翌26日に至り、慶伊瀬島の北方5浬付近で敵戦艦を補足、
接近して魚雷二本を発射、命中爆発して水柱の高く上がるのを、陸軍の観測班が確認している。
同艇はその日のうちに無事、基地に帰還した。

その日、天号作戦が発動され、蛟竜隊は全力をあげて攻撃を続行すべき命令が下った。
そこで第二小隊も予定通り、勇躍発進すべく整備に万全を期して夜を待ったが、

夕刻にいたって、またもや敵機の空襲をうけ、折から桟橋に横づけ繋流して
充電中の酒井艇(208号)が、被爆沈没の悲運に見まわれた。

搭乗員、整備員は退避して防空壕にあったため無事ではあったが、ここまできて、
しかも出撃直前、わずか数時間という時に撃沈されようとは、

なんとしてもあきらめきれぬ無念さに、艇長酒井中尉は、
ずんぐりとした小躯をふるわせて、狂わんばかりに口惜しがった。

かくてこの夜の出撃艇は2隻となり、午後11時川島艇、午前零時佐藤艇が、
昨夜と同じく発進していった。
64号艇長、佐藤隆秋兵曹長の手記は、次のようにつづいている。

「 64号艇、予定のコースを航走、二時間おきに観測、位置確認す。

27日1400、残波岬西6浬にて巡洋艦(戦艦と間違う)攻撃、
魚雷一本命中(距離千メートル、 速力6ノット位)、大破(陸軍観測班確認)、
急速潜航、面舵一杯回避す、潜航後間もなく 爆発音を聞く、
深度120メートル、数十回の爆雷攻撃をうける。数回気を失う。

27日夕方電池放電、基地まで帰れず、瀬底島と名護半島の間に浮上充電する。

(陸軍部隊、敵小型潜水艦と間違え、危うく砲撃するところ、ハッチを開き出てきた者が、
フンドシをかけているから日本の潜水艦、砲撃をとりやめたとのこと、基地に連絡あり)、

長野二曹錨を投入するため裸になり艇首の方に行ったため。 28日基地に帰る。」

佐藤艇と同時に出撃した川島艇(60号)も、
翌27日同じく残波岬南西6浬付近に進出して敵戦艦を襲撃したが成功せず、
猛反撃を受けて、特眼鏡をはじめ十数発の被弾を浴びた。

潜水艦にとって何よりも大切な目をうしなっては一切の観測ができず、
攻撃を断念して盲潜航のまま、コンパスと時計のみをたよりに、

敵爆雷の猛攻撃の中で戦場を離脱、基地付近まで帰投、
佐藤艇と同じく28日ようやく基地に帰着した。

この頃には、敵の空爆はますます熾烈を加え、
艇の充電、整備、魚雷装填等は、常に必ず徹夜の非常作業で、
搭乗員・整備員の苦労は、筆舌につくせぬものであった。

隣の基地にいた魚雷艇隊も、同じく27日以後全軍突撃をくりかえし、
巡洋艦3、駆逐艦2を轟沈する戦果をあげており、

これらの奮戦に対しては、佐世保鎮守府指令長官から次の賞詞電報を受信し、
隊員の士気はますます旺盛であった。

「佐鎮281713番電
 第二蛟竜隊(甲標的隊)及第27魚雷艇隊ガヨク戦機ニ投ジテ戦果ヲアゲツツアルハ
大イニ可ナリ、皇土守護の挺身兵力トシテ今後一層ノ健闘ト成功ヲ祈ル」

かくて3月30日午後10時、河本少尉の67号艇がふたたび出撃したが、
途中艇に故障を生じたため、敵上陸部隊の蝟集する嘉手納沖まで行けず、   *下線部・下に説明有り
また会敵せず、翌31日基地に帰投した。

3月31日、特眼鏡が使用できなくなった60号艇長、川島大尉は、
「特眼鏡がなくても、まだ発射管はある。こうなったら双眼鏡と肉眼で、
浮上したまま肉薄して夜間攻撃を行うのだ」

と、あくまでも旺盛な攻撃精神をみなぎらせ、張り切って整備につとめたが、
敵機の空襲を避ける際、岸壁に接触し、浸水のため沈没した。艇長・艇付は無事であった。

(今和泉喜次郎氏は『鎮魂の海』の中で「魚雷搭載中の60号艇が電路故障を
生じて67号艇と衝突し、60号艇は沈没した」と述べている。いかなる資料によったか明らかでない)


3、山岳戦
                                          

3蛟竜隊、山岳戦に移行             佐野大和著『特殊潜航艇』P214

 この日(3月31日)、午前1時37分、沖縄方面根拠地隊司令官大田実少将から
最後の訓示が発せられた。

 「天1号作戦すでに発動せられ皇国防衛の大任を有する我等、
 正に秋水を払い決然蹶起すべきの秋なり、

 それ元軍十万も恐るる所なくしてこれを西海に撃退せし時宗の胆、

 忠烈千古楠氏の訓---(この間不明)---聖将の大信念こそは偲はざるべけんや。
 驕敵今にして撃たずんば止まるところなからむ。

 真に皇国興廃の大任は吾等の双肩にありというべし。
 諸子よく各自の重責を思い尽忠更に訓練を重ね、必勝の信念に徹し、
 真摯自愛勇戦奮闘、もって皇運に副い奉らんことを期せよ。」

しかしわが蛟竜隊はもはや64号、67号の2隻を残すのみであった。

翌4月1日は、風もなく穏やかなよく晴れた日であったが、
午前8時、いよいよ米軍4個師団の兵力が、
本島中部西岸、嘉手納飛行場付近をめざして、上陸を開始してきた。

猛烈な準備攻撃と掃海作業を実施したあとでの、ほとんど無疵の上陸である。

まさに甲標的が最後の攻撃を行うべき好機であるが、

敵の空爆は相変わらず激烈をきわめ、息つく隙もないため、
出撃準備の整備も思うにまかせず、難航するばかりであった。

しかも4月3日には、すでに敵の駆逐艦、掃海艇等数十隻が、
掃海作業でもはじめたのか、旗旒信号を掲げつつ、
備瀬崎、古宇利島を結ぶ線を傍若無人に遊弋しはじめた。

いよいよ、運天港にも上陸を開始してくることは確実と見えた。

翌4日には敵艦艇は距岸2キロ付近まで近接しており、砲撃こそしてこないが、
艦内のアナウンス等が聞こえるぐらい近いので、薄気味悪いことおびただしく、
艦艇の双眼鏡で見れば、わが方の人員の動きまではっきり見えていたに相違ない。

今まで沈黙を守ってきた陸軍の砲台から、
今一斉に砲撃すれば、敵艦艇全滅は間違いないのだが、

徹底的な空爆でほとんど破壊されてしまったとみえて、その気配もない。

4月5日夜に至り、ようやく残った2隻、佐藤艇(64号)と河本艇(67号)の整備が完了し、
最後の出撃をする。

攻撃目標は敵の輸送船を第一とし、第二に航空母艦、戦艦をねらうこととしたが、
2隻とも警戒厳重な護衛艦艇のため、敵輸送船団に近づくことができない。

やむをえずなるべく大型の護衛艦をねらって攻撃を実施したが、
魚雷は命中しなかった。

4月6日、2隻は基地に帰投したが、その頃の運天基地は、
3月末以来の間断ない空爆のため、潰滅的な打撃をうけていた。

いたるところ爆弾の跡で掘り返され、
美しい緑の草木に囲まれていた施設はみるも無惨な焼土の景色と代わり、
基地としての能力も、ほとんど失われていたのである。

しかも本島に上陸した米軍北上部隊は、早くも運天港に近づきつつあり、
隣の第27魚雷艇隊では、すでに陸戦移行の準備を進めていた。

かくて4月6日夜、沖縄方面根拠地隊司令部の命により、鮫竜隊も基地物件を破壊、
2隻の甲標的(中1隻は行動不能)を処分し、食糧兵器をトラックに満載し、

第27魚雷艇隊(隊長白石大尉)とともに陸戦に移り、
八重岳(標高457メートル)の陸軍部隊、国頭支隊長・宇土大佐の指揮下に入ることとなった。

沖縄蛟竜隊の攻撃はかくて終わったのである。
陸上の山岳戦にうつってからの蛟竜隊の編成は次の通りである。

隊長 鶴田伝大尉 中隊長 川島巌大尉

第一小隊長 池田賢一少尉、第二小隊長 阿部充孝少尉、
第三小隊長 中島成治少尉、第四小隊長 松井兵曹長

八重岳は峻嶮で、頂上付近では春の冷気が感ぜられ、霞がかかって、
戦さえなければ仙人でも住みそうな気配であった。
しかし谷間に兵舎が散在し、陣地は幾重にも構築されていた。

この天嶮によっていた陸軍の国頭支隊というのは、
沖縄へ進出の途中輸送船が沈没したため、
少数の重機、軽機、小銃、擲弾筒を保有するのみだった。
そこで、対戦車用爆雷、竹槍等をもって徹底的に抗戦する方針をとっていた。

わが蛟竜隊はほとんどが小銃武装をしている上、13ミリ機銃3機を保有していたので、
東斜面の敵来攻の道路に一番近く配備された。

圧倒的優勢な火力を誇る敵の進出に抵抗する手段は、
とりあえず街道の松並木を路上に爆破し、
または橋梁を破壊して、その進出を阻止することであった。

しかし4月7日から8日にかけて、
八重岳山麓の三叉路における戦闘で、早くも第一小隊長池田少尉以下12名が戦死し、
河本猛七郎少尉が代わって第一小隊の指揮をとった。

しかし兵器の優劣は何としてもおおい難い。
わが38式歩兵銃一発を撃つうちに、自動小銃によって2・30発の敵弾が集中してくる、
という現実の前で、蛟竜隊はみるみるうちに兵力を消耗していった。

4月10日以後、戦闘はさらに熾烈となり、
13日砲撃に飛行機の対地射撃をも加えた敵の猛攻がはじまり、

軍刀片手に陣地を飛び出して斬り込みに向かった川島大尉も、
迂回して敵陣に肉薄せんとする途中、腹部を迫撃砲弾に貫かれて
壮烈な戦死をとげた。

かくて、17日までの戦闘で、さらに河本少尉、松井兵曹長等をはじめとする、
多数の戦死者をかぞえなければならなかった。

9期艇長とは同期の3期予備学生出身、海軍工機学校を経てP基地に着任、
整備の分隊士として、大河艇、唐司艇とともに3月3日大浦崎を出撃、
ここまで転戦してきた第二小隊長阿部充孝少尉も、

4月18日、呉我山アザナバル山頂で、米軍から奪取した自動小銃を撃ちつくした後、
敵の包囲の中で、みずからの拳銃で潔い自決をとげている。

昼間は敵機の跳梁にまかせる他なく、はげしい爆撃と機銃掃射の下では身動きもならぬ、
となれば、夜間斬込隊を編成して敵の野営地を襲撃する以外にない。

爾後、戦闘は次第に、夜間斬込による野営地攻撃に移った。

敵は学校等の建物を宿泊に利用し、鉄条網を幾重にもめぐらし、
また通路には細線を張り、触れれば照明弾があがる、という防備を施し

あるいは校庭の広場に天幕を張って露営するが、周囲には塹壕を堀りめぐらし、
地雷を附設するなど、厳重な警戒体制の下にある。

この敵陣攻撃にあたっては沖縄護郷隊の活躍があったことが忘れられないと、
佐藤隆秋氏は回想している。

護郷隊は小学生または中学生の隊で、もとより土地の事情にはもっとも詳しいから、
ゲリラ戦には非常によく働いた。

昼間のうち敵の駐屯地に遊びにゆき、兵器、人員、通路など、
かなり正確な敵状を探ってきて報告する。
日没後の斬込隊に参加させてくれ、というものもある。

今帰仁の敵陣を攻撃した時は、二隊に分かれ、一隊は渡辺義幸大尉、
一隊は佐藤隆秋兵曹長が指揮をとり、夜陰にまぎれて出発。

途中ものすごい雷雨にあって、河をわたるのに胸までつかりながら6キロ近く歩いた。

大雷雨のおかげで校庭の塹壕は水びたしとなって寝られず、
敵兵は皆校舎に移動しているらしい。

校内には歩哨がいるが、その目を盗んでわが兵2名がしのび込み、
校舎の床下に爆薬を仕かけ、点火して引き上げる。

大爆発と同時に敵兵が校舎から飛び出し、右往左往するところに機銃掃射の雨をふらせ、
擲弾筒を打ち込み、百名以上殺傷という戦果をあげたりした。

しかし、もちろんわが軍不利の戦況が大勢において変わるべくもない。

4月19日には第二陣地とした乙羽岳(八重岳の北東約6キロ)をも撤退、
第三陣地の久志岳(本島の中央部、名護の南方約6キロ、標高341メートル)に転戦した。

4月21日までに久志岳に集結した鮫竜隊は、隊長鶴田大尉、渡辺大尉、三好軍医大尉、
酒井中尉、中島少尉、佐藤兵曹長等6人の士官および下士官59名に過ぎなかったが、
翌々23日に至り、後からたどりついた飛沢上曹以下26名がこれに加わった。

しかし食料も弾薬ももはやほとんど底をついていた。

4月22日から25日までの戦闘で、またまた三好軍医大尉他6名が敵迫撃砲を浴びて戦死し、
さらに5月1日以降、河本少尉にかわって第一小隊の指揮をとっていた酒井和夫中尉他13名
が次々に戦死していった。

食料、弾薬がなくなれば、部隊として集結していることができなくなる。

5月末に至って、鶴田大尉は部隊を分散せしめる決意を固め、

 「気の合ったもの同志、グループを作り、援け合って食料を探し、
  成し得れば敵の兵器弾薬を手に入れて斬込隊、ゲリラ戦等の方法により、

  友軍が沖縄奪回にやってくるまで持久戦によって攻撃を続行する。

  さらになし得れば、丸木舟を探してでも、機を見て沖縄本島を脱出し、
  再度蛟竜を駆って敵艦に攻撃を加える」という方針を示した。

これが沖縄蛟竜部隊の最後であった。

隊員たちは三々五々として次第に分散していったが、
当時畑という畑には砂糖きびもなく、さつま芋もない。

蘇鉄の木をかじって常食とするような状態で、次第に栄養失調や下痢になやまされ、
歩行も困難となりながら、いずれも敵部隊を攻撃、
優勢なその火力の前に戦死をとげていったと考える他はない。

鶴田大尉は、南部戦線小禄地区の沖根司令部にこのことを報告する責任を感じ、
隊員の分散を見届けた後、直ちに単身敵陣地を突破して、南部戦線との連絡を決意した。

内地を出る時から、艇付として常に隊長の傍にあった篠原敏明上曹が、
敵陣突破は非常に困難で、むしろ無謀ともいうべきことであり、
是非思い止まるように進言したが、

沖縄蛟竜隊員戦死者名簿等の書類を佐藤兵曹長に渡せといい残し、
敢然として南に向かって出発していったという。

おそらく南部の敵陣に突入して、壮烈な戦死をとげたのに相違ない。
6月7日のことであった。

その後、佐藤兵曹長は北方に向かった。
しかし当時、沖縄本島の各道路は、両側数百メートルをすべて焼き払って見通しが効くようにし、
また海岸という海岸の船舶は、小舟に至るまでことごとく破壊して、日本軍のゲリラを防ぎ、
本島よりの脱出も、南部戦線への斬り込みも、ほとんど不可能な状態にあった。

約40日余りを経て、本島最北端の辺戸岬にたどりついた佐藤兵曹長と伝令の山田機関兵長は、
途中で落ち合った陸軍中尉と報導班員の四人で、付近に隠してあった小舟を発見し、
7月7日夜に入り、これを海岸までかつぎ出して、脱出をはかった。

ようやく沖に出ようとするところを、辺戸岬の敵探照灯に照射されて砲撃をうけたり
(4月21日以降敵は辺戸岬にレーダーを設置している)、

敵哨戒艇に発見されて機銃掃射を浴びたりしたが、
高波で海が荒れていたのが幸いして、翌8日早朝、九死に一生を得て与論島に漂着した。

さらに翌日陸軍の大発艇で沖永良部島に着き、陸軍の二人と別れて数日後、
徳之島を経て奄美大島に帰着、回天特別攻撃隊に配属され、
回天基地設営に従事しつつ終戦を迎えた。

しかしそのわずか一日前、8月14日の空襲で、不運にも山田実機関兵長は戦死したという。

八重岳から乙羽岳、さらに久志岳に転戦し、ついに優勢な敵軍の前に分散していった
鮫竜隊の他の勇士達も、いずれ劣らぬ惨憺する戦況の中で死闘をつづけ、
次々に戦死していった。

昼は山中に隠れて転々とし、夜は数人ずつで行動したが、
二日も三日も雨の降り続く山中で、蚊とハブに悩まされ、

敵軍の毎日の山狩りをのがれてゲリラをつづけるということは、
人間能力の限界を、はるかに超えるものであった。

                             以下、「父の沖縄脱出」に続く


父の沖縄脱出

         *平良は沖縄本島の北部。東村あたりを拡大すると、平良湾が出てきます。
          米艦が数百隻はいた、というのが納得できるような大きな湾です。
          検索すると宮古島が出てきますが、そこではありません。

以下は舟を発見し、父と共に沖縄を脱出してきた人の話。


特に徳永道男兵曹は、4月はじめ、八重岳における最初の戦闘で右手右顔面に爆傷、
右膝に打撲傷を負い歩行困難となりながら、

移動する部隊の後を追って強靱な精神力と鍛え抜いた肉体力をもって孤独と絶望を克服し、
よく百日以上を山中に生き抜いて、

8月2、3日頃、平良部落付近で石灰運搬用の曳船(幅2メートル、長さ6メートル程)を発見し、
蛟竜隊の戦友7名、山中で一緒になった陸軍15名とともに脱出をはかった。

平良の山中で帆柱を切り、陸軍のもっていた毛布と敵の通信線で二枚の帆をつくり、
オールも10本用意した。

夜9時頃、満潮時を待って、砂の中にかくれている曳航船を掘り出して深夜の海に浮かべる。

 しかし海上には敵艦艇群がいたるところに停泊しているので、
発見されずにその間を漕ぎ抜けて沖に出るのは、
至難というより不可能に近い。

運を天にまかせて死力を尽くして漕いだが、風はまったくなく潮流にわざわいされて、
平良の港外に出るのに5時間を費やし、夜明けが迫ってきた。

 夜が明ければもはや絶望的である。各人は最後の時に用意した手榴弾をもう一度確かめてみた。

ところが幸か不幸か、夜明けと同時ににわかに強い東風が吹きはじめ、
驟雨をともなった台風に襲われて、
目の前にこうこうと輝いていた、敵艦艇の電灯も見えなくなるほどの大暴風雨となった。

15メートルから20メートルの風に翻弄されて、
船は10ノット以上の速力で一日中突っ走り、その日の夕方大島の見えるあたりまで流されたのである。
しかしこんどは荒れ狂う激浪が敵となった。

 もとより不完全な舟はたちまち浸水をはじめる。
食料もなく水もなく約一週間も漂流をつづける間に、
台風の去った海上を哨戒する敵機の銃撃をうけること三日間、

小舟の上は鮮血に染まり、そこここに肉片がこびりつき、真夏の直射日光がギラギラ照りつける下で、
頭髪が半分しかなくなった戦友も戦死していった。

かくてほとんど半死の状態で、九州五島列島沖約60マイルあたりを漂流しているところを、
敵潜水艦に発見救助され、二世の通訳で終戦を聞かされた時は、8月17日であった。

                              佐野大和著『特殊潜航艇』図書出版社1975年



              *** 昔、父のことを少し調べていた時に、
                   共に脱出した方と連絡が取れて、
                   手紙を頂いた事がある。

                   ネット検索で、朝日新聞広島支局発信のニュースに、
                   徳永氏の講演会?の記事があって、

                   記者の方に連絡したら、徳永氏の住所を送って下さった、
                   というような経緯だったと思う。

                   ここには、私の父が脱出の指揮を取っていたことが、書いてある。

  徳永氏は、私の父が脱出の時に指揮をとっていたのは間違いない、
  と、手紙に書いてきてくださった。

    「 沖縄脱出も、5期講習機関科教官佐藤満上機曹(死去)等による考えも、(私注:考えでも?)

     正夫氏は常にリーダーで、帆のつくり方、オールの作成、水、食料の確保、数日分の用意、又、舟の破損部分の修理等、

     脱出については、コンパスによる方向、沖縄本島から、東北、どこにどんな小島があるか調査していた。

     脱出については、陸地にいても心身ともに極限状態、いずれ死ぬ、

     海軍軍人であれば、海の上で死ぬも本望であるの結論(10パーセントの希望)

     荒れ狂う海で、舟の舳先に立って、褌一枚驟雨の中、

     「とり舵いっぱい」で大声で指揮をとるのは日浦正夫、今も目にうかびます。」



 日浦正夫という名前は、父が実家に成人養子として北海道からやってくる前の姓名である。
 大正9年生まれ。

 添付の特潜会報(昭和61年4月5日)では、「数百隻にのぼる敵戦艦の間を脱出できた」とある。



同じく添付の自筆資料には、山岳戦の様子を、以下のようにも書いておられる。

   「生きている日本兵を、米軍は連日のごとく、沖縄住民を案内人とし、軍用犬を連れて山狩りをする、
    そして銃撃戦を繰り返す、

   食料なく、夜は蚊の大群になやまされ、
   マラリヤにおかされて41~42度の高熱でけいれんを起こす者、
   また、有る者は猛毒のハブにかまれて数時間で意識がもうろうとなって死に至る。

   草を食い、沢がにや、谷川の魚を食う、激しい下痢、傷口にはウジがわき、その肉の腐敗臭はやりきれない。

   髪もひげも伸び放題、ほほはこけ、目は血走り、あかと血によごれた形相は、正にこの世の鬼の姿なり。」                    

                   

*****
二回目の出撃で、故障による危機を脱出した時の話がないので、その話を、
兄の記憶によって追加する。


2回目の出撃は敵に発見され、

爆雷を受けて沈み始め、
排水可能な70メートルを超えて沈んだ。

海底で着座。艇長はあきらめて自決しようとしたが、
モーターをかけてみると、モーターがかかった。すると電気系統が復活した。

70メートルを超えて上昇し、排水できるようになった時、
今度は全力排水になってしまった。

止めようとしたが、海上に飛び上がってしまった。

それで海面下に引っ込めて、沖縄から外洋方面に向かって逃げ、
敵は島の方へ行ったので助かった。

戻って来るのに時間がかかった。

      *この時、モーターを復活させたのは父親だったそうだ。
        その話を聞いたのは、私が高校生の時だった。兄もいた。

        その操作の復活理由が、私の科学の知識が豊富だったその当時、理解できたのだが、
        今は何の話だったのか、全く思い出せない。

        特殊潜航艇を写真で見ると、とても不安な気持ちになりそうだ。
        あの昔に、あんな物の中に入って、100メートルの海底に沈んで絶望的な状況で、
        とっさの判断で浮上させたのは、やはり異常な力なのだろう。

*****
父たちが米軍潜水艦に収容されて、連れていかれた所は、グアムだった。

そのグアムに、父の乗った特殊潜航艇が置かれていて、
何とも言えない気持ちだったそうだ。

海底に沈めたらしかったのだが、引き上げて、グアムまで持ってきていたらしい。


グアム 特殊潜航艇 で検索すると、写真がいろいろ出てくるではないか。
しかし丙型67ではないようだ。丙型67はどこへ行ったのだろう。


 山中ゲリラ戦で67名が戦死したそうだ。

図書館にあった本『沖縄戦敗兵日記』には、特殊潜航艇基地があった運天港の為朝碑近くに、
軍の食料備蓄があったとある。
それが使えたかどうかは、以上の手紙の内容では、読み取れない。

 そう言えば、私の父は、片手でヒョイと蚊を捉えるのだった。
実に巧妙で、家族もまねしてみるのだが、難しかった。

マラリアにかかるのを防ぐのに、この特技は、役に立ったのだろうか。

家族として、父について特に証言できることと言えば、父は、筋骨隆々の、
人並み外れた体の持ち主だったということである。あのような体をした人は、身内にはいない。

 指先に至るまで筋肉、といった、ものすごい体だった。
 両手の5本指を立てて、かなりのスピードで指立て伏せ?をするのを見たことがある。

 普通に手のひらで腕立て伏せをすると、これが猛スピードで、まるで機械のようだった。
 永遠に続けられるのかと思うほど、いつまでもやっていられた。

 しかし父親と私は35歳違う。だから、父親の若いころ、と言っても、
 私の記憶の中の父親は、40歳に近くなっているはずである。

 脇腹に貫通創があった。日焼けしていない部分は抜けるように白かった。
        

一回だけ、敬礼の姿勢を取って見せたことがある。これだけだって半端なものではなかった。
バシバシっと、空手でもやっているようだった。

自動車の運転免許を取った時は、自分で学科教本を独学して、空き地で運転の実技を練習した。
そして県警本部の試験を突破した。

お金を使わないようにした、こともあるだろう。
しかし、特殊潜航艇乗員としてのプライドもあっただろう。

製材所で丸太を担いだりしていた父親が、実は、映画『ターミネーター』に出てくるシュワルツェネッガー
みたいに、機関銃をあやつる男だったと見えてきたのは、父親が亡くなってさらに、相当時間が経ってからのことだった。

(もちろん、殺人鬼のターミネーターではなくて、サイボーグと見紛うような怪力男、という意味である。)


母親が崇敬していたワルタが、家庭訪問で母親に、
  「私はあなたのような人が好きですよ。愛嬌があって可愛らしくて」
と言っていたと、父親に言ってやればよかった。




      
【考える】


20231210

クラスには、特段の富裕者(地域一帯では大金持ち)で政治家の関係者、
医師の娘2人、学校の先生の子供が二人、
その他は漁業、商業、銀行員の子供、何か公務に類する家の子供、
等々がいたと思う。

引っ越しを伴う職業の家の子は、この地の人ではない。

この中で、よろず屋に養子に来て製材業を始めた、荒業主体の
学歴のない夫婦の娘なんて、

それだけ知ったら、馬鹿にするしかなかったのかもしれない。

母親は買い物に行って、愚痴をこぼすでしょ。その子供が、
嫌味に知識をひけらかして出っ張るのである。

底辺の子供は底辺に、叩きつぶして置こう、
という意思が見えないでもない。

ここで取り上げた「基準」は、親の職業・経済的位置、
予想される知的レベルである。

私が思考基準にしたのは、母親がいいと言った身内のレベルであって、
よろず屋や製材業や自分の親たちではない。

しかしそれは教師には、何によってわかるのか?

4年時担任の近所の女先生は、私の身内のことは知っていたと思う。
伯母たちは、メイン家で育って、女学校や師範に通った。

最近思い出した、あの伯母の口ぶりからすると、
人が畏怖するような所を、匂わせていた可能性がある。

しかしそれは、女先生が人に周知するべきことか?

寺島弘隆が私を見た時、私は愚か者の底辺の子供にしか、
見えなかったのではないか。

これは、成績は無視して、現状の大人の田舎社会を、
子供に反映させようとした、

ということになるかもしれない。

成績を無くす、というのは、見目形と現状の親社会、
で子供を判断し、子供同士でも、その傾向が強くなる、

ということではあるまいか。  寺島弘隆 寺島弘隆 絶対に許さない。



20231210
私が強く影響を受けたものの一つに「いろは歌」がある。


 世の中には、いろいろ派手で目を引くものがあるけれど、
 それらはやがて、散ってしまうものである。
 (いろはにおえど ちりぬるを)

 今は華やかでも、それがずっと続くとは限らない。
 (我が世たれぞ 常ならん)

 いろいろなことを奥深く分け入り、今日はそれらを踏み超える。
  (有為の奥山 きょう超えて)

 浅い夢を見るものではないよ 酔ったりしないで。
  (浅きゆめみし えいもせず)

私はこの歌を、大体こんな意味で受け止めた。そして思ったのだ。

ここで浮かんできたのが、遠い昔から続く、地球社会の栄枯盛衰だった。

こういう言葉で考えたのではなく、イメージとして、永遠の過去から続く
人間の生死の繰り返しの中の、自分の命、ということだった。

その中の自分が、生きたと思えること、とは何か。

権力者として名を留めるのも、空しいように思われた。
たいてい、すぐにひっくり返る。これではあまり意味がない。

この頃私は、すでにそういうイメージを持っていたことになる。
小学校でも、6年より前だったことは確かだ。

確かな事、確実な事、多くの人が知って身に付けて、役に立つこと、
を、残せて人が生きるのに役に立つならば、

それが、自分が生きた、有意義に生きた、ことになるのではないか。

いつ思ったのかははっきりしないが、小学生の時だったことは確かだ。

母方の祖母が、マンガの「おだいしさま」という本を、
お土産にくれた時のことだから。

おだいしさまが「いろは歌」を作った、と、紹介していた。


しかしその思いの実践が、いかに困難を極めるものだったのかは、
私がその後、たどった足跡を考えれば、よくわかるではないか。

みんな、お金持ちになったり、社会的に名をはせたりすることが、
有意義な人生の道だと思っていて、

私もそう思うだろうと、期待する。
あるいは、私がそうしようと思っている、と考える。

だから、悪の「私」がすることは邪悪だと判断して、叩き潰そうとする。


あるいは、女の道は「裁縫始末炊事洗濯掃除、年寄子供老人の世話」である。

そういう実際に役に立たないことは、空中散歩しているような無駄なことで、
おろかで馬鹿で、何の役にも立たない、社会のお荷物だ、と思ったりする。

これほどバカバカと言われ続ける人生になるなんて、思っても見なかった。
しかし私は、これで良かった、と、ほっとしている。


20231211

小6の時に知った、戦前の天皇神様論国家の状況は、
社会というものの成り立ちに、深い疑問を抱かせた。

私は、すでに持っていた地球概念、また、エジプトの神なる王が消えて2000年、
などという所から出発して、

戦前の国家的状況を知って、ギョッとしてしまったのだ。
それは、社会的には、決して表に出せないものだった。

しかし、社会構造というもの自体への疑問となって、
延々と私の意識を縛り続けるものになった。

そこへ、大学2年時に、東大教科書の、自然科学は歴史に関係なし、
という文言に出会って、また衝撃を受けた。

そして、当時、まだ大学でしっかり健在だったマルクス主義が、
自分の科学と、全く違うものであることに、

またショックを受けてしまったのだった。

つまり、私の世界観形成の動機は、反面教師としての天皇神様論だった、
ということになる。


映像技術の発達の影響も見逃せないだろう。
私は、フィルムの早回し映像で、この世界の連続をイメージした。

また、小学校低学年で、航空写真による、上空から見る自分と身辺世界、
というものを感知した。

これらは、戦前には全く一般的ではなかったし、戦後も、
グーグルアースが確立してくるまでは、
長い間、人の脳裏には浮かばないものだった。


人間社会は、球体の表面に水平に広がるものである。日本社会もそうである。

ここで、人の「頭の中」にある複雑な社会構造を、
無数のピラミッド型構造の組み合わせ、として考えてみよう。

そのピラミッド型構造の概念は、教育や、社会システム自体や、
社会全体をおおう偏在情報の連なり・重なりや、メディア情報からやって来る。


その中で、例えば学問の世界で言うならば、私は入学前に、偏差値というもので、
大学のランキングを知ることになった。

それで見ると、私が目指した大学は、全国でも最低あたりなのだった。
同じ専攻の人たちが、上の方に夥しく存在している、と、私は思った。

しかし今、それを考えると、あの上の方に夥しくいた人たちは、
一体どうなったのだろう、と、思うのだ。


戦前、東大国史では平泉澄が、天皇神様論で人々を煽って、
天皇陛下のために死ね死ね、と叫んでいたらしい。

大学時代は、そのことについては、ほんの少し予備にかじったくらいで、
あまり良く知ることはないままだった。

だから、平泉澄の話は、ずっと後からである。


小学生の私が「そんな馬鹿な」と思った天皇神様論を、

戦前、日本の学問の頂点に立っていた、と言える人物が大宣伝して、
それを皆が信じて、ついて走ったのだ。恐ろしい話である。

その影響力は、当時はまだ日本では、ふわふわと存在し続けていた。

この、大学での学問とは何か。

国語・数学・理科・社会・英語と課題科目がある。その成績は、
大学で、一体どうなっていくのだろう。

あるいは、一体どうなっていったのだろう。



20231216


昭和40年記念・読売新聞縮刷版が我が家に来てから1年の間に、

小5の時の歴史クラブの「断片的」な郷里の歴史事情の他に、
物語も含めて諸々の歴史情報が、頭の中に入った。

そして、第二次世界大戦の知識で世界に興味を持った私は、
クラスメートと競争で、世界の国と首都の名前を覚えた。

傍から見ていたら、何て、分不相応で生意気で嫌味で、余計なことを仕掛けるのか、
という感じも、したかもしれない。

小5の女の子たちが、世界の国と首都の名前を覚える競争をしているなんて。
当然のことながらビートを含む男子は圏外だった。

この頃私は、覚え残したのは、アフリカの半分くらいと、中東の小さな国々のいくつかで、
他は、世界中の国家と首都の名前を覚えたのである。

  (その結果が、寺島弘隆が家庭訪問で言った「家の中の事に興味を持たせろ」
   という脅迫だった、ような気がする。

   家の中の事に興味を持たせるというのは、しかし、結果的には、
    親の、私に対する、手伝えという怒声による命令を生み、

   それへの反撃として、親夫婦の人間性や不仲に興味を集中させ、
   親を批判することにしか、つながらなかったと思う。)


そして、今思い返して私が周囲と少し違ったのは、『ロンドン塔』という本
ではあるまいか、と思う。

これは、わずか9日間だけイギリス女王になって処刑された、
ジェーン・グレイの話である。

父親が市内へ行った時のお土産で、あの父親が、
何の話か知っていたはずがない。

ゾゾっとする権力闘争の話ばかりで、私は、人には全く勧める
気にはなれなかった。やめろと言った記憶がある。

他の本は人にあげたりしたけれど、
おかげで、多分、今でも家にあるのではないか?と思う。

結婚して東京に来てからも、帰省時に家で見た記憶がある。
これが残ってる、と。

私はこの本で、エリザベス1世が、生きては出られない、
と言われたロンドン塔に収監された後、女王になったことを知った。

ヘンリー8世、メアリ女王、エドワード6世(王子と乞食の主人公でもある)、
エリザベス1世。

こういう人たちに混じって、一瞬、女王に担ぎ上げられた、
16歳の少女の話である。

イギリスではあるが、人間がトップ争いをしている話は、
田舎の底辺でモゾモゾしている私にも、

トップは人間だ、と思わせるに足るものだった、と思う。
それから小6になって歴史の勉強が始まった。

小6の夏休み、寺島弘隆が言うのだ。

中学の先生との連絡会!で、歴史の理解を深めるのに、
年表を作らせてみては、という提案があったから、と、

夏休みの宿題として、歴史年表を書く、というのが課された。

私は興味を持って、長々と紙をつなぎ合わせて年表を作った。
成果として貼りだされたのは、私と、もう一人、
学校の先生の子供だった、と思う。

他の人はどうしたか知らない。しかし、この出来栄えに、
寺島弘隆でさえ、感心したようなのを、私は見て取った。

家庭訪問の暴言の羅列の後だ。もうどうしようもない事態が進行し始めて、
止めるものがなかった。

私は寺島弘隆を決して許さない。

私はこの年表作成作業の中で、古墳時代が350年間も空白なのは、
おかしいと思った。

   *350年を、後の時代の、例えば奈良・平安・鎌倉・室町・戦国・江戸、
    などの時代の長さと、同じ比率で表に書こうとすると、
    年表の紙の幅がやたらと長くなるのだ。

    だから普通は縮めて書く。しかし、後の時代の記事量から予想される
    事実量というものが、「何もない」というのは、あまりにもおかしな事態だった。

    何もわかっていない、とは言え、奈良時代には突如として漢文を操る全国政権
    が登場する。この弥生時代と奈良時代の間の空白は大きすぎた。

   
何も知らない6年の歴史授業の始めの頃、初めてみる古墳の分布図を見て、
この古墳の被葬者の子孫は、後に何になりますか?と質問された。

  (今思うと、これも気になる質問の仕方ではある。私の祖母は、
   メイン家は古墳の被葬者のシソンだ、と言ったような人だった。

  過去に、メイン家か誰かが、古墳の被葬者のシソンは何になるか、知っているかと、
  問題を投げかけてきた経緯があるのではないか、と、そんな気もする。)

私が指名され、私は、武士になると思います、と答えた。ところが寺島弘隆は、
「それはわからないんだねえ。それはわからない、というのが答え」だと言う。

  (私が指名されたのだ。)

余談だけれど、ずっと後に妹も、同じ質問に同じことを考えたらしい。
それに対して私は、寺島弘隆と同じ答えを返した記憶がある。

いまでも学校では、そのように「誘導」しているのだろうか。

今というのは、長い時間の中の一瞬である。地球で人類が発生して、
それから、空中写真で見るような地表世界で、人間は社会を営んできた。

私が仕入れてきた情報では、それが基本でなければならなかった。

ギリシャやローマの時代の知識もかじっていたが、
それは古墳時代より前の話だ、くらいのことは、せっせと認識の中に組み込む。

カッコイイと素朴に思ったアルキメデスやピタゴラスなんて、
古墳時代より遥かに昔の人だ。

中国で初めて巨大な帝国を作った秦だって、遥かに昔のことで、
その頃の中国では、盛んに人の活動の記録が作られていた。

それなのに日本では、古墳時代は空白だと言う。とても変だと思った。


そうこうしている内に、学年の終わりに近くなったのか、
戦時中の事を親に聞いてくるように、という課題が出され、

母親からは、国民学校時代の天皇神様論を、目を輝かせながら
長々と得意気に聞かされて、ギョッとすることになるのである。

多分私は、ものすごく変な顔をしていたのだろう。
多分それを、母親が買い物時などに、ペラペラしゃべったのだろう。


「家で戦時中の話を聞いた人?」「はーい」とほとんどが手を上げる。

そして「家で、どんな戦時中の話を聞いてきましたか?ハッピーさん。」
なんて、私が指名されるのだ。

「はい、立って。答えてください。」

私は立ったまま、何も言えない。

(あんな戦前の学校での天皇神様論、言えるわけないじゃない。

 授業の流れからすると、戦時中の苦しい暮らしや、戦争忌避の話
 を聞かなければならなかったはずなのに。)

別の人も立たされたまま、何もしゃべらなかった。

戦争は良くないことでした、と、そつなくまとめたのは、
学校の先生の子供だった。


その後、寺島弘隆は、かくかくしかじかで、
  「戦前は天皇陛下は神様だったんだね。そう思う人?」
と生徒に聞いた。

私以外の全員が、「は~い」と手を上げたようだった。

私は、他の人たちが、全員手を上げているようなのを見まわして、
腹の中でうなるばかりだった。

戦前、天皇が神様だった、なんてことはあり得ない。
戦前だって、天皇は人だっただろう。

こんなとんでもない話が、社会の根本になっている状態なんて、
あり得ない。

そして私は、この不気味な状態が今も続いていることについては、
よく承知していたから、


こんなことを考えている自分は、
果たして生きて行けるのだろうか、と、ゾッとした。

黙っていればわからない、と思い直したし、
他人が大ごとにするようなことはしないだろう、

という方に賭けた。そして完全に仕舞い込んだ。



今思うと、私が天皇神様論を否定する考えを抱いたのは、
単なる、知識の集合の基礎による、と思う。

親たちが決して身に付けることがなかった知識を、私は早々に習得していた。

母親が語った天皇神様論の世界では、天皇は、見ることも許されないような、
完璧に神聖で、はるかに仰ぐ、神そのものだった。

それと、私が地球の国々を眺めまわし、トップも人間だ、という意識
を持っているのとは、極端に乖離していた。



私と家族が、その関係を悪化させ、それを見て、

 見ろ、ハッピーの性格が悪い、家族がぐちゃぐちゃになった、
 見ろ、愚か者の家族よ、私には先見性があった、

と、寺島弘隆は凱歌をあげたのではないか、と思う。
そして、はるばる(実際は近くだが)、高校まで進言に来た、ような気がするのだ。

寺島弘隆、絶対に許せない。




20231218


私は、この時母親がしゃべったことを、漠然と、みんな知っている、
ということにしてしまっていた。

そして、私の戦前教育の知識が、この時に母親が喋ったことだ、
ということさえ、長い間、忘れてしまっていた。

順序で行くと、母親がしゃべったことを、
寺島弘隆が教室で繰り返したのだった。


人の記憶、世代の違いによって、手にする情報の違い、
頭の中の世界像の違い、より正しい世界観とはどのようなものか。

多分私は、普通の人より、少しは歴史の知識があるので、父親や母親、
祖母、伯父、伯母、その他の人々の生きた世界を、

背景説明に加えながら、理解できるだろうと思う。


私はその時まで、母親が弁舌を振るう光景を、見たことがなかった。
ところがその時は、目を輝かせながら、長広舌を振るったのである。

何の話だったかと言うと、戦前、天皇陛下は現人神(あらひとがみ)
と言われて、神様だった、という話。

紀元2600年の輝かしい式典の、田舎でのかすかな?賑わい。 

紀元節・天長節の話。学校の式の後、まんじゅうをもらったこと。

校長先生が毎度、姿勢を正して恭しく教育勅語を読み上げ、
それをみんなが畏まって聞いていた事。

天皇の御真影や教育勅語を納めた奉安殿というものがあって、
前を通る時には必ず拝礼したこと。

滅私奉公。修身の素晴らしい教え。

ヤマトタケルや金鶏のこと。

そして軍歌『愛国行進曲』『海ゆかば』を歌って聞かせた。

日本は素晴らしい国だった、という話だった。

  (紀元2600年式典は、1940年(昭和15年)である。母親は10歳。

  私が、昭和40年記念・読売新聞縮刷版で戦争と敗戦を知った年である。

  翌年には真珠湾攻撃。) 


現人神と言われた、とは聞いたことがあったが、他のことは大半が初耳だった。

軍歌は聞いて知っている曲があったが、『愛国行進曲』は全く聞いたことがなかった。
『海ゆかば』は名前だけ知っていたが、歌は初耳だった。

母親の口からズラズラと大量に出てきた、ほとんど知らない話に、
私は呆然としていた。口を挟む余地もなかった。

自分の目の前の話としては、聞いたこともなかった。
その話を聞いて、母親の目から見ると、天皇は本当に神様のように思えた。

学校の先生が「へへえっ」と、平身低頭で、写真や勅語に怖れ畏まっている。
それを見せている訳だから、生徒の自分もそうしなければならない。
それが学校だった。

一瞬、天皇は本当に神様だ、という気がした。そして慌てて考えた。

いいや、日本は負けたんだ。天皇が神様であるわけはない。
それから、それから、と、私はねじのまき直しに躍起になったのだった。


これが戦前の話だろうか?ギョッとした。
これが授業の流れで聞くべきこと、であるはずがない。

そして今思うのに、敗戦から20年も経って、世の中がみんな民主主義
で染まってしまっているのに、

あの人も、よくあんな話を、あんな調子で、私に聞かせたものだなあ、
と思う。

敗戦後の20年は、私の母親にとって、一体何だったのだろう。
覚えているのが、敗戦や窮迫のことではなく、天皇神様の話なのだった。


と言うよりは、母親として、戦前のことで、これこそ言わねばならないことだと
思ったのが、

戦前の日本は素晴らしい、美しい国だった、ということだった。

そういうことだろうか。

しかし私は、天皇神様と、全員が一致しているという状態が、
不気味で恐ろしいと思った、ということである。



*****
私は、敗戦というのは、国の方向が間違っていた、ということだと思っていた。

東条英機 (この人の処刑が印象が強かったと書いたことがあるが)
を始めとする戦犯たちが間違ったと言うより、

また、間違いの内容についていろいろ言われていたにしても、
それらどう間違った、という説らしきものより、

自分が、この大敗戦は間違いの結果だと思ったこと、
そして何か間違ったこと、それが問題だ、と思っていた。

敗戦原因論なんか、私が聞いても、わかるようなものである訳がない。

しかし子供の私にも、はっきりとおかしいと思える大問題が、
目の前に出てきたのだ。



そして、この天皇神様論は、間違っていることの大きな一つに見え始めたので、
気にし始めたのだった。



20231219

私が一人、手を上げなかったということは、伝わってきたみたいだった。

しかし、父親が、「天皇が神様だったら、みんな生きてるはずだ」
と言ったので、報告者は返す言葉を無くしたらしい。

この「みんな」というのは、戦友だろうな、と思う。

父親が筋金入りの戦闘員だったことは確かだろうけれど、
右寄りだった、とか、いうことはないようだし、その頭の中はさっぱりわからない。


20231220

父親は母親とは10歳も年が違い、国民学校以前の教育だった。

 (国民学校というのは、戦時中の中でも、
 かなり強烈な特殊・戦時教育だったらしい。)

しかも父親は、「脳髄に沁み込むような?」幼少時集団教育に、
どれだけ接触したか、全く怪しい経歴だった。

そして、多数の戦友が戦死するのを、自分の目で見た人だった。


対する母親は、戦時の特殊な集団教育に、
どっぷりと浸って育った人だった。

ふいに私に、戦前の話を聞かせて欲しい、と言われた時、
思い出すのは、今とは全然違う、自分が受けた教育のことだった、
ということだろうか。

戦死も戦没者も空襲も、自分では見ていない。


私が世界の国々に興味を持ったのは、第二次世界大戦で世界が二分されていた、
ということが動機で世界地図を見たから、というのも確かだが、

そもそも、子供向けの本が、世界各地の情報で一杯だったこと、
もあるのではないだろうか。

小公子・小公女・家なき子・家なき娘・王子と乞食・トムソーヤーの冒険・
宝島・ああ無情・ロビンフッドの冒険

少なくともこれらの本は、伯母の嫁ぎ先のハンコが入った、頂き物の本だった。
日本のものなんか、今思い出すと、ありはしない。


私はその頃、学校の図書室で貸し出しがあるたびに本を借りだし、
文学系の本はほとんど読んでしまった。

偉人伝もそうである。
ジュリアス・シーザーだけは、読めなかった。わからなかった、という印象がある。

しかし寺島弘隆は、私が本を読む、というのを、忌み嫌い、憎み嫌った、感じだった。
こういう人が先生をしている、ということもあるのである。

子供が自分より知識を増やす状態というのが、生意気で、分をわきまえない、
嫌味で出過ぎる、許しがたい不愉快な存在、に見える人もいる。

子供は子供の領分だけやっていればいいのであって、それ以上のことは無用で不快。
子供らしい、ことが褒めるべきことなのだ。

 

私にとってはこれも、警告として書いておきたいことだ。叩き潰す教師の存在である。
これも普通の話だ。一々、たじろいではいられない。

学校や先生は正しい、なんて、天の神様のように思っていたら、潰されてしまう。
公教育は、そういう先生や、先生の考え方を、許容している場所である。

天の神様でなければならない、「正しい」先生しかいない、
ように感じている生徒や親がいたら、それは違う、ということを知らせなければならない。

寺島弘隆の、家庭訪問の時の、私についてのご託宣
や家族についての言及は、確かに犯罪だった。

特段の不可もない生徒の成績を、単純作業の提出をしなかった、という理由で、
「学力」の評価を下げる、なんてのも、犯罪である。

どこかの中学で起きた、態度の校内記述の誤記も犯罪なら、
その誤記を元に、進路不可を宣言するのも犯罪である。



いつか確認しなければならないけれども、『通知表をやめた』という本の校長が言うことは、
子供は子供の領分だけやっていればいいのである。(それ以上のことは無用で不快)。
に似ている、と思った。

小学校教育には指導要領で決まっている内容がある。その内容を押さえればいいのであって、
それ以上のことは必要ない。だから、みんな同じであって、成績なんか、つける必要はない。

そう言ってたような気がする。



20231228

人々は、戦後になって、古墳が全国の至る所にある、
のを知るようになった。

戦前は、古墳の全国分布など、一般にまでは、
よくは知られていなかったはず。

各地それぞれの仕方で、その地の古墳の存在を認識していた、
に過ぎない、と思う。

(私が祖母に連れられてお参りした二つの古墳も、
 木製の鳥居があったり、祠があったりして、

 誰となく、おまつりするものだと認識していたようだった。)

しかし人々は戦後、天皇陵とされていた前方後円墳の他に、

被葬者不明の前方後円墳が、巨大なのも含めて、
4千基から5千基もあるのに気が付いた。

全国把握が試みられ、人が知るようになったのは、戦後のことである。

しかし、天皇家の文献に、そのような古墳造営時代の記述はない。

天皇家の文献である古事記や日本書紀には、
天皇家の関係者がどこそこに葬られた、という記事しかない。



では、連綿と続く天皇家の系図に時期的に並ぶ、その他の古墳群は、
一体、誰のものなのか。

映像早回しのように、この世界を物質や生命の連続として想像するならば、
その大量の古墳群の被葬者の子孫は、生物としての生命連続の中で、

それなりの存在を示し続けた社会層ではあるまいか。

とすると、それは、各地の在地で強力な力を示した武士層に、
遷移していくのではあるまいか。

そして、なぜ天皇家文献は、この全国的な大量の古墳造営活動について、
一言も言及しないのか。

支配層として、少しでも各地に人を派遣すれば、
否応なく目に入って来るものを、なぜ書かないのか。

そこにあるのは、古墳時代があったことを、決して認めたくない、
という思いではないだろうか。

自分も造営に参加して全国展開したはずのことについて、なぜ、
こうだった、と、自分で説明しようとしないのだろう。

あれほどの大事業、どれだけ大変だったか、
どうして全国でそのようなことをすることになったのか、

自分が率先してやったことなら、その意義を、一筆書いておこう、
という気を起こすのではないだろうか。

もし後に、それは無駄だった、という認識に変わったとしても、

古墳造営期間の行動の動機について、自分が弁解しておこう、
と思うのではあるまいか。

しかし天皇家関係者は、すべてを闇に葬ってしまった。

自分が関わった、かもしれない、ことについても、とにかく、
すべてをなかったこと、に、してしまったのだ。

この姿勢に何を想像できるだろうか。


王朝交代説は昔からあるけれど、私のこの論点は、誰も取り上げない。

私は長い間、この話を持ち歩いてきた。
そして「黙れ」と言われたり、脅迫めいた圧力を感じたり、
したことはない。

しかし、このような明白な事実が取り上げられない、
というのも、情報統制があるのだと思う。



20231229

生徒が単純作業の課題をやってこなくて、テスト成績は良かった、という場合、

学力は付いてる、自分が教えようとしたことは、十分身についている、
そう思って、総合学力評価を下げるようなことは、私ならしない、ような気がする。

あの時、主任が出てきて、

単純作業による加点は、テスト成績だけでの評価ということではなく、
できない子供たちのために、クラス全員の救済のために、やっていることである。

教師はクラス全員のことを考えている、
お宅の子供の事だけ考えているわけではない。

言うことを聞かない子供が悪い。

テストの成績が学力のすべてではない。
テストの成績がすべてだと思うのは間違っている。


      (ここで私は、寺島弘隆のことを思い出した。
       成績には、人間性を加味すると言っていた、あの男を。)

      寺島弘隆は、確定的な事実誤認と、事実の解釈間違いと、
      調査結果の解釈間違いと、男尊女卑、出る者はつぶす、という偏向人間だった。

      この男が言う、「人間性」「性格」とかいうもの自体が、すでにおかしかった。


      この中学の事例は、単純作業による加点、というインチキに基づく、
       杓子定規で融通の効かない判断、が原因である。

     「単純作業による加点というインチキに参加しない生徒は、罰点する。
      その評価方法がおかしいだろう。」


        *私はそれが表現できなかった。今後も続くなら、
         これからの人は、表現できるようにと祈る。

      しかし学校は、教師は正しい、としか言わない。

      私が中学時代に混沌に落ち込んだように、世界で発せられる論理は、
      言ってみれば常におかしいのである。おかしくても人は生きる。それがおかしい。
  
      そしてそれが普通なのだ。)


 教師は親が知らない学校での子どもの様子を、良く知っている。

そして、私にも子供がいる、と脅す


私は、今自分がさらに追い詰めれば、クラス全体の成績を動かさなければならない、
という、大ごとになることを考えざるを得なかった。

しかし、あのような所業は、人間業ではない。大ごとにするべきだった。

大ごとだらけの世の中では、大したことではない、と、いなされるかもしれないが、
執拗に闘うべきである。絶対に忘れるな。

あの主任は、私を女だと思って、なめていたと思う。


大体、誰もがそのインチキに参加したなら、成績の悪い子が相対的にUPする、ことになる、
ような仕組みなのだろうか。

テストが共通なら、テストと総合評価の集計は、学校評価としての成績が上がる、
かも知れない。

しかし、できない子供を救済する、という目的には、沿わないような気がする。
全員が上がるわけだろう?対外的には、その子供はUPするのかな?

インチキに参加しなかった子供だけは、叩き潰されることは確かだ。


人間世界は生きづらい。それが普通だ。蹴とばされるのが普通だ。
闘うのが生きるということだ。絶対に忘れるな。


飯田は言った。

  今まで、こんなことを言ってきた親はいない。

  単純作業を提出しなかった子供が、いたこともある。
  しかし成績が下がったことで、親が苦情を言ってきたこと、はなかった。

  みんな、子供が悪いと認めた。
  それなのにお宅は何なんですか。

このように、苦情を言う私が悪い。そんなことをする子供が悪い。
学校は正しい。

そういう主張しか聞けなかった。

生の人間と対話する一瞬で勝負するのは難しい。
飯田は勝ったと思っているだろう。

私は決してあきらめない。絶対に許さない。
偉そうに、何なのさ。



それに私は、自分の中学時代にも、この英語の科目で、同じ課題を出されたような
気がするのだ。

私は、何て馬鹿な課題を出すのだろう、と思った。
その時、成績に加味する、という言葉も繰り返されたような気がする。

何やら、脅迫めいた脅し文句のようだ、と思った気がする。変だと。
脅すほどの何かがあるとは思えなかった。

そして私も、当時、こんなことを成績に入れるなんてことは、あるとも思えなかった。
私はその脅迫を、アホらしいと、脅迫とも思わなかった。

本当に実現する脅迫だと感じ、妙なことをする、と不審を感じたら、
教師に対する不信感を強めただろう。

飯田が言うには、
「成績に加味すると言っているのに、言うことを聞かないから、こうなった」
と言うのだが、

「成績に加味する」と言うのがおかしいから、不信感を持ったのだろう。

      *万引きなどしていないのに、万引きしたという誤記を根拠に、
        教師に、

       「あなたは万引きしたのだから、
         思うような進学はできないのよ」、と、何度も詰め寄られた例。

        「進学できないと言っているのに、進学希望ばかり出して言うことを聞かないから、親に言う。」
         そう言ったら、その生徒は自殺してしまった。

       重大事案だけど、この鉄板みたいな対応は、どこか似ていはしないだろうか。

実現させる学校もすごい。しかし私も、自分でも経験があるような気がする。
だからこれが普通だと理解した上で、学校の歪んだ強圧に抵抗し、闘う必要があると思う。

学校の先生は、もっと理解があるべきものだと信じた息子が、気の毒だった。

しかし、ほんの50年遡れば、人間理解など超える社会だったのだ。
人間は、そう簡単に理解など、するようなものではない。

学校とは、そういう所である。


だから私は、いくらかでも無理解・鉄板対応の事例を知り、
学校体制や教師というものに、心で備えることを、子供に教えなければならない、
と思うのだ。

人を思いやり、理解し合い、心一つにして協力し合いましょう、
などと教える教師の、

建前と本音、虚実の実相を見極めよう。

たとえ、反論に失敗しても、

決してあきらめずに、反論・反撃の機会を待ち続け、
狙って行動を起こすべきである。

たとえ私と寺島弘隆のように、その反撃が、
多分亡くなってしまってからのことになったとしても、決して忘れるな。あきらめるな。永遠に。

そして、反撃せよ。そうしないと、人は絶対に、わかるということはない。

自分の体験は、後に続く子供たちの参考になるはずだと信じ、
決して反撃をあきらめてはいけない。

それは実際の大人の世界の、巧妙で奇妙で入り組んで複雑な、まやかしの論理の、発見の道である。


20231231


飯田の「言うことを聞かない子供」という宣言は、

「悪いことをとがめられても、やめない子供」「悪い子供」「子供が悪い」
という宣言のように聞こえる。


しかし、教師が、「みんなでインチキをやろう」と号令し、
それに疑問を抱いた子供を、


「言うことを聞かない子供」と排除宣言している
こともあるのである。


集団圧力の中では、一人で抵抗することは不可能である。



私の経験では、こういう言葉による宣言が、
まるで違う意味になって、人々に広がることが、よくあった。

言葉とは何か。記号としては共通項であるはず、である。

しかし、ある人の頭の中で想起する意味と、
他者が想起する意味は、全く別のものになる。


注文を受けた商品の数が8だ、というようなことで、
人の想起する概念が違ったら大変である。

しかし日常生活で、重大なことで意味が違うことがよくある。



問題の成績作りというのは、以下のようなものだ。

 「ほんの少しの単語の書き取りの定期的な提出」(多分)を、
  総合学力評価に加点する。

     「さしたる労力も要しない、全く勉強にならないような程度の単純作業」、
     宿題にも値しない程度だというのを、県教委には説明できなかった。
 

      県教委が調査に来たそうである。困った事をする親だと評判だと、
      同級の親から耳に入った。そして、県教委は、私には分がないと判断した。


       飯田が私に堂々と、客観的な!数字として、提出不備の証拠がある、
       そう説明したように、それが通ったのではないかと思われる。


      *息子は随分難しい勉強をしてきた、と口にすると、飯田は「ケッ」と、
        ムカついたような顔をした。
     

  その加点の割合も、授業態度の評価という枠の中で、
  自由に操作できる。(多分)

定期テストの占める割合を低く設定し、

授業態度の割合として、
「単語の書き取りの定期的な提出」加点を大きくすれば、

「単語書き取り作業」が、成績ランクに大きく響く、だろう。

授業無視や、授業妨害や、教師罵倒などという論外な行動など、全く何もなくても、
「単語書き取り作業」提出課題一つで、過激な操作が発生した。

私は肝をつぶした。

結局何が重視されているのかと言えば、
無理でも問答無用で従う、全く疑問を持たない子供、であること、である。
  

それは今の学校体制の中で、重視されていることなのだろうか?
制度として、この成績作りは正統視されているのだろうか。

それがわからない。私はインチキだと思う。
しかし、自分の知っていることだけでは、わからないのだ。

そしてこの学校の、飯田という主任の、いやらしいこと。忘れるわけにはいかない。

おとなしい男だから、首をちょん切っても文句も言われない、と思ったら、
バスっと首をちょん切るのだ。


あの時は、苦情を言って回るのに失敗した。

私は夫と過激に問題を抱えていたし、経済的にも、夫のけたたましい口出しのおかげで、
貧乏性な生活しかできなかった。

   (お金への執着は、普通ではない暮らしだった。その分、今頃ゆとりがある。)

私の論理書執筆活動は、うまく進まなかった。

県教委に訴えたが、校長には訴えられなかった。夫の過激な暴言下にあったので、
校長にまで言う気力が湧いてこなかった。自分の精神状態を保つのに精いっぱいだった。

そういう家庭の子供なんか、見劣りし、馬鹿で無能の弱い家だと、思うのも無理はない。

私は「想像」する。息子の家庭状況も見透かして、「成績」で叩き潰せ、と、
号令をかけた学校内の力、があったのだと。

弱そうだから、叩き潰しても危険はない。生意気な奴は見せしめにするものだ、と。

何分、新米の1年目の女の先生だった。


しかし、私は忘れない。記録して、人に読ませたい。

学校の先生様様、としか思わない人々にも、内情というものをうかがい知る機会が、
あって然るべきである。

そして学校関係者にも、これが教育の本質かどうか、考える機会があるべきである。



ある時、私立の学校の編入条件に
「学校ともめたご家庭のお子さんは、お預かりできません」
というのを見た。

文句を言った過去のある親は、シャットアウトだと言っているようだった。

それだけ危険なことなのである。そして一旦、事が決まったら、引き返しはできない。




20240101

テストで確認する、以下のような内容、

たとえば、日本語を見て英単語を思うかベる、英単語を見て日本語を思い浮かべる、
日本文を見て英語で文章を作る、表現を変える、
英文の意味を読み取る。

これらは、単語を少々書けば、マスターできるわけではない。

これらは学力として、考慮する内容ではない、と言っているのと同じだった。
これでは、英語を勉強する意味はない、と言っているみたいである。

文科省は、英語は勉強しなくても良い、と言っているのだろうか。

この中学校の評価方法は、文科省が英語の勉強で身につけるべきだ
と言っている事に、適合しているのだろうか。

それとも、何も決まっておらず、教師の裁量なのだろうか。

県教委と話をした時、私の記憶によれば、担当者は、5段階評価の、学力テストと、
授業で見る子供の態度や姿勢や力についての評価の配分は、教師の裁量だと言っていた。

それだけ聞くと、教師の行動に、「基準」を無視した違反、は、ないことになる。

しかし、こんなインチキが堂々とまかり通るのは、許せない。

そして、そのようなことは、事前に子供たちや親に、知らされている訳ではない。

つまり、こういうインチキもできるということが確定事項である、なんて、
全く了解事項ではない。

教師の教師としての、良心?にまかされていて、教師は何でもできるのである。













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